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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関の人物 河野 タカ 

河野 タカ こうの たか(1891-1980)


明治24年、現在の下関市彦島本村町で生まれました。
彦島実践女学校を卒業。大正6年に東京武田高等女学校専攻科へ入学。その後、大妻高等女学校高等科手芸科に入学し、同9年、卒業と同時に母校の東京武田高等女学校裁縫教師として就職し、教員生活の第一歩を踏み出しています。
同14年、かねて念願していた女子専門教育を実現させるため下関に帰り、次の年、上田中大正通りに河野高等技芸院を創設。同17年、桜山町に新校舎用地を購入。新校舎の実現は六年後のことでした。
戦後は、教育制度も大きくかわり、学制改革により新制中学校が発足すると、同22年、下関河野学園中学校を創設。続いて、新学制による下関河野学園高等学校を開校し、校長を勤めています。
同25年には、幼児教育の重要性を認識し、市内唯一の私立幼稚園下関河野学園幼稚園を開設、さらに、同37年、下関女子短期大学家政科を創設し学長に就任。
幼稚園・中学・高校・短大と一貫教育の場をつくりました。80歳を過ぎ、なお教壇に立ち、生涯を女子教育にささげました。
同55年ななくなりました。享年88歳でした。


「下関の人物」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/12/02 Mon. 11:13 [edit]

category: 下関あれこれ

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02

下関の人物 小暮 実千代 

小暮 実千代 こぐれ みちよ(1918-1990)


大正7年、下関市彦島町で生まれました。
本名は、和田つま、梅光女学院へ進み、日本大学芸術科を卒業。
在学中から松竹映画に出演し、入社一週間目に菊池寛原作の「結婚天気図」の主役に抜擢され、そのまま映画界入りしています。
同19年には満州に渡り、スクリーンを離れますが、引き揚げて帰ると、再び松竹に誘われ「許された夜」でカムバックしています。
以後、「青い山脈」で毎日映画コンクール助演演技賞を受賞、スターの地位を不動のものにしました。
出演した作品は「執行猶予」「雪夫人絵図」「帰郷」「自由学校」「源氏物語」「千羽鶴」など300本以上を数えたほか、舞台やテレビでも活躍しています。
また、広告界に進出した俳優の先駆けで、マダムジュジュ・クリームや電気洗濯機の「サンヨー夫人」のコマーシャルは有名です。
さらに、女優として初めて厚生省から保護司に任命され、全国各地から保護司としての講演依頼が殺到、寸暇をさいて要望にこたえていました。
群馬県の「鐘の鳴る丘少年の家」講演会長を勤めるなど、ボランティア活動にも熱心に取り組み、社交家で情けに厚い人でした。
平成2年に亡くなりました。享年72歳でした。


「下関の人物」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/11/30 Sat. 09:32 [edit]

category: 下関あれこれ

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30

廃止のあとで・・・路面電車のその後 

廃止のあとで・・・路面電車のその後

 昭和46年2月6日をもって電車は廃止されましたが、その後山陽電気軌道の路面電車はさまざまな場所で活躍しました。

 301号車は下関市長府の忌宮神社境内の西側鳥居近くへ設置され”電車集会所”として活用されました。また、601号車は下関市立下関図書館に寄贈され、こどもたちの読書室として活用されました。残念ながら老朽化のため、301号車は昭和49年6月に、601号車は平成8年1月にそれぞれ解体撤去されています。

 一方で車両7両が高知県の土佐電気鉄道へ譲渡され、引き続き路面電車として活躍しています。平成17年にはその内702号車が有志の方々により土佐電鉄の塗装から山陽電軌時代の塗装に復元され、約2年間「ふくふく下関号」として運行されました。


サンデン交通設立90周年特設ページより

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Posted on 2019/11/29 Fri. 09:47 [edit]

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身投げ岩 

身投げ岩


 寿永4年3月、源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いでは、安徳天皇に付き添った祖母二位の尼(時子)や母建札門院(徳子)をはじめとする女性達も多くが一門と共に船出しましたが、女性は戦に同行することを強制されませんでしたので多くの女性が島に残って戦いの行方を島影で息を殺して見守っていました。

 壇ノ浦の合戦は罪もない彦島の漁師が担っていた平家方の船の船頭を次々に射殺して船の自由を奪う作戦に出た源義経の奇策によって平家一門の滅亡で戦が終わり、源義経を総大将とする源氏軍は串崎(現在の長府外浦)、赤間関(現在の唐戸付近)、彦島に次々に上陸しました。
「新平家物語」によると義経は彦島に上陸して仮の住まいをしつらえたとされています。源氏軍は京都を出て以来の、瀬戸内の凶作による食糧難や、義経得意の不眠不休の強行軍のために、軍のモラルは非常に低下しており、上陸した兵士の多くは半ば暴徒と化して、民家の倉や田畑を荒らし回りました。

 平宗盛に暇乞いをした京都の女官や雑仕女(ぞうしめ)たちは、島内の平家一門の住居跡や漁師の家にかくまわれるなどして潜んでいましたが、彼女たちは、ここまで日夜、戦に明け暮れてきた暴徒達の格好の標的となり、源氏の兵士達は許されざる陵辱の限りを尽くしました。
 多くの女性は乱暴を受けた後に殺され、また、誇り高き平家の女性達は命だけは助けられてもその多くは自ら命を絶ちました。

 ここ身投げ岩近辺は彦島の中では壇ノ浦からはもっとも遠く離れた地であり、義経が占領した御座所(彦島城)からも遠く離れた寂しい漁村でしたので、特に多くの女性達が隠れていました。したがって、被害にあった女性ももっとも多く、彼女たちはある者は源氏の兵の手から逃れるため、ある者は受けた辱めに耐え切れず、次々にこの身投げ岩の断崖から当時日本でもっとも流れの速い海峡だったこの小瀬戸に身を躍らせたのでした。

 身投げ岩の上にたつ桃崎稲荷大明神は800年たった今でも花が絶えることはありません。
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Posted on 2019/11/28 Thu. 09:07 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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28

電車の開業日は大正?昭和? 

電車の開業日は大正?昭和?

 山陽電気軌道株式会社は大正13年9月27日に設立されましたが、それから更に2年をかけて長府から下関に至る国道2号線の改良工事と併せて電車の軌道敷設が行われました。
 沿革でも写真をご紹介しましたが、最初の電車8両は大八車に載せて、国鉄長府駅より牛と馬に引かせ、のらりのらりと運んだそうです。

 そしてついに大正15年12月25日の開通を迎え、午前10時より開通報告祭を長府松原車庫にて挙行する予定でした。しかし、この日の深夜に大正天皇が崩御され、新しい元号が昭和と発表されました。
 そのため山陽電軌は大正時代の最後の日、昭和時代の最初の日に開通したといえます。

 翌昭和2年3月27日からはたくさんの花輪と電燈をしつらえた「花電車」が運転され、4月9日に改めて開通祝賀式が挙行されました。

写真は昭和3年4月の長関第二期線(松原~壇之浦間)の開通式の風景
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Posted on 2019/11/28 Thu. 08:50 [edit]

category: 下関あれこれ

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きぬかけ岩 

きぬかけ岩


 むかし、河野権之進という人が、田ノ首という村からの帰り道、小さな山すそにさしかかると、そこに今まで見たこともない流れがありました。
 不思議に思って流れにさかのぼって行くと林の中に湧き水があり、妙齢の姫が衣を濯いでいました。それはそれは美しい姫で、権之進は思わず声をかけました。
『あなたさまは、どこからおいでなされたのかな』
 すると姫は眼をうるませて答えました。
『私は、伊予の国に住んでいましたが、さる戦いで敗れ、夫と生き別れになりました。そこで、こうして諸国を尋ね歩いていますが、かいもく消息を掴めません。もし、何かお心当たりでもございましたらお教えください』
 権之進は哀れに思って姫を自分の家に連れて帰り、その夜はゆっくり休ませました。
 ところが翌朝、眼をさましてみると、姫の姿が見当たりません。驚いた権之進は八方手分けして捜しましたが、とうとう行く方をつかむことが出来ませんでした。

 そのうち権之進は、忘れるともなく忘れてしまっていましたが、数十日たったある日、姫の衣が小戸の大岩にかけられてあるのを、浦びとが見つけて大騒ぎになりました。
 そこで初めて権之進は、姫が急潮に身を投げたことを知り、その岩に地蔵尊を建てて冥福を祈りました。

 いつの頃からか、浦びとたちは、姫が衣を濯いでいた流れを『姫ノ水』、衣がかけられてあった大岩を『きぬかけ岩』と呼ぶようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
亀山叢書『下関の伝説』や『馬関太平記』には、河野権之進のことを『河野通久の四代目権之進』と書かれている。
しかし権之進は、三代目河野通里の弟で、元仁元年(1224年)一月二十二日、園田一学の子息、学之助の長女と結婚し、西山に分家しており、四代目通久の伯父にあたる人物である。
ところで、言外に保元の乱を匂わせるこの話が、それから七、八十年を経た後もなお、妙齢の姫として登場させるおかしさがたまらない。

ここで注意しておきたいことは、一般には、身投げ石、身投げ岩、きぬかけ石、きぬかけ岩が、すべて一つの岩であると伝えられていることである。
しかし、多くの古老たちは、それは誤りだとくやしがる。
本当は小戸の大岩は六つに分かれていて、東から順次、本書に書いた順にその名が付されてあり、五番目が菩薩岩、六番目が地蔵岩だというのである。
ただ、これらの岩を総称した場合『身投げ岩』あるいは『きぬかけ岩』と呼んでいたに過ぎない。
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Posted on 2019/11/27 Wed. 11:09 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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下関にあった球場と遊園地 

下関にあった球場と遊園地

 平成25年9月14日に関門海峡沿いのあるかぽーと地区に「はい!からっと横丁」がオープンしました。また、隣には「しものせき水族館海響館」もあり、観光スポットとなっています。実は山陽電気軌道でもその昔遊園地を運営していました。

 最初に開業したのは外浦遊園地です。大正14年6月に長府外浦の土地約二町二反五畝二九歩、約22,000㎡の土地に小動物園・花壇等の施設を経営しました。その後は豊浦高等学校の敷地として利用されました。

 昭和4年4月には鳥居前電停・バス停近くに長府野球場が完成しました。総面積1万坪、収容人数はスタンド3000人、外野5000人でした。昭和6年11月24日にはアメリカ大リーグ選抜チームの試合が開催され、グローブ・ゲーリックといった現在では野球殿堂入りをしている有名選手らが参加しました(結果は八幡製鉄8-17大リーグ選抜)。

 また、長府球場の隣接地には昭和7年4月に長府楽園地が開場しました。昭和7年に発行された『山陽電軌沿線案内』には「西日本の宝塚と称呼されて、近在は素より遠く北九州方面各都市の人士行楽の一楽園として殺到殷盛を極る」と紹介されています。大庭園、九十尺(約27m)の大滑り台・シーソー・廻転盤などの遊具や、約30匹の猿がいるモンキーハウス、また大浴場・映画館・演芸館がありました。しかしながら戦局の拡大により軍需工場として神戸製鋼所長府工場が建設されることから、昭和13年8月に長府球場・楽園地ともに閉鎖されました。

 戦後は長府外浦に下関水族館が開設されたのを機に再び遊園地の経営に着手し、昭和32年3月21日に長府遊園地が開園しました。長府黒門の敷地には近隣の遊園地にはない目新しい観覧車・メリーゴーランド・オクトパスといった遊具が、水族館の隣接地には食事・休憩・土産物販売などを行なうサービスセンターがありました。昭和34年には催事を開催する山電パークも開設されましたが、山電パークは翌35年に閉園し、昭和58年にはその跡地に下関市立美術館が開館しています。


サンデン交通設立90周年特設ページより

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Posted on 2019/11/27 Wed. 10:16 [edit]

category: 下関あれこれ

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桃崎稲荷大明神 

桃崎稲荷大明神


 かつてこのあたりは小瀬戸の風景の中でも最も美しい場所と言われており、対岸には高級料亭が軒を並べ、漁船に篝火をともし、捕れたての魚を客に振る舞う船遊び(小門の夜焚)も盛んでしたが、大正から昭和にかけて現在の大和町付近の大規模な埋め立てが行われ、潮の流れが変わってしまい、今はもうその面影もありません。
 その一角にあるこの身投げ岩は緑の木立を背景にいくつもの巨岩が屹立している場所で、地形的には老の山の山かげにあり、入り組んだ細い路地の奥なので通行人もほとんどなく、身投げ岩の存在は一般にはあまり知られていません。

 12世紀後半の源平の時代、ここ彦島は平清盛の息子、平知盛の所領地でした。当時平家は木曽義仲によって京都を追われ、瀬戸内や九州各地を流浪する身となっていました。寿永4年(1185)2月、屋島の合戦で敗れた平宗盛を総大将とする平家一門は、平知盛が平定した瀬戸内や、九州の平家方を頼りにして体制の立て直しを計ろうとして、瀬戸内の西側の守りの要衝である彦島にやってきました。

 彦島は平知盛の築いた彦島城を中心とした平家の要塞となっており、一門を追って西下してくる源義経を迎え撃つ準備が着々と進められました。そして、寿永4年3月、源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いが起きるわけですが、この戦いに平家方はここ彦島の福良(現在の福浦港)を最期の出船の港とし、海峡の潮の流れを知り尽くした猛将平知盛の指揮のもと天皇の御座所を持つ巨大な唐船をはじめとした多くの船で次々に海峡に出ていきました。
 安徳天皇に付き添った祖母二位の尼(時子)や母建札門院(徳子)をはじめとする女性達も多くが一門と共に船出しましたが、平宗盛は女性には自分たちと共に戦に出ることを強制せず、希望する者は一門から離れて島に残ることを許しましたので多くの女性が島に残って戦いの行方を島影で息を殺して見守っていました。

 壇ノ浦の合戦は、当初は潮の流れを借りた平家方が優勢でしたが、四国や九州から参戦していた郎党の相次ぐ離反や、当時の舟戦のルールを破って、平家方の船の船頭を次々に射殺して船の自由を奪う作戦に出た源義経の奇策によって、朝から始まった戦は夕刻には平家の敗色が濃くなっていました。

 運命を悟った平家一門が男と言わず女と言わず次々に壇ノ浦に入水して源平の最期の合戦は源氏方の勝利で終わりました。
 このとき、安徳天皇は祖母二位の尼に抱かれて入水し、天皇の象徴である三種の神器のうちのひとつである宝剣も失われました。

 戦が終わり、源義経を総大将とする源氏軍は串崎(現在の長府外浦)、赤間関(現在の唐戸付近)、彦島に次々に上陸しました。「新平家物語」によると義経は彦島に、梶原景時は串崎に上陸して仮の住まいをしつらえたとされています。源氏軍は京都を出て以来の、瀬戸内の凶作による食糧難や、義経得意の不眠不休の強行軍のために、軍のモラルは非常に低下しており、上陸した兵士の多くは半ば暴徒と化して、民家の倉や田畑を荒らし回りました。

 平宗盛に暇乞いをした京都の女官や雑仕女(ぞうしめ)たちは、島内の平家一門の住居跡や漁師の家にかくまわれるなどして潜んでいましたが、彼女たちは、ここまで日夜、戦に明け暮れてきた暴徒達の格好の標的となり、源氏の兵士達は許されざる陵辱の限りを尽くしました。多くの女性は乱暴を受けた後に殺され、また、誇り高き平家の女性達は命だけは助けられてもその多くは自ら命を絶ちました。

 ここ身投げ岩近辺は彦島の中では壇ノ浦からはもっとも遠く離れた地であり、義経が占領した御座所(彦島城)からも遠く離れた寂しい漁村でしたので、特に多くの女性達が隠れていました。したがって、被害にあった女性ももっとも多く、彼女たちはある者は源氏の兵の手から逃れるため、ある者は受けた辱めに耐え切れず、次々にこの身投げ岩の断崖から当時日本でもっとも流れの速い海峡だったこの小瀬戸に身を躍らせたのでした。

 彦島で細々と漁師を営んでいた男達は、島の人々を非常に大切に扱った知盛のお役に立てるなら・・・と、平家の軍船の舵取りや水先案内人として一門に同行しました。
 それまでの水上戦の常識であれば、彼らのような現地で雇われた水夫達は、たとえ平家が滅ぶとも、命だけは助けられるのが当然でしたが、義経の奇策によって、源平の争いにはなんら関係のない彼らまでもが皆殺しにされ、また、島に残った女性達もその源氏の兵士達の傍若無人な振る舞いによって多くが命を落としました。

 現在の島には源氏にまつわる史蹟は何一つ語り継がれておらず、源平の合戦から800年がたった今でも、この地は強烈な「平家贔屓(びいき)」の地として、平家の哀話が大切に語り継がれています。
 平宗盛が早々に放棄して逃げたため、源氏軍の滞留がなく、彦島ほどの被害を受けなかった屋島(香川県)には源氏に関する史蹟が数多く残されて、今では観光資源として扱われているのとは非常に対照的です。
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Posted on 2019/11/26 Tue. 10:57 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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平 知盛の墓 

平 知盛の墓


赤間神宮の七盛塚の中に、宗盛や二位尼とともに、知盛の塚があることは、よく知られていますが、別の地にもあります。
場所は門司区で、関門国道トンネル車道出口から、すぐ右に折れると、間もなく右に甲宗八幡宮があります。

平知盛の墓は、この神社の社務所裏にあります。

以前は、神社裏山のもっと高い場所にあったそうですが、昭和28年の大水害で山が崩れ落ち、現在地になったと、神職のかたが教えてくれました。

この地に知盛の墓があることは、昭和55年に下関市民会館で行われた「海峡シンポジウム」で、北九州市歴史博物館の有川学芸員(当時)が、紹介され、知ることとなりました。

平知盛は、彦島を本陣として源氏を迎え撃つ手はずでしたが、武運つたなく壇之浦で、イカリを背負って最期を遂げた、とされています。

壇之浦合戦の前、彦島に城を構えていた、との説もありますが、海峡を見渡せる場所などで、いずれの地かは、さだかではありません。
由緒らしきものは、後年、清盛を弔って建てられたと伝えられる「清盛塚」が、江の浦町三丁目の山中にあるのみです。

赤間神宮下の海辺には、「碇知盛」の能や歌舞伎の説明板とともに、大きなイカリが据え付けてあり、その存在の偉大さを、今なお物語っています。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/11/26 Tue. 10:40 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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「東駅」の由来 

「東駅」の由来

 弊社の最寄りバス停は?と聞かれれば「東駅バス停です」とお答えしています。地元の方は聞き慣れていて特に意識されないかと思いますが、県外から来られるお客様より「駅のそばですか?」とご質問を頂いたことがあります。今は東駅という名の鉄道駅はなく、下関市内にも東駅という町名は存在しません。

 大正3年に長州鉄道によって東下関駅から幡生を通り小串までの鉄道が開設されました。大正14年6月に幡生-小串間は国有化されたため(後の山陰本線)、東下関駅-幡生間に電車が走っていましたが、昭和3年に山陽電気軌道が長州鉄道を合併しました。翌4年には東下関駅-唐戸間が新たに開通し、電車の一拠点となりました。

 電車は昭和46年に廃止され鉄軌道の駅としての東下関駅はなくなってしまいましたが、略して「東駅」としてバス停名だけでなくお店の名前にも「東駅店」と入るなど、現在でも地域の皆様に親しまれています。

 また、唐戸方面から東下関駅までは軌道(主に道路に線路が敷設される路面電車のこと)と、東駅から幡生駅までは鉄道と分類されていました。運転士OBの方のお話によると、軌道と鉄道では法律が異なるため、運転操作や標識の見方など覚えることがたくさんあり、倍苦労されたとのことです。


サンデン交通設立90周年特設ページより

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Posted on 2019/11/26 Tue. 10:27 [edit]

category: 下関あれこれ

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