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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

高杉終焉の地かいわい 

高杉終焉の地かいわい

利慶寺の前の小路は幾つもの路地に分かれていて、かつての新地遊郭の名残りも感じられるが、それを横目にしばらく西へ歩き、少し大きな通りを右折して北へ出よう。
国道191号線はすぐそこだ。
目の前に信号があったらボタンを押して国道を横断しよう。
そのまま山手に向かって小路を入る。
古い家並みの十字路の角に「左こんぴら北うら」と彫った標柱が建っている。
「左は金比羅から北浦街道へ」という意味で、この道は藩制時代の往還だったから当時のものがそのままの形で残っているわけだ。

その標柱から少し下関駅方向に戻ると左手に「小田海仙宅跡」の石柱がある。
萩毛利藩の御用絵師で、江戸、京都、大阪などで広くその名を知られた海仙は、頼山陽とも親しく分筆にも秀れていたというが、文久二年に七十八歳で世を去っている。

さて、ぶらたん氏のコースはここから再び先ほどの指導標まで戻ることになる。
だが、そのまま引き返しては面白くない。
途中の小路の奥をちょっと覗いてみよう。
そこはかつてのの新富座、戎座の跡地だが、嬉しいことに今でも「戎座」の看板だけが残っている。
そして懐かしい「新富湯」も依然として健在である。
だから、戎座の看板や新富湯の暖簾を眺めに遠くから杖をついてやってくる老人が何人かいる、という話を聞いたりすると、さもありなん、と、ついうなずきたくなろうというもの。

新地には江戸時代末期に芝居の掛小屋としての新地小屋があった。
それは明治になってから少し離れた場所に戎座と改めて開業されたがまもなくして、それは新富座となった。

「下関市の新地新開作新宅新田の新富座の障子の下にシラミが四匹、敷居の下にもシラミが四匹、尻を並べて舌出して芝居の最中に死んでいた」と唄っては、「シの字がナンボあったかあ」と当て合う他愛ない語呂遊びが流行るほど繁盛し市民に親しまれた新富座は、戦後間もなく全焼した。
その跡にできたのが明治時代の名前を引き継いだ戎座だが、これも約二十年間娯楽の灯をともし続けたものの、数年前にその営業を閉じた。
しかし、幕末の新地小屋から脈々と続いた「シントミ」と「エビス」の二つの名前は、裏町の弁天座、細江の稲荷座と共に下関市民の郷愁をそそるものがある。

先ほどの指導標の前にあるボーリング場は下関のボーリング熱の草分けで、その後、市内には十幾つのボーリング場が乱立した。
その大きな建物の裏には「高杉晋作終焉の地」と書かれた大標柱が建っている。
周囲に玉垣を巡らし鉄扉が閉じられているが、いつもきれいに掃き清められていて清々しい。

文久三年六月奇兵隊結成のために下関に出てきた高杉東行は、若い命の燃焼のままに藩を動かし国を揺さぶり、そして国を救う大活躍をしたが、無理がたたって結核を患って倒れた。
「白石正一郎日記」によれば慶応二年七月、小倉戦争の指揮中に病気を訴えた、とある。
高杉はその後も門司に渡って野営をしたり陣頭に立って指揮をとったが、過労は病状を悪化させ、ついには起き上がれぬ体になってしまった。
小倉攻めの作戦会議は高杉の枕辺に集まって開かれたりした。

そのうち小倉城が燃え落ちるとその方面の参謀職を前原一誠に譲って、桜山の奇兵隊営所とは名ばかりのあばら家へ移った。
そこで秋から厳しい冬へかけて、高杉は療養の身を横たえ、翌三年の正月すぎに新地の酒造家、林算九郎の屋敷に移ってきた。
そして四月十四日、満二十七歳と何ヶ月かの短い生涯をここで終えたのであった。

その終焉の地を隔てて建つ山門は中島名左衛門ゆかりの妙蓮寺である。
山門の二階には太鼓が奉納されていて、正面に方丈と庫裏、右手に本堂があり、親鸞上人像と茶筅塚もある。

中島名左衛門は幕末の洋式砲術家で、もともと長崎の出身だが長州藩に招かれて砲術指南役をつとめていた人物。
文久三年五月、軍議の席上で長州藩の海岸防備の不足を力説したが、庚申丸の艦長らは長州海軍を過信していたために論議は物別れとなり、その夜、新地の藤屋という旅館で何者とも知れぬ三人の刺客によって殺された。
遺体はこの妙蓮寺に葬られ、その墓も本堂の裏手に建てられているが、簡単に参拝できないのが残念だ。
いつでもお詣りできるように本堂の前あたりに移すことはできないものか、と、ぶらたん氏、ここを訪れるたびに嘆く。

ところで、妙蓮寺がなぜこの小路に面して建っているか、ということはつまり国道を背にしているということになるのだが、それは先にも書いたようにここが江戸時代の往還であったからだ。
すなわち現在の国道は了円寺あたりまで海が入り込んでいて人々は伊崎へ行くには渡し舟によるか、あるいは了円寺坂のたもとを巻いていかねばならなかった。
その後、埋め立てにより新地開作が出来上がると、今の新地の中心地あたりに橋が作られた。
それがあの懐かしい思案橋で、別名を永代橋とも呼んでいたという。

今では流行歌などにより思案橋といえば長崎と相場が決まっているが、「行こか戻ろか思案橋」の歌は下関が元祖だと胸を張る老人などもいて、この付近は実に楽しい。
稲荷町、豊前田、新地とつづく歓楽の名残りは、時折このような形でひょいと顔をだすこともある訳だ。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/05 Tue. 10:00 [edit]

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05

三蓮寺・海晏時・利慶寺 

三蓮寺・海晏時・利慶寺

蔀戸は平安時代の貴族建築の一種で、寝殿造りの「跳ね上げ式の建具」である。
一般住宅としては引き違い戸ができる安土桃山時代頃までに造られたが、江戸時代に入ってからは神社仏閣以外では使われなくなったといわれている。
その蔀戸は戦前には市内のあちこちで何軒か残っていたが、今ではここ伊崎と彦島福浦の一軒くらいのものだろう。

時代の流れと共に玄関や引き戸が次々とアルミサッシに変えられていく昨今、その風潮を拒否して蔀戸が生き続けているということは何よりも嬉しい。

三連寺は文久三年五月の攘夷決行に際して。萩本藩から下関入りした正規兵たちの一部の宿舎にあてられたお寺である。
しかし、本堂は最近、鉄筋造りに改装されて当時の面影はない。
その本堂の横から裏手へかけては墓地になっているが「権中僧正随空上人の碑」とか、「諸魚諸餌供養塚」が建っている。
裏面には嘉永五年とあるが横には安政四年十一月となっていて、この意味は判らない。

供養塚には鯛の絵が浮き彫りされてある。
「諸魚」はここが漁師町である関係からで、「諸餌」は人間にとってのあらゆる食べ物という意味であろうか、それとも魚を釣るための単なるエサであろうか。
いずれにしても供養塚は宗教的な匂いの他に、日本人らしいやさしさが感じられて心なごむ。

下関の河豚供養は俳句歳時記にも収録されていて全国的にも名高いが、その他にも雲丹供養もあれば包丁供養もあり、長門市には鯨の墓まである。
なんというあたたかさであろう。

三連寺の少し東よりの石鳥居は伊崎の鈴ヶ森さんと呼び親しまれている鈴ヶ森稲荷神社。
約九十段登ってあとの四十段は男坂といい右へそれて登る坂道は女坂という。
しかし、この男坂を登った正面の社殿は厳島神社である。
だから本当は伊崎の厳島さんと呼ぶべきところだが、新地にも同じ呼び名の神社があるので隣り合わせのお稲荷さんの名前をとって鈴ヶ森さんと呼びならしてきたのだ。

このお宮の裏山は、おどろ山とか茶臼山と名付けられた王城山で、平家の砦、つまり、お城があった丘陵だと伝えられる。
だから厳島神社は安芸の宮島と同じく平家の守護神だと古老たちは言う。

ところで鈴ヶ森という名は幡随院長兵衛と白井権八を思い出しそうだが、ここでは関門海峡の別名「硯の海」がなまったものとか、「鈴ふり海」が転じたものだとか、その伝えられるところは多い。
そんな古くからの話を聞くだけでも石段を喘いだ甲斐はあろうていうもの。
そして、もっと詳しく知りたいとお思いなら「下関二千年史」や「長門国志」「下関御開作風土記」などを繙けばいい。

くだりはお稲荷さんの朱塗りの鳥居をくぐろう。
石段を降りたところの駐車場を左に折れてしばらく行くと海晏寺の参道下に出る。

山門のそばに「禁不葷酒」と書いてあるが、現在では「ネギを食べて」どころではなく、境内にニンニクを植えたり酒場を経営したりしても誰もとがめはしないに違いない。
これもご時世か、と言っても禅宗のお寺には「禁葷酒入山門」と大きく刻んだ石柱はふさわしい。
そのそばに「小笠原流 盛花 瓶花教授」の看板がさがっているが、ここのお花教室の歴史は古い。
昔から多くのお嬢さんが花束を提げてこの山門をくぐっては花嫁修行に勤しんだ。

石段を登ると正面が本堂。
その屋根瓦や「海晏寺」と書かれた扁額、そしてふすま絵などに毛利家の定紋が描かれたり浮き出ていたりする。
殿様の厚い庇護を受けていたのだろう。
そういえばここの仏様は平家の守護仏だと伝えられている。
下関市内では彦島西楽寺の阿弥陀様が平重盛の守護仏だといわれているので双璧ということができようか。
その本堂には達磨大師の軸や驚くほどデカイ木魚などもあって、外に出ると墓地の前に豊川稲荷が祀られている。
神仏合体がここでも生きているわけだ。
そして、そばに聳え立つ大イチョウは当然のことながら下関市の保存樹木に指定されている。

鐘楼は、参道を登った右手にある。
その奥に建っている顕彰碑は約二百年前に詩や俳句や茶道の世界に広く名を知られ、寺子屋を開いて庶民教育にも力をつくした鈴木由己を讃えるものである。
この碑文は長府藩の儒学者、小田亨叔が書いたが、それは由己と亨叔の学問的なつながりを示すものとして貴重な資料となっている。
由己は寛政七年に八十七歳で歿し、亨叔は寛政十三年に五十五歳で入寂。

さて、海晏寺の参道を下って左の小路へ入ろう。
子供達の歌声などが聞こえて浄土真宗本願寺派の利慶寺が近い。
本当は「リケイジ」と読むのだが、市内の古い人々の中には「リキエイジ」と呼ぶ人も多い。
東の赤間神宮の古刹「阿弥陀寺」を「アミダイジ」と呼ぶのに似て、利慶寺の呼び方も懐かしいものの一つに数えられるべきだろう。

子供達の明るいはしゃぎや歌声は境内の一角に建てられた慈光保育園で、その右に本堂と庫裏が並んでいる。
山門は本堂の真正面にあるが、狭い境内に下関市の保存樹木に指定されている大イチョウが繁っているためか、いつ来てもイメージはなんとなく暗い。
それを救ってくれるのは園児たちの底抜けな明るさだろう。
お寺と保育園…和尚さんと子供達…
それは、実に日本的な情景で心がなごむ。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/04 Mon. 09:28 [edit]

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04

竹崎の渡し場と伊崎(下) 

竹崎の渡し場と伊崎(下)

だから先ほどの報済園あたりまで引き返してみよう。
その少し竹崎よりの空き地には石灯籠などなどが幾つも雑然と置かれていて阿弥陀寺町、神宮司町、外濱町などと彫った御影石が放置されている。
ここは赤間神宮の先帝祭における御旅所で、かつては網掛けの松とよばれる名松があったが、今はない。

御旅所は、源平合戦の翌日、ここに住む中島という漁師たちが安徳幼帝を網で引き上げたという伝説によって設けられたものだ。
その隣は観音堂と呼び名だけが残っているが、ここにも観音堂の松という枝振りの美しい松があったという。

その少し東側の小路を 山手に折れて入ると、そこからは往時の伊崎の本通り、約二メートルの狭い路地をはさんで古い家並みがどこまでも続く。
その突き当たりの白塀は天台宗の古寺、雲海院で、地元の人々にはゼンカイさんとか、デンカイさんなどと呼ばれ親しまれている。

雲海院の東側の急坂は文洋中学や無線中継所の丘へと続くが、今は伊崎の漁師町を味わった方が楽しい。
たとえば、ここには格子戸の家や、ベンガラ色の出格子の家、狐格子などが建ち並び、たこつぼや船の櫓などが玄関先にころがっていたりするのだ。

しばらくそのような町並みを楽しみながら歩いていると蛭子神社がある。
「急傾斜地崩壊危険区域」と書かれた看板が立っているが、これは竹崎町や丸山町などと共に伊崎町の特色で、この付近一帯、至る所に危険区域の標識が見られる。
何年か前の大豪雨でも、かなり広い範囲の崖が崩れて、多くの犠牲者を出した。

この辺り、時折磯の匂いが漂ってきて、軒先からは焼き魚の煙も鼻をついてくる。
珍しく共同水道が残っていて、玄関の表札のそばには「英霊の家」とか「水道専用」などの札も貼られたままであるところもなんとなく懐かしい。
こんなところが伊崎散策の良さでもあろうか。

しばらく行くとこの通りにはふさわしくない六階建ての大きなビルがあり、その角から山手に大きな岩と赤い鳥居や社が見える。
登ってみよう。
真下からの直登はかなり古い石段に頼ることになるが、登りきったところは文洋中学へ通ずる車道だ。
そこに建つ赤鳥居は福徳稲荷で海峡の眺めは実に素晴らしい。

福徳稲荷の足元の岩陰にも「正一位鈴ヶ森」と書かれた祠がある。
ここへは、岩にくっつくようにして家が建てられているため、蟹の横這いですり抜けるようにしなければ詣ることもできない。

もう一度、伊崎の町筋に下るには、先ほどの石段を戻ってもいいし、車道を鼻歌でも唄いながらのんびり歩いてもいい。
下りきった少し東側には三蓮寺がある。
そして、よく注意して歩けば、珍しい蔀戸を見つけ出すこともできる。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/02 Sat. 09:26 [edit]

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02

竹崎の渡し場と伊崎(上) 

竹崎の渡し場と伊崎(上)

白石正一郎宅跡の少し向こうに信号がある。
国道を横切ってガソリンスタンドと日冷の冷蔵庫との間を海風に誘われて出ると下関漁港のはずれに桟橋がある。
彦島海士郷と六連島へ通う渡船の発着場だ。
かっては西細江、岬之町、唐戸、竹崎、黄紺川、本村、江の浦、弟子待、田の首、竹の子島など、港町らしくあちこちにあった渡し場は、次々に姿を消して今ではここと唐戸だけになってしまった。

彦島渡船は江戸時代からという永い歴史を持っていて明治時代には二丁櫓、三丁櫓による和船で五厘船とも呼ばれていた。
下関側の渡し場は現在のニチイのそば、長泉寺の山門の下や、伊崎の鈴ヶ森神社の石段下など何度か変わり、戦時中に今の場所に落ち着いた。

そして、個人経営から村営、町営、市営と変遷を重ねるたびに和船は汽船となり、船の大きさも二十トン、二十五トン、三十トンと形を変えたが、最近は市が手放したために私営渡船に逆戻りしている。
但し、同じ浮き桟橋を使う六連島渡船は依然として市営である。

この二つの渡船は下関漁港を彩る詩情をほうふつとさせ、NHKテレビも「小瀬戸昨今」と題して広く紹介したこともあった。

小瀬戸海峡は桟橋の右手前方にS字状に広がる静かな海で、かつては濁流さかまく急潮の瀬戸であった。
漁港や大和町の造成により往時の潮の流れは偲ぶべくもないが、ここから右岸に沿ってのびる伊崎の町には、古き良き時代の風情がそこここに残っている。

桟橋近くの県漁連冷蔵庫の横を海岸線に沿って西へ行こう。
鐵工所や造船所などが並びやがて行く手に彦島大橋が見え始める。
橋長710メートル、主橋部の中央径間236メートルでコンクリート橋としては世界第一の橋だ。

海を隔てた対岸に大きな岩が突き出ているが、これが伝説で知られる「きぬかけ岩」で平家の哀史を秘めている。「身投げ岩」とも呼ばれ、苔むした地蔵尊などが祀られており、この近郊では珍しい六面地蔵もある。

さて、こちらは伊崎。
突き当たりは小門造船で行き止まりとなる。
右手の丘の上には門柱に報済園と書かれてあるが、この屋敷と造船所の間を入ると月見稲荷が静かな佇まいをみせている。
ここの藤棚は開花期には訪れる人も多く、文化五年の鳥居や寛政年間に奉納された灯篭などがこの稲荷神社の歴史を物語ってくれる。

かつて小瀬戸海峡には、カタクチイワシが多く泳ぎ、これは「小門鰯」と呼ばれて下関の名物であったが、これを獲る漁法に「小門の夜炊き」が有名だった。
全国的にも岐阜長良川の鵜飼とともに広く知られていたという。
瀬戸の流れが月見稲荷の玉垣を洗っていた頃、この境内で盃を傾けながら眺めた夜炊きは、そざ壮観であっただろう。
しかし今は、造船所の塀に遮られて海は見えず、薄暗い境内は月見のイメージさえも打ち消してしまう。
造船所の機械音と油の匂いは実に不粋だ。

月見稲荷の奥は低い丘陵地帯に立ち並ぶ民家と、海岸沿いの工場群だけで何も見るべきものはない。
強いて言えば、根嶽岬の突端に架かる彦島大橋の威容と、そこから望む響灘の海の碧さや北九州工業地帯の煙突の林立くらいなものだろう。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/01 Fri. 10:04 [edit]

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01

駅西口と白石正一郎宅跡 

駅西口と白石正一郎宅跡

都市は東から西へ開かれてゆく…
と何かの本に書いてあった。
下関もまた例外ではない。

豊浦の宮が置かれた長府は別にして、藩制時代から明治へかけての市の中心は唐戸であったし、鉄道の開通は山陽の浜を埋め立ててできた一帯、入江、細江、豊前田方面にその賑わいを移した。
更に海底トンネル開通による駅の移転は、竹崎、彦島間の急潮を堰き止め、沖の洲という岩礁の列を埋め立てた造成地を基盤に拓かれた大和町、東大和町一帯に商工業の町を作り、商港、漁港の二つの国際港を東西において、今ではここが下関の玄関。
市の中心は時代と共に随分西に移行したわけだ。

さて、下関駅は東西二つの入口を持っている。
新しい民衆駅はともかくとして、一般に駅というものは線路を背にした形で駅舎が建てられているものだ。
高架線を抱いた駅でもほとんどが一方だけ乗降口を持っていて片側の町へ行くには駅内の細い通路か遠く駅を離れてガードをくぐらなければならないようだ。
先隣の小倉駅でさえ、ついこの間までは北口から南口へ抜けるために人々は入場券を買ったものである。

東口と西口が同じ規模であり、そして広大なコンコースによって結ばれている下関駅は戦時中に建てられたとは思えない重厚さがある。
そして、旅慣れた人なら、改札、出札、待合室などを一目見て大阪駅の構内に似ていると思うに違いない。
それもそのはず、大阪駅は下関駅を模して建てられたからだ。
この際、両駅の規模を比較することはやめよう。
人口比だけでもまったくお話にならないから。

下関駅の西口に立ってみると東口ほどの広々とした景観はない。
だが、正面には昔ながらの国鉄下関工事局がある。
西日本全域をその管轄下に置いて、建設省第四港湾や日本銀行などと共にかつての下関の地位を誇示する数少ない名残りである。

工事局の右は大洋漁業下関支社でで、左のビルは下関大丸。
このデパートはやがて東口の超大ビル「シーモール」に移ることになっているという。

ところで、駅西口の真正面を走る車の流れは彦島に至る幹線道路で、左右には映画館や貿易会館、水産会館などが並び立っている。

かつて東洋一を誇った下関国際漁港はこれらのビルの西側にあって、魚市場を含めた延々と続く上屋の長さは約二キロ、これは圧巻だ。
しかし、近年、入り船がめっきり少なくなって往時の面影はない。

大洋漁業の北側には国道が走っていて、その真向かいにあるスーパーニチイへは日食西口前の地下道をくぐって行くのがいい。
この地下道には横幅二十五メートルのある大きなタイル画がはめ込まれている。
それも下関という土地にふさわしい源平合戦図だから旅行者にもかなり人気があるそうな。

地下道を出てニチイの前を少し行きすぎると、中国電力営業所の前に「白石正一郎宅跡」の石柱と「高杉晋作・奇兵隊結成の地」と刻まれた記念碑がある。
石柱はもともとこの裏通りに建っていたもので、だから本当は裏側が藩制時代の往来であったことがわかる。

当然白石家の表門もそちらを向いていたわけで、現在、石柱や碑が建っているあたりから国道一帯は小瀬戸の急流が洗う海であった。
かつてここに建っていた白石家の浜門は多くの勤皇の志士たちの密かな出入りに使われたが、維新後は調布松小田に移されて今も健在である。

白石正一郎は廻船問屋の主人で、この近郊きっての豪商だが、商人には珍しく鈴木重胤に国学を学び、尊王攘夷論の実践者となった人。
文久三年にはこの屋敷で高杉晋作が奇兵隊を結成し、青年晋作と親子ほども違う正一郎との人間的な結びつきはこの日から始まった。
そして白石家には実に四百人もの志士たちが世話になっているが、晋作も愛人おうのと共に何度も匿ってもらい結局は死水までとってもらうことになった。
正一郎の晩年は案外知られていないが、赤間神宮の初代宮司である。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/10/31 Thu. 09:42 [edit]

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