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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

片目の虻 

片目の虻


豊浦町黒井と内日とにまたがって620メートルの鬼が城という山があります。

むかし、むかし、この山に大江山の酒呑童子の一の子分といわれる霞隠鬼が逃げ込んできました。
この山の頂上に石で城を築き、洞窟を造りました。鬼は、この洞窟を鬼の穴と名前をつけ、しだいに里におりては、食物をかっぱらったり、牛や鶏を殺しては、穴に運びいれました。
食べ物が無くなると、また里におりては悪いことをするので、村人たちは、五人一組で夜回りを始めましたが、なにしろ相手はすばしこく、せっかく見つけても取り逃がすばかりです。
といって、村人たちで、鬼が城を攻める勇気もありません。村人たちの中には、とうとう恐ろしくなって引っ越すものもでてきました。

鬼の方も、だんだん悪いことになれて、昼間から里に姿を現すようになりました。
ある日、鬼が大歳神社のそばを通りかかり、宮司の家を覗き見したところ、そこに宮司の娘、登葉が針仕事をしていました。
さあ鬼は、この登葉に一目ぼれしてしまいました。
それもそのはずです。登葉は、村でも評判の美しい娘でしたから。

それからというもの、毎晩のように鬼は里に出て、登葉の部屋をのぞき、登葉を一目見たときは、おとなしくして鬼の穴に戻り、登葉がいないときは、村中を荒らしまわって帰りました。
村人たちもしだいに鬼の習性を知って、
「登葉さんには気の毒だが、村のためを思って、いっそのこと鬼のお嫁さんになってはくれまいかのう」
と、かげで話し合うようになりました。

こうした村人たちの声が登葉と父親の耳にも入りました。
そこで親子は、ある計画をたてました。
「登葉や、うかうかしていると、村人たちは無理やりにでも、お前を鬼の嫁にしてしまうぞ、それよりも先に鬼のやつがお前をさらいにくるかもしれん。どちらにしても、鬼をどうにかして退治するほかに助かる道はない」
「それならお父さん、私は今晩一番きれいな着物をきて、念入りにお化粧します。鬼がのぞきにきたとき、おりをみて矢で射殺してください」

夜がきました。丸いお月様が鬼が城の上にポッカリ浮かんでいます。
月の光をあびて、登葉は、また一段と美しく見えましたが、心の中は、恐ろしくて恐ろしくてたまりませんでした。
しだいに鬼の足音が近づいてきます。父親は、弓に矢をつがえて部屋のすみで様子をうかがっていますが、足がガクガクしてきて、落ち着かなくなってきました。
もし失敗して鬼を怒らせば、自分は殺され、登葉はきっとさらわれるにちがいありません。

やがて、格子のすき間から大きな眼がのぞきました。
さいわい鬼は、登葉の美しい姿に見とれて父親が矢をつがえて待っていることに気がついていないようでした。
父親は、大きく呼吸をすると、鬼の眼に狙いを定め、パッと矢を放つと確かに手ごたえがあったとみえて、鬼はギャーといって地面をのたうち回りました。

あくる日、こわごわのぞいてみますと、血が点々と鬼が城の山頂までつづき、鬼の穴で片目に矢が突き刺さったままで死んでいる鬼をみつけました。


それいらい、この土地の虻(あぶ…ハエより少し大きい昆虫)は、不思議なことにみな片目で、村の人たちは、片目を射られて死んだ鬼が、虻に化身したのだろうと噂しました。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2020/05/26 Tue. 10:20 [edit]

category: 下関の民話

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26

平家の一杯水 

平家の一杯水


 源平最後の合戦、壇ノ浦の戦いが行われたのは寿永四年(1185)三月のこと。
 それより先、平家総帥の平宗盛は、一ノ谷(兵庫県)・屋島(香川県)での合戦で相次いで源氏軍に敗退。
 瀬戸内海の西端に位置する長門国彦島(現在の下関市彦島)に陣を敷いていた平知盛の元まで落ち延び、起死回生を賭けた地が、関門海峡だった。

 彦島の平家水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成する。
 平家軍は500艘(『吾妻鏡』)で、松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平家一門100余艘(『平家物語』)の編成であった。
 宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。

『平家物語』によれば、知盛は通常は安徳天皇や平家本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて、鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。
 源氏軍が現れたという知らせが入るや、平知盛は門司にしつらえた仮御所から数え年8歳の安徳天皇や平家全員を船に乗せ、海峡へ。戦船は両軍合わせておよそ千数百隻。

 海峡の赤間関で源平が失合(やあわせ=開戦)することになった日時を、『平家物語』は元暦(げんりゃく)二年(1185)三月二十四日とし、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平家軍が彦島を出撃して、平家は新中納言平知盛を総大将に、およそ五百余艘が赤間関の対岸、豊前国田ノ浦に陣取り、源氏は九郎判官義経を大将に、武将たちを乗せた舟、およそ八百余艘は、満珠・干珠の沖合いに、 

 午の刻(12時ごろ)(『玉葉』による。)、戦いが始まった。両軍とも、できるだけ潮流に左右されずに操船できる時間帯を選んだのであろう。
 両軍は静かに船を進め源氏の白旗、平家の赤旗は、しだいに近づく。 やがて源平両軍の船は、その距離三十余町をへだてて相対し、平家の大将平知盛は大音声をはりあげて全軍を激励した。
 両軍の舟から一斉に矢が飛びかい矢にあたって海に落ちる者、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とす者、白旗、赤旗入り乱れての激戦。

 範頼軍は三万余騎(『源平盛衰記』による。)をもって陸地に布陣して平家の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。
『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町、三町も射かけたという。

 関門海峡は潮の流れの変化が激しく、平家軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗って平家方は序盤は鎌倉方が静まり返るほど矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。
 義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平家軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。

 ここで不利を悟った義経が敵船の水手(かこ)や梶取(漕ぎ手)を射るよう命じた。
 この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行い防御装備の貧弱な水手・梶取たちが犠牲となり、平家方の船は身動きが取れなくなった。
 戦いは初めこそ、潮流に乗った平家が互角以上に戦い優勢だったが、射尽すと逆に水上からは義経軍に、陸上からは範頼軍に射かけられるままとなった。

 やがて潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこの流れに乗ってこの時とばかり、ホラ貝を吹き、鐘を鳴らし、勇気を奮い起こし、勢いを盛り返して反撃にてて、平家軍を押しまくる。
 平家軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平家一門は次々と海上へ身を投じた。

 『平家物語』には平家一門の最後の様子が描かれている。

 知盛は建礼門院や二位ノ尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。
 これを聞いた二位ノ尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位ノ尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。

『吾妻鏡』によると二位ノ尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。
 武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。

 剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。

 教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。

 義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。
 教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平家随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最後だ。

 知盛は「見るべき事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟(ちきょうだい)の伊賀 平内左衛門家長とともに入水した。
 敗戦を覚悟した平家一門は次々と海へ身を投げていった。これは、範頼軍の九州制圧、義経軍の四国制圧、鎌倉方による瀬戸内海制海権の奪取という包囲・孤立化の完成に伴う必然的結末であった。
 漕ぎ手 を失った平家の船は進退の自由を失い、混乱しつつ壇之浦に追いつめられて、申の刻(16時ごろ)(『玉葉』による。)平家一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わった。

 栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。
 この戦いにより、平氏(伊勢平氏の平清盛一族)は二十五年にわたる平氏政権の幕を閉じた。
 勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させる。


 平家のある者は傷を受けながらも、ようやく岸にたどり着いた者もいた。
 そのうちの一人肩と足に矢を受けて海に落ち、深手を負いながらも命がけで岸 に泳ぎ着いた平家の武将は、ふと前の方を見ると山すその渚にわずかな水溜まりがあった。
 武将はのどの渇きを癒そうと、痛むからだを引きずってやっとの思いで水溜まりに近づき、手のひらにすくい、その水を一口飲んでみると、それはおいしい真水だった。
 夢中になってもう一口と、また手のひらにすくい、再び水を口にしたところ、思わず吐き出してしまった。真水は海水にかわっていたのです。

 後世の人はこれを「平家の一杯水」と呼び今に伝える。

 碑の近くの渚に湧き出る清水(火の山からの伏流水)には祠が立てられ、いまも元旦の若水として赤間神宮の神前に供えられます。
 「更に東駆前田に入れば埋没数十年に及びしを本市技師が苦心発掘せし平家一杯水あり。」 と、下関市史(市制施行ー終戦)の観光、昭和時代に記されている。
 国道9号線沿い、海峡グルメ しずか本館の西側に「平家の一杯水」という石碑が建立されています。

Posted on 2020/05/25 Mon. 10:59 [edit]

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平家がに 

平家がに


源平合戦にまつわる伝説はたくさんあります。
これもその一つ。

壇の浦の漁師たちは、魚を釣るとき、かならず船板に正座して釣糸をたれます。
いつのころから、誰がはじめたのかわかりません。漁師たちは、正座しているほうが、釣りの勘がよくはたらくといいます。
また、こうしていれば、なんとなく心も落ち着くといいます。

もう一つは、平家の落人がこの壇の浦に住み着いて漁師をはじめましたが、以前宮中に住んでいたころの作法が身について、正座するようになったともいいます。

この海峡では、平家がにがとれます。中型のカニで、甲の長さ3センチ、脚をのばすと約15センチぐらいになります。
そして背の甲に、人の面ににた隆起があります。が、これが平家の武士たちのうらみの形相そっくりなので、平家がにといっています。

また海に消えていった官女の生まれ変わった姿といわれる10センチぐらいの美しいタイのことを小平家(こべけ)といって、毎年七、八月ごろになると、金色のうろこに白い斑点のあるこのタイが海峡にあらわれます。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2020/05/22 Fri. 10:03 [edit]

category: 下関の民話

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みもすそ川 

みもすそ川


長門本平家物語の巻十八の“先帝二位殿入海給事”によると…

二位の尼が、八才になられる幼い安徳天皇をしっかりと胸に抱き、三種の神器のうちの宝剣を腰に、勾玉をを脇にはさんで一歩、二歩、歩まれると、幼帝は、
「いまからどこへ参るのか」
とおたずねになりました。すると二位の尼は、
「わが君さま、いまからやさしい仏さまがたくさんいらっしゃる弥陀の浄土へおつれいたしましょう」
と申し、決死の覚悟を決め、いよいよ身を投げようとされるとき、

  今ぞしる身もすそ川の御ながれ
   波の下にもみやこありとは

と最後の歌を残されて海底深く沈まれていかれました。

この残された歌から、むかしの人たちは、安徳天皇と二位の尼が身を沈められたところは“みもすそ川”であったと言い伝えてきました。しかし、実際には“みもすそ川”は小川であり、とても身を投げることのできる川ではありません。
みもすそ川についてのもう一つの説は天皇の血統が一筋に長く続いていることをさすのだというのです。

ところで、この川で遊女が衣類をせんたくすると“あか”がよく落ちるといわれました。うわさをきいた馬関の町屋のものがせんたくものを抱えてきましたが、さっぱり“あか”は落ちなかったということです。
つまり遊女は平家の官女が身を落とした姿であり、とうぜん遊女のせんたくするものだけに効き目があったのでしょう。


(注)
みもすそ川は、古い本に“御裳濯川”と書いてありますが、いつのころからか“御裳川”と書くようになりました。
大正十五年八月に架けられた木橋「御裳橋」がありましたが、いたみがひどく、また道路の拡張工事などで、昭和十六年三月補修されました。
なお、二位の尼は平清盛の妻ですから、安徳天皇は二位の尼にとって孫にあたります。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2020/05/21 Thu. 11:53 [edit]

category: 下関の民話

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21

平家のいっぱい水 

平家のいっぱい水


四国屋島の戦いにひきつづいて、源氏、平氏さいごの一戦がだんのうらでくりひろげられました。

寿永四年三月二十四日、源氏側は九郎判官義経を総大将に武将たちを乗せた舟、およそ千艘は、満珠干珠の沖合いに、平家側は新中納言平知盛を総大将におよそ八百艘が彦島に陣取り、両軍は静かに舟をすすめます。

いよいよ最後の決戦です。
源氏の白旗、平家の赤旗はしだいに近づいてきます。
やがて海峡の真中にきたとき、ちょうど午前十時、両軍の舟からいっせいに矢が飛び交いました。
矢に当たって海に落ちるもの、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とすもの、敵、味方入り交じっての激戦です。

このころん.から潮の流れは平家側に有利になり、次第に源氏側は押され気味で、損害は大きくなりました。
しかし、源氏側には、ちゃんと計画がたててありました。
それは海峡の流れが、いまは源氏側に不利ですが、やがて逆に流れ出し、このときに一気に戦いの結着をつけようとしていたのです。
激戦は続いていました。海に落ちたものは、重たい兜を着ているので、泳ぐこともできず海の底へ沈んでいきました。

そうして戦っているうちに、潮の流れが変りはじめました。
源氏側はこのときとばかりに、ほら貝を吹き、かねを鳴らし、
「いまこそ、平家をたおせ。進め、進め」
と勇気をふるいおこし、勢いをもりかえして、平家の舟を追いかけました。

平家は、ここで源氏に負けると、もう逃げるところがありませんので、負けてはなるものかと最後の力をだして戦いましたが、流れが変ったので、舟を進めることができず、とうとう、源氏に負けてしまいました。

平家側のあるものは捕らえられ、または海に沈み、またあるものは傷を受けてようやく岸にたどりついたものもありました。
そのうちの一人、平家の武将は、肩と足に矢を受けて海に落ちましたが、岸に近いところだったので、命がけで泳ぎ、ようやく岸にたどりつきました。
そこは前田から少し御裳川に寄ったところで、その武将は、のどがからからに渇ききっていました。
ふと見ると、山すそから海岸線におりたところにわずかな水溜りがありました。
武将は痛む体を引きずって水場に近づき、手のひらにすくい水を飲みました。
武将にとっては命の水だったのでした。
夢中になって、また手のひらにすくい二度目に口にしたところ、思わずむせて吐き出してしまいました。
真水は塩水に変っていたのでした。


(注)
前田造船所の横に平家の一杯水という板柱がたっています。

このお話ににたもので「官女の水」というのがあります。
だんのうらの戦いに敗れた官女の一人は、連れにはぐれてしまい、迷いに迷って金比羅付近に身を隠すことができました。
しかしこの戦いで戦死した夫のことや、いままでの楽しい生活のことを思うと、ひとりでに涙がでて、毎晩のように泣き続けました。
そして一滴の水ものどに通らず、みるみるうちに痩せ、ついに涙がかれきった時、淋しく死んでいきました。
その後誰かが、官女の淋しい死を思ってお墓をたててやりました。
もちろん官女の名前もわかりませんので、お墓といっても大きな石を置いただけでしたが、どうしたことか、この石の前に水溜りができました。
その水は、湧き水でも、流れ水でもありません。
人々はこれを「官女の水」といっていましたが、ひょっとすると官女の流した涙かもしれません。

それから誰いうとなく、この水を目につけると必ず眼病が治るという噂がたち、おまいりする人もありました。
しかし、その石は道を広げる工事のさい、取り壊されて今はありません。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2020/05/19 Tue. 10:18 [edit]

category: 下関の民話

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