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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

みもすそ川 

みもすそ川


長門本平家物語の巻十八の“先帝二位殿入海給事”によると…

二位の尼が、八才になられる幼い安徳天皇をしっかりと胸に抱き、三種の神器のうちの宝剣を腰に、勾玉をを脇にはさんで一歩、二歩、歩まれると、幼帝は、
「いまからどこへ参るのか」
とおたずねになりました。すると二位の尼は、
「わが君さま、いまからやさしい仏さまがたくさんいらっしゃる弥陀の浄土へおつれいたしましょう」
と申し、決死の覚悟を決め、いよいよ身を投げようとされるとき、

  今ぞしる身もすそ川の御ながれ
   波の下にもみやこありとは

と最後の歌を残されて海底深く沈まれていかれました。

この残された歌から、むかしの人たちは、安徳天皇と二位の尼が身を沈められたところは“みもすそ川”であったと言い伝えてきました。しかし、実際には“みもすそ川”は小川であり、とても身を投げることのできる川ではありません。
みもすそ川についてのもう一つの説は天皇の血統が一筋に長く続いていることをさすのだというのです。

ところで、この川で遊女が衣類をせんたくすると“あか”がよく落ちるといわれました。うわさをきいた馬関の町屋のものがせんたくものを抱えてきましたが、さっぱり“あか”は落ちなかったということです。
つまり遊女は平家の官女が身を落とした姿であり、とうぜん遊女のせんたくするものだけに効き目があったのでしょう。


(注)
みもすそ川は、古い本に“御裳濯川”と書いてありますが、いつのころからか“御裳川”と書くようになりました。
大正十五年八月に架けられた木橋「御裳橋」がありましたが、いたみがひどく、また道路の拡張工事などで、昭和十六年三月補修されました。
なお、二位の尼は平清盛の妻ですから、安徳天皇は二位の尼にとって孫にあたります。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/04/08 Mon. 11:13 [edit]

category: 下関の民話

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08

穴門 

穴門


下関という地名の古い呼び方に“穴門”(あなと・穴戸とも書く)があります。
穴門というのは、もともと早鞆の海峡のことをいうのですが、ある説によると、今から1800年くらい前に三韓に兵を出したとき陸続きだった土地を、仲哀天皇が六年の歳月をかけて、掘り下げ、いまの海峡にしたといいます。

また別の説によりますと、もともと陸続きでしたが、その下に、わずかに水門のような穴が通じて、潮が流れていたため“穴戸”といったとあります。
そして、神功皇后が三韓に兵を進められる途中、豊浦の浜(長府の浜)からここを通過するとき、軍船が通れないので天地の神様にお願いしたところ、この穴戸の陸地は左右に開き、山の一部が西の海中に沈んで“引き島”(いまの彦島)になったといいます。


(注)
上代の頃、村の名を好い名に改めるようにという令が出され、“穴”という暗い感じから“長”という明るい感じの字に改め、“長門の国”となったとも云われています。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/04/07 Sun. 08:37 [edit]

category: 下関の民話

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07

赤田代のキツネ 

赤田代のキツネ


内日の赤田代に、気位の高い一人のおじいさんが住んでいました。
おじいさんの身分は士族でしたので、そのあたりの人は、おじいさんのことを
「だあさん、だあさん」と、呼んでいました。

ある日、だあさんが山に行って炭窯の中で木立をしていると、窯の口から自分をのぞいていたものがいます。
よく見ると、それはキツネでした。だあさんは下種のものから覗き見されたことに、ひどく腹を立て、立木を手にしてはだしのままキツネを追いかけました。
どんどんキツネを追いかけて、ひと山越えた一ノ瀬でキツネに追いつき、キツネを叩き殺しました。

だあさんは、殺したキツネを自分で食べるのはいやなので、長府の毛利の殿様のおかかえ猟師で鉄砲の名人で、近所のばんえむさんのところに持って行き、
「食べてくれ」と言って、キツネをばんえむさんにあげました。

ばんえむさんは、もらったキツネを明日にでも料理しようと、長屋の背戸の柿の木にぶら下げておきました。
そこに近所のおばあさんがやって来ました。ばあさんは吊るされたキツネを見て、哀れに思い、
「なんでもいけんことしたなあ」と、キツネの頭を手でさすってやりました。

ところが、その夜、おばあさんが行灯の油を、ぴたぴた、ぴたぴたと舐めはじめました。
そのおばあさんの姿が障子に影絵のように写し出されたので、近所の人たちはびっくりしました。

そこで太夫さんの役をもっている、幸吉じいさんがお祈りをして、おばあさんに乗り移っているキツネに、
「お前をお祀りしてやるから、このおばあさんから逃げておくれ」
といったところ、おばあさんはすっかりよくなりました。

そのキツネの霊を祀った石が、今でも紺谷の山に残っています。


(注)
この話が変っているのは、キツネを殺したじいさんに付かなくて、哀れみをかけたおばあさんにキツネが付いたことです。
悪い人は力が強いのでキツネも付くことかできず、かえってやさしく弱いおばあさんにすがって付いたのでしよう。
なお、この話は、中西輝磨さんが内日の今田吉人さんから聞いたものです。

Posted on 2019/04/06 Sat. 10:09 [edit]

category: 下関の民話

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06

耳無芳一の話 

耳無芳一の話
THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI
小泉八雲 Lafcadio Hearn
戸川明三訳


 七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。
この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた……他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると云われているのである。
しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。
 平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮(もが)いていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。
これ等の死者を慰めるために建立されたのが、すなわち赤間ヶ関の仏教の御寺なる阿彌陀寺であったが、その墓地もまた、それに接して海岸に設けられた。そしてその墓地の内には入水された皇帝と、その歴歴の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、かつそれ等の人々の霊のために、仏教の法会がそこで整然(ちゃん)と行われていたのである。この寺が建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。しかしそれでもなお引き続いておりおり、怪しい事をするのではあった――彼等が完き平和を得ていなかった事の証拠として。

 幾百年か以前の事、この赤間ヶ関に芳一という盲人が住んでいたが、この男は吟誦して、琵琶を奏するに妙を得ているので世に聞えていた。子供の時から吟誦し、かつ弾奏する訓練を受けていたのであるが、まだ少年の頃から、師匠達を凌駕していた。本職の琵琶法師としてこの男は重もに、平家及び源氏の物語を吟誦するので有名になった、そして壇ノ浦の戦の歌を謡うと鬼神すらも涙をとどめ得なかったという事である。

 芳一には出世の首途(かどで)の際、はなはだ貧しかったが、しかし助けてくれる深切な友があった。すなわち阿彌陀寺の住職というのが、詩歌や音楽が好きであったので、たびたび芳一を寺へ招じて弾奏させまた、吟誦さしたのであった。
後になり住職はこの少年の驚くべき技倆にひどく感心して、芳一に寺をば自分の家とするようにと云い出したのであるが、芳一は感謝してこの申し出を受納した。それで芳一は寺院の一室を与えられ、食事と宿泊とに対する返礼として、別に用のない晩には、琵琶を奏して、住職を悦ばすという事だけが注文されていた。

 ある夏の夜の事、住職は死んだ檀家の家で、仏教の法会を営むように呼ばれたので、芳一だけを寺に残して納所を連れて出て行った。それは暑い晩であったので、盲人芳一は涼もうと思って、寝間の前の縁側に出ていた。この縁側は阿彌陀寺の裏手の小さな庭を見下しているのであった。
芳一は住職の帰来を待ち、琵琶を練習しながら自分の孤独を慰めていた。夜半も過ぎたが、住職は帰って来なかった。しかし空気はまだなかなか暑くて、戸の内ではくつろぐわけにはいかない、それで芳一は外に居た。やがて、裏門から近よって来る跫音が聞えた。誰れかが庭を横断して、縁側の処へ進みより、芳一のすぐ前に立ち止った――が、それは住職ではなかった。
底力のある声が盲人の名を呼んだ――出し抜けに、無作法に、ちょうど、侍が下下(したじた)を呼びつけるような風に――
『芳一!』
 芳一はあまりに吃驚(びっくり)してしばらくは返事も出なかった、すると、その声は厳しい命令を下すような調子で呼ばわった――
『芳一!』
『はい!』と威嚇する声に縮み上って盲人は返事をした――『私は盲目で御座います!――どなたがお呼びになるのか解りません!』
 見知らぬ人は言葉をやわらげて言い出した、『何も恐わがる事はない、拙者はこの寺の近処に居るもので、お前の許(とこ)へ用を伝えるように言いつかって来たものだ。拙者の今の殿様と云うのは、大した高い身分の方で、今、たくさん立派な供をつれてこの赤間ヶ関に御滞在なされているが、壇ノ浦の戦場を御覧になりたいというので、今日、そこを御見物になったのだ。
ところで、お前がその戦争(いくさ)の話を語るのが、上手だという事をお聞きになり、お前のその演奏をお聞きになりたいとの御所望である、であるから、琵琶をもち即刻拙者と一緒に尊い方方の待ち受けておられる家へ来るが宜い』
 当時、侍の命令と云えば容易に、反くわけにはいかなかった。で、芳一は草履をはき琵琶をもち、知らぬ人と一緒に出て行ったが、その人は巧者に芳一を案内して行ったけれども、芳一はよほど急ぎ足で歩かなければならなかった。また手引きをしたその手は鉄のようであった。
武者の足どりのカタカタいう音はやがて、その人がすっかり甲冑を著けている事を示した――定めし何か殿居(とのい)の衛士ででもあろうか、芳一の最初の驚きは去って、今や自分の幸運を考え始めた――何故かというに、この家来の人の「大した高い身分の人」と云った事を思い出し、自分の吟誦を聞きたいと所望された殿様は、第一流の大名に外ならぬと考えたからである。
やがて侍は立ち止った。芳一は大きな門口に達したのだと覚った――ところで、自分は町のその辺には、阿彌陀寺の大門を外にしては、別に大きな門があったとは思わなかったので不思議に思った。
「開門!」と侍は呼ばわった――すると閂を抜く音がして、二人は這入って行った。二人は広い庭を過ぎ再びある入口の前で止った。そこでこの武士は大きな声で「これ誰れか内のもの! 芳一を連れて来た」と叫んだ。すると急いで歩く跫音、襖のあく音、雨戸の開く音、女達の話し声などが聞えて来た。女達の言葉から察して、芳一はそれが高貴な家の召使である事を知った。しかしどういう処へ自分は連れられて来たのか見当が付かなかった。が、それをとにかく考えている間もなかった。手を引かれて幾箇かの石段を登ると、その一番最後(しまい)の段の上で、草履をぬげと云われ、それから女の手に導かれて、拭(ふ)き込んだ板鋪のはてしのない区域を過ぎ、覚え切れないほどたくさんな柱の角を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、驚くべきほど広い畳を敷いた床を通り――大きな部屋の真中に案内された。そこに大勢の人が集っていたと芳一は思った。絹のすれる音は森の木の葉の音のようであった。それからまた何んだかガヤガヤ云っている大勢の声も聞えた――低音で話している。そしてその言葉は宮中の言葉であった。
 芳一は気楽にしているようにと云われ、座蒲団が自分のために備えられているのを知った。それでその上に座を取って、琵琶の調子を合わせると、女の声が――その女を芳一は老女すなわち女のする用向きを取り締る女中頭だと判じた――芳一に向ってこう言いかけた――
『ただ今、琵琶に合わせて、平家の物語を語っていただきたいという御所望に御座います』
 さてそれをすっかり語るのには幾晩もかかる、それ故芳一は進んでこう訊ねた――
『物語の全部は、ちょっとは語られませぬが、どの条下(くさり)を語れという殿様の御所望で御座いますか?』
 女の声は答えた――
『壇ノ浦の戦(いくさ)の話をお語りなされ――その一条下(ひとくさり)が一番哀れの深い処で御座いますから』
 芳一は声を張り上げ、烈しい海戦の歌をうたった――琵琶を以て、あるいは橈を引き、船を進める音を出さしたり、はッしと飛ぶ矢の音、人々の叫ぶ声、足踏みの音、兜にあたる刃の響き、海に陥る打たれたもの音等を、驚くばかりに出さしたりして。その演奏の途切れ途切れに、芳一は自分の左右に、賞讃の囁く声を聞いた、――「何という巧(うま)い琵琶師だろう!」――「自分達の田舎ではこんな琵琶を聴いた事がない!」――「国中に芳一のような謡い手はまたとあるまい!」するといっそう勇気が出て来て、芳一はますますうまく弾きかつ謡った。そして驚きのため周囲は森としてしまった。
しかし終りに美人弱者の運命――婦人と子供との哀れな最期――双腕に幼帝を抱き奉った二位の尼の入水を語った時には――聴者はことごとく皆一様に、長い長い戦(おのの)き慄える苦悶の声をあげ、それから後というもの一同は声をあげ、取り乱して哭き悲しんだので、芳一は自分の起こさした悲痛の強烈なのに驚かされたくらいであった。しばらくの間はむせび悲しむ声が続いた。しかし、おもむろに哀哭の声は消えて、またそれに続いた非常な静かさの内に、芳一は老女であると考えた女の声を聞いた。
 その女はこう云った――
『私共は貴方が琵琶の名人であって、また謡う方でも肩を並べるもののない事は聞き及んでいた事では御座いますが、貴方が今晩御聴かせ下すったようなあんなお腕前をお有ちになろうとは思いも致しませんでした。殿様には大層御気に召し、貴方に十分な御礼を下さる御考えである由を御伝え申すようにとの事に御座います。が、これから後六日の間毎晩一度ずつ殿様の御前(ごぜん)で演奏(わざ)をお聞きに入れるようとの御意に御座います――その上で殿様にはたぶん御帰りの旅に上られる事と存じます。それ故明晩も同じ時刻に、ここへ御出向きなされませ。今夜、貴方を御案内いたしたあの家来が、また、御迎えに参るで御座いましょう……それからも一つ貴方に御伝えするように申しつけられた事が御座います。それは殿様がこの赤間ヶ関に御滞在中、貴方がこの御殿に御上りになる事を誰れにも御話しにならぬようとの御所望に御座います。殿様には御忍びの御旅行ゆえ、かような事はいっさい口外致さぬようにとの御上意によりますので。……ただ今、御自由に御坊に御帰りあそばせ』

 芳一は感謝の意を十分に述べると、女に手を取られてこの家の入口まで来、そこには前に自分を案内してくれた同じ家来が待っていて、家につれられて行った。家来は寺の裏の縁側の処まで芳一を連れて来て、そこで別れを告げて行った。

 芳一の戻ったのはやがて夜明けであったが、その寺をあけた事には、誰れも気が付かなかった――住職はよほど遅く帰って来たので、芳一は寝ているものと思ったのであった。昼の中芳一は少し休息する事が出来た。そしてその不思議な事件については一言もしなかった。翌日の夜中に侍がまた芳一を迎えに来て、かの高貴の集りに連れて行ったが、そこで芳一はまた吟誦し、前囘の演奏が贏ち得たその同じ成功を博した。しかるにこの二度目の伺候中、芳一の寺をあけている事が偶然に見つけられた。それで朝戻ってから芳一は住職の前に呼びつけられた。住職は言葉やわらかに叱るような調子でこう言った、――
『芳一、私共はお前の身の上を大変心配していたのだ。目が見えないのに、一人で、あんなに遅く出かけては険難だ。何故、私共にことわらずに行ったのだ。そうすれば下男に供をさしたものに、それからまたどこへ行っていたのかな』
 芳一は言い※(「しんにゅう+官」、第3水準1-92-56)れるように返事をした――
『和尚様、御免下さいまし! 少々私用が御座いまして、他の時刻にその事を処置する事が出来ませんでしたので』
 住職は芳一が黙っているので、心配したというよりむしろ驚いた。それが不自然な事であり、何かよくない事でもあるのではなかろうかと感じたのであった。住職はこの盲人の少年があるいは悪魔につかれたか、あるいは騙されたのであろうと心配した。で、それ以上何も訊ねなかったが、ひそかに寺の下男に旨をふくめて、芳一の行動に気をつけており、暗くなってから、また寺を出て行くような事があったなら、その後を跟けるようにと云いつけた。

 すぐその翌晩、芳一の寺を脱け出して行くのを見たので、下男達は直ちに提灯をともし、その後を跟けた。しかるにそれが雨の晩で非常に暗かったため、寺男が道路へ出ない内に、芳一の姿は消え失せてしまった。まさしく芳一は非常に早足で歩いたのだ――その盲目な事を考えてみるとそれは不思議な事だ、何故かと云うに道は悪るかったのであるから。男達は急いで町を通って行き、芳一がいつも行きつけている家へ行き、訊ねてみたが、誰れも芳一の事を知っているものはなかった。しまいに、男達は浜辺の方の道から寺へ帰って来ると、阿彌陀寺の墓地の中に、盛んに琵琶の弾じられている音が聞えるので、一同は吃驚した。
二つ三つの鬼火――暗い晩に通例そこにちらちら見えるような――の外、そちらの方は真暗であった。しかし、男達はすぐに墓地へと急いで行った、そして提灯の明かりで、一同はそこに芳一を見つけた――雨の中に、安徳天皇の記念の墓の前に独り坐って、琵琶をならし、壇ノ浦の合戦の曲を高く誦して。その背後(うしろ)と周囲(まわり)と、それから到る処たくさんの墓の上に死者の霊火が蝋燭のように燃えていた。いまだかつて人の目にこれほどの鬼火が見えた事はなかった……
『芳一さん!――芳一さん!』下男達は声をかけた『貴方は何かに魅(ばか)されているのだ!……芳一さん!』
 しかし盲人には聞えないらしい。力を籠めて芳一は琵琶を錚錚※(「口+戛」、第3水準1-15-17)※(「口+戛」、第3水準1-15-17)と鳴らしていた――ますます烈しく壇ノ浦の合戦の曲を誦した。男達は芳一をつかまえ――耳に口をつけて声をかけた――
『芳一さん!――芳一さん!――すぐ私達と一緒に家にお帰んなさい!』
 叱るように芳一は男達に向って云った――
『この高貴の方方の前で、そんな風に私の邪魔をするとは容赦はならんぞ』
 事柄の無気味なに拘らず、これには下男達も笑わずにはいられなかった。芳一が何かに魅(ばか)されていたのは確かなので、一同は芳一を捕(つかま)え、その身体(からだ)をもち上げて起たせ、力まかせに急いで寺へつれ帰った――そこで住職の命令で、芳一は濡れた著物を脱ぎ、新しい著物を著せられ、食べものや、飲みものを与えられた。その上で住職は芳一のこの驚くべき行為をぜひ十分に説き明かす事を迫った。
 芳一は長い間それを語るに躊躇していた。しかし、遂に自分の行為が実際、深切な住職を脅かしかつ怒らした事を知って、自分の緘黙を破ろうと決心し、最初、侍の来た時以来、あった事をいっさい物語った。
 すると住職は云った……
『可哀そうな男だ。芳一、お前の身は今大変に危ういぞ! もっと前にお前がこの事をすっかり私に話さなかったのはいかにも不幸な事であった! お前の音楽の妙技がまったく不思議な難儀にお前を引き込んだのだ。お前は決して人の家を訪れているのではなくて、墓地の中に平家の墓の間で、夜を過していたのだという事に、今はもう心付かなくてはいけない――今夜、下男達はお前の雨の中に坐っているのを見たが、それは安徳天皇の記念の墓の前であった。お前が想像していた事はみな幻影(まぼろし)だ――死んだ人の訪れて来た事の外は。で、一度死んだ人の云う事を聴いた上は、身をその為(す)るがままに任したというものだ。もしこれまであった事の上に、またも、その云う事を聴いたなら、お前はその人達に八つ裂きにされる事だろう。しかし、いずれにしても早晩、お前は殺される……ところで、今夜私はお前と一緒にいるわけにいかぬ。私はまた一つ法会をするように呼ばれている。が、行く前にお前の身体を護るために、その身体に経文を書いて行かなければなるまい』

 日没前住職と納所とで芳一を裸にし、筆を以て二人して芳一の、胸、背、頭、顔、頸、手足――身体中どこと云わず、足の裏にさえも――般若心経というお経の文句を書きつけた。それが済むと、住職は芳一にこう言いつけた。――
『今夜、私が出て行ったらすぐに、お前は縁側に坐って、待っていなさい。すると迎えが来る。が、どんな事があっても、返事をしたり、動いてはならぬ。口を利かず静かに坐っていなさい――禅定に入っているようにして。もし動いたり、少しでも声を立てたりすると、お前は切りさいなまれてしまう。恐(こ)わがらず、助けを呼んだりしようと思ってはいかぬ。――助けを呼んだところで助かるわけのものではないから。私が云う通りに間違いなくしておれば、危険は通り過ぎて、もう恐わい事はなくなる』

 日が暮れてから、住職と納所とは出て行った、芳一は言いつけられた通り縁側に座を占めた。自分の傍の板鋪の上に琵琶を置き、入禅の姿勢をとり、じっと静かにしていた――注意して咳もせかず、聞えるようには息もせずに。幾時間もこうして待っていた。
 すると道路の方から跫音のやって来るのが聞えた。跫音は門を通り過ぎ、庭を横断り、縁側に近寄って止った――すぐ芳一の正面に。
『芳一!』と底力のある声が呼んだ。が盲人は息を凝らして、動かずに坐っていた。
『芳一!』と再び恐ろしい声が呼ばわった。ついで三度――兇猛な声で――
『芳一』
 芳一は石のように静かにしていた――すると苦情を云うような声で――
『返事がない!――これはいかん!……奴、どこに居るのか見てやらなけれやア』……
 縁側に上る重もくるしい跫音がした。足はしずしずと近寄って――芳一の傍に止った。それからしばらくの間――その間、芳一は全身が胸の鼓動するにつれて震えるのを感じた――まったく森閑としてしまった。
 遂に自分のすぐ傍(そば)であらあらしい声がこう云い出した――『ここに琵琶がある、だが、琵琶師と云っては――ただその耳が二つあるばかりだ!……道理で返事をしないはずだ、返事をする口がないのだ――両耳の外、琵琶師の身体は何も残っていない……よし殿様へこの耳を持って行こう――出来る限り殿様の仰せられた通りにした証拠に……』
 その瞬時に芳一は鉄のような指で両耳を掴まれ、引きちぎられたのを感じた! 痛さは非常であったが、それでも声はあげなかった。重もくるしい足踏みは縁側を通って退いて行き――庭に下り――道路の方へ通って行き――消えてしまった。芳一は頭の両側から濃い温いものの滴って来るのを感じた。が、あえて両手を上げる事もしなかった……

 日の出前に住職は帰って来た。急いですぐに裏の縁側の処へ行くと、何んだかねばねばしたものを踏みつけて滑り、そして慄然(ぞっ)として声をあげた――それは提灯の光りで、そのねばねばしたものの血であった事を見たからである。しかし、芳一は入禅の姿勢でそこに坐っているのを住職は認めた――傷からはなお血をだらだら流して。
『可哀そうに芳一!』と驚いた住職は声を立てた――『これはどうした事か……お前、怪我をしたのか』……
 住職の声を聞いて盲人は安心した。芳一は急に泣き出した。そして、涙ながらにその夜の事件を物語った。『可哀そうに、可哀そうに芳一!』と住職は叫んだ ――『みな私の手落ちだ!――酷い私の手落ちだ!……お前の身体中くまなく経文を書いたに――耳だけが残っていた! そこへ経文を書く事は納所に任したのだ。ところで納所が相違なくそれを書いたか、それを確かめておかなかったのは、じゅうじゅう私が悪るかった!……いや、どうもそれはもう致し方のない事だ ――出来るだけ早く、その傷を治(なお)すより仕方がない……芳一、まア喜べ!――危険は今まったく済んだ。もう二度とあんな来客に煩わされる事はない』

 深切な医者の助けで、芳一の怪我はほどなく治った。この不思議な事件の話は諸方に広がり、たちまち芳一は有名になった。貴い人々が大勢赤間ヶ関に行って、芳一の吟誦を聞いた。そして芳一は多額の金員を贈り物に貰った――それで芳一は金持ちになった……しかしこの事件のあった時から、この男は耳無芳一という呼び名ばかりで知られていた。

底本:「小泉八雲全集第八卷家庭版」第一書房
   1937(昭和12)年1月15日発行


電子図書館青空文庫より

Posted on 2019/04/05 Fri. 11:33 [edit]

category: 下関の民話

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05

長門毘沙門天 

長門毘沙門天


下関市長府松小田の四王司山(392メートル)。
周防灘、北九州を一望のもとに見下ろす頂上に、一体の毘沙門天がある。
貞観9年、清和天皇は外敵に対する守り神として五体の毘沙門天像を因幡、伯耆、出雲、石見、長門の五国に下し、海辺の山頂に祭ったという。
他の四体の行方が知れぬ中で、長門毘沙門天は地元の人の厚い信仰に守られ、福徳開運の神として崇拝を集めている。
縁日は正月初めの寅の日。
「初寅詣で」にはいまも、県内各地から集まった数万の人々が急な山道を登り、一年の幸せを祈って縁起物の張子の虎を下げたササの葉を買って山を下る。
しかし、このササの葉に秘められた物語を知っている人は何人いるだろうか。


四王司山を望む小月の里に、八重というきりょうよしで働き者の娘がいた。
庄屋から息子の嫁にと望まれながら、貧しさゆえに「つり合わぬは不縁のもと」と、年とった母と二人暮らしを続けていたある正月のこと、「明日は初寅じゃが、お参りにいかんか」とおじが訪ねてきた。
若い娘にとって「初寅詣で」は晴れ着を競う場。
着物一つ買ってやれんで、とつらがる母を思って、八重は首を横にふった。

「それじゃ、わしがかわりに福をもろうて来ちゃるでの」
しかし、おじさんが約束を思い出したまは、山を下ったあとだった。
「どうしたもんかのう」、困り果てたときに藪の中でウグイスの鳴く声が耳に入った。
見るとササ葉が夕日に照らされ、美しく輝いている。
思わずササを一本折り取ったおじさんは、それをみやげがわりに八重に渡した。
八重はそのササを大切に神棚に祭ったが、翌朝になるとササの葉は小判にかわりキラキラ輝いていた。
「毘沙門天様のおさずけ」、その小判で嫁入り仕度もととのえた八重は春三月、庄屋の息子に嫁ぎ、末永く幸せに暮らし、以来ササの葉は毘沙門天の福飾りとして、初寅詣でに欠かせぬものになった。


四王司神社の役員代表、石川秀雄さんもこの話を知らなかった。
しかし、八重の話は忘れられても、毘沙門天に寄せる人々の信心は変らない。
石川さんら松小田地区の人々はいまも参道修復などの奉仕を続けている。
頂上の神社まで約60分。
そこを人々は初寅の日の午前零時に参るため、暗やみの中をのぼる。
今年も神社ではこの日、特別に祈願のため鳴らす鈴を三ヶ所につけたが、人々は鈴の緒を奪い合い、必死で取りすがった。

「警察は、あんまり混雑しすぎて危険だから鈴を四ヶ所につけろというんだが、そんなことをしたら神社が引き倒されてしまうんで三ヶ所にしてるんですよ」と石川さんが教えてくれた。


防長紀行第三巻 民話の里 マツノ書店刊より

Posted on 2019/04/04 Thu. 11:46 [edit]

category: 下関の民話

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04

平家がに 

平家がに


源平合戦にまつわる伝説はたくさんあります。
これもその一つ。

壇の浦の漁師たちは、魚を釣るとき、かならず船板に正座して釣糸をたれます。
いつのころから、誰がはじめたのかわかりません。漁師たちは、正座しているほうが、釣りの勘がよくはたらくといいます。
また、こうしていれば、なんとなく心も落ち着くといいます。

もう一つは、平家の落人がこの壇の浦に住み着いて漁師をはじめましたが、以前宮中に住んでいたころの作法が身について、正座するようになったともいいます。

この海峡では、平家がにがとれます。中型のカニで、甲の長さ3センチ、脚をのばすと約15センチぐらいになります。
そして背の甲に、人の面ににた隆起があります。が、これが平家の武士たちのうらみの形相そっくりなので、平家がにといっています。

また海に消えていった官女の生まれ変わった姿といわれる10センチぐらいの美しいタイのことを小平家(こべけ)といって、毎年七、八月ごろになると、金色のうろこに白い斑点のあるこのタイが海峡にあらわれます。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/04/03 Wed. 10:39 [edit]

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03

竜王が喜んだ 

竜王が喜んだ


江戸時代のはじめのころのお話です。

そのころは、徳川家が全国を支配しており、その下に毛利藩とか水戸藩とかがあって地方を治めていました。
そして各藩の力の大きさは、お米のとれる量、つまり石高であらわしていました。そのため各藩では、お米の増産を奨励したり、新しい田を造ったりする事業に一生懸命でした。

毛利藩でも、横見弥一左衛門という家臣に命じて、宇津井一体の干拓工事をすすめることになりました。
それは寛文五年の秋からはじめられました。
近くの土地からたくさんの人がかりあつめられました。土手を築く人、杭を打つ人、モッコで土を運ぶ人、俵に土を入れて潮止めにする人など、工事は計画通りすすみ、こうして最初の年の冬をこし、そして次の冬もこして、二年たった秋のある日、工事の進み具合を見回りにきた横見弥一左衛門は、
「よし、もうあとひといきで干拓工事は完成するぞ、みろ、あの広々とした新しい土地を、何という素晴らしいことだ、やがてあそこに、黄金色の稲穂が波打つのじゃ」
と、感動にうちふるえながら、ついてきた家来に話しかけました。

そしてそれから数日して、この地方に激しい風と大雨をともなった嵐がおそいました。
それは、今までにない大嵐で、横見弥一左衛門は、心配で心配でたまらず、何度も供の者をつれて、干拓地を見回りに行きました。
嵐は三日三晩続きました。そして、三日目の晩、見張りのものが息せききって、横見家の家に駆け込みました。弥一左衛門もちょうどその時見回りにいくしたくをしていたときでした。
「た、たいへんだぁ、横見の殿様、とうとう堤防が崩れました」
「なに」
と、いったまま、弥一左衛門は、蓑かさもつけずに外に飛び出しました。
やがて、嵐がおさまり、夜もあけました。海鳴りが嵐で浮き上がった小魚をあさっているのでしょう…。のどかな鳥のさえずりが聞こえてきます。
しかし、弥一左衛門は、小高い丘に座り、どす黒くよごれた干拓地と無残な傷口を見せている堤防に、うつろな目を向けたまま、まるで魂の抜けた人形のように、ぼんやりとうち沈んでいるだけでした。

工事はまたやりなおしです。
しかし一度決壊した堤防は、いくら補修しても、ちょっと雨が降り続いたり、海が荒れたりすると、すぐ崩れてしまうありさまです。いままで順調にすすんでいた工事は、まるでうそのように難工事に変り、いたずらに日数がたっていくだけでした。

弥一左衛門はしだいにあせりはじめ、頬がこけてしまいました。
村人たちの間からも、人柱をたててはという、話が持ち上がりましたが、もういちど“竜神”におたのみしようと、ふたたび大掛かりな仕事を始める前に、竜神堂を建ててまつり、祈願祭をおこないました。
そして九分どおり出来上がったころ、また嵐が襲ってきました。

横見弥一左衛門は、家来に、
「この嵐に持ちこたえれば、工事は必ず成功する。しかし、今度壊れれば、もう最後だ…。今は竜神におまかせするより仕方がない」
その嵐の二日目の晩、堤防の一箇所から海水が干拓地にドッと流れ込みはじめました。
知らせを受けた弥一左衛門は、
「やはり、だめだったか…」
と、大きなためいきをつきました。

そのときです。
稲光がしたかと思うと、その光が堤防の上に広がりはじめ、白い牙をむいて押し寄せる波を押し返しはじめたのです。

人々は、
「竜神さまだ、竜神さまが堤防を守ってくださる。ありがたいことだ」
と、涙を流して感謝の言葉を申しました。

こうして、竜神さまのお守りで、堤防は助かり、寛文八年の春、りっぱに完成しました。
ところが、この年の夏、大干ばつが起こり、宇津井松屋の人たちは、竜神堂の竜神さまに、雨をお祈りしたところ、たちまち願いがききとられ、実り豊かな秋を迎えることができました。

そこで、人々はこの土地の守護神として、新しい社殿を造り白崎大明神としたところ、竜神さまがたいへんお喜びになられたといいます。
ここから、現在の地名の“王喜”が生まれてきたと伝えられています。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/04/02 Tue. 10:34 [edit]

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02

白蛇の家 

白蛇の家


白蛇は、日本全国でも岩国だけに生息しており、天然記念物に指定されていますが、その珍しい白蛇が、吉田の埴生口、木藤という家におりました。

木藤さんの家は、吉田で三軒の中に入る大きな農家で、下男下女を十人も使っていました。
この木藤さんの納屋の石垣に白蛇がいて、夏になると、時々姿を見せるので、人々は木藤さんの「金の神」と云っておりました。
そんな大金持ちの木藤さんでしたが、毎日朝早くから田畑に出で、使用人と一緒に汗を流して働いておりました。

その木藤さんに一人の道楽息子、愚太郎兵衛がおりました。
愚太郎は畑仕事はせず、毎日料理屋にいりびたり、
「酒に肴は、よいしょこしょ、仕事に麦飯や、嫌のさっさい」
と三味線にあわせて踊っていました。
「おやじなど金に使われている。だが、俺は違う。金は使うためにあるのじゃ。…ウンンあの白蛇が金の神か、あんなのは迷信ちゅうもんじゃろう…」
というわけで、二十歳が過ぎても親の意見を耳に入りませんでした。

そして、親が亡くなると、じき田畑を売りはじめました。
ある日、下男の小四郎が牛馬に餌をやっていると、主人の愚太郎が、白蛇のすんでいる納屋の石垣に湯水をかけています。
石垣からは、白蛇がぞろぞろ逃げ出しました。
「金の神様に、どうしてそんなことを」
と、小四郎が云うと、愚太郎は、
「金の神様か、フン、おれは蛇が大嫌いじゃ、あの目を見ると一日中飯に味が無い。あんな蛇が好きなら、どうぞ連れて行っておくれ…」
と、云ったので、小四郎は逃げ出したたくさんの白蛇をかますに入れて、自分の住んでいる掘立小屋に運びました。

小四郎はその後、主人の愚太郎から独立して、一生懸命働き大金持ちになりました。
小四郎の子孫は、代々金回りが良かったということです。


(注)
このお話は、浦上豊著「下関昔話・吉田の巻」の中にのっている、吉田地区に語り伝えられてきたお話です。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/04/01 Mon. 12:36 [edit]

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01

あかずの扉 

あかずの扉


明治になるちょっと前のこと、天然痘が大流行した年がありました。

長府逢坂の坂口、むかって右手の角屋敷に松田という三百石取りの侍が住んでいましたが、松田の家でも、たった一人の男の子と、その家の中間の子どもとが同時に天然痘にかかりました。
松田家の子どもは、手厚い看護の効き目も無く“痛いよ…痛いよ…”と苦しみながら死んでしまいました。
それにくらべて中間の子どもの方は幸いなことに全快しました。

松田の両親の悲しみは大変なものでした。
「ご主人様の坊様とかわっていればいいのに」
と、主人おもいの中間夫婦は心からそう思っていたし、口にも出して主人をなぐさめました。
そのうち初七日も過ぎましたが、しかし松田の耳には、痛いよ痛いよと苦しんで死んでいった我が子の声が残ってどうすることもできませんでした。

「おお、せがれか、苦しいだろうががまんせい」
真夜中に布団を跳ね返して、こう口走ることもありました。
松田は日に日に痩せ衰え、ほほ骨はとがり、目だけが異様にギラギラと光をおびてきました。

それから数日たったある日のこと、主人の松田が縁側へ出てぼんやりと冬の淡い日差しをあびているとき、全快した中間の子どもがくぐり戸から庭へ入ってきました。
松田には一瞬我が子が入ってきたのかと思いましたが、その子が中間の子とわかってよけいにカッとなり、
「お前がわしの子を殺したのじゃ」
と、庭へ飛び降り、子どもの襟首をつかんで、ずるずると井戸端近く引きずっていきました。
「苦しいよ、はなしてよ」
と、子どもは悲鳴をあげて泣き叫びました。
この声をききつけて、あわててかけつけた中間夫婦は、
「ご主人様、せがれが何かそそうをしましたか、それならどうぞお許しください」
と、主人にとりすがって必死に頼みました。

けれど、その時すでに気が狂っていた主人は、
「うぬ、このガキがわしの子どもに病気をうつしたのじゃ、せがれのかたきだ」
こうののしったかと思うと、やにわに刀を抜いて、子どもを斬り捨てました。
子どもの首は、ころころと転がってくぐり戸前まで飛びました。そしてピューっと血を吹きだしたかと思うと見るまにくぐり戸を真っ赤に染めてしまいました。
それきり、主人の松田は気が変になってとうとう死んでしまいました。

その後、血のついたくぐり戸は、開いても開いてもすぐ閉まるようになり、誰いうとなく「あかずの扉」と呼ぶようになりました。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/03/31 Sun. 11:59 [edit]

category: 下関の民話

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31

福笹 

福笹


むかし、小月の里に、八重というきりょうよしで親孝行の娘がいました。
八重の家は、両親と三人ぐらしでしたが、両親は病気ばかりしていて、家事のことから、野良仕事まで、ぜんぶ八重が受け持っていました。

こうした八重の働き振りが気に入られたのか、村の庄屋さんの息子のお嫁にという話が持ち込まれました。
しかし、相手は金持ちの庄屋さん、こちらは貧乏ぐらしの百姓娘、どう考えてもつりあわないと、両親は断りました。
八重にしても、病気ばかりしている両親を、このままおいて、お嫁にいけるわけがありません。
それどころか、少しでもお金をためて、薬を買い両親に早く良くなってもらうため、体を休めるひまもなく働き続けました。

こうして、また新しい年を迎えたお正月のこと。
王喜に住むおじさんが、小月での用事のついでに八重の家に立ち寄りました。
「お八重や、明日は初寅の日だが、いっしょにおまいりにいかんか、毘沙門さまのご利益をもらって今年はいい年にしなければ…」
と、さそいました。そばから母親も、
「ほんとうに、わしが弱いばっかりに、八重に苦労ばかりかけて…、お正月の晴れ着もよう買ってやることもできずに…」
そんな、母親の悲しい気持ちを打ち消すように八重は、
「いいえ、別に初寅だからといっておまいりしなくても、私はここから、いつも毘沙門さまをおがんでいます。おじさん、おまいりされたら、お父さんやお母さんの達者をよくお願いしておいてください」
と、八重は、おじさんや母親に向かって、明るく笑ってみせ、またせっせと藁編みの手を進めるのでした。
「そうか、それじゃ、わしがよう頼んで、かわりに福をもらってきてやろう」
と、おじさんは、親子のかばいあう姿に胸をうたれて、そう言って帰っていきました。

あくる日は、毘沙門天さまのおまつり、おじさんは、おまいりをすませて山をおりてしまってから、ふと八重との約束を思い出しました。
福をもらって帰ってやるといったものの、もうここまできてしまっては、なにをおみやげに持って帰ればいいのか…。
おじさんは、思案しながら歩いていますと、とつぜん“バサッ”という音がしました。おもわずびっくりしてその方を見ると、笹の葉がゆれていて、それは笹の葉に積もっていた雪をはねのけた音だったのです。
「おおそうじゃ、この笹を、毘沙門天さまのおさずかりじゃといっておみやげにしよう」
こういっておじさんは、一枝とって帰りましたが、この笹には見事な葉が五枚ついていました。

「お八重や、いま帰ったぞ。今年はおまいりが多くて、おみやげものはみな売り切れてしまった。こりゃあ四王司山の笹葉だが、これには、毘沙門さまの福がこもっている。まぁ神棚にでもまつっておけ」
といって、おじさんは、きまりわるげにお八重に渡しました。

あくる朝、八重が、神棚をのぞくと、たしかに昨日のせたはずの笹が見当たりません。
おかしいと思いながら、背伸びをして手で探していますと、チャリン、チャリンと音がして、板間に落ちたものがあります。
なんとそれは、キラキラとまぶしい光をはなつ小判でした。
「こりゃ、まぁ」
といったなり、八重はビックリして板間に座り込みましたが、すぐさま両親をよんでみせますと、二人ともワナワナふるえだし、ものを言うこともできません。八重はあわてておじさんを呼びにいきました。

聞いて、おじさんは飛んできましたが、目の前の小判五枚を見て、たまげてしまいました。そして、
「これは、やっぱりお八重の日ごろの信心と、親孝行を知って毘沙門さんがおさずけくださったんじゃ」
と、いいきかせるのでした。

この噂は、たちまち村中にひろまっていきました。
そして、ふたたび庄屋さんから、八重を息子の嫁にもらいたいという話が持ち込まれ、村中の祝福を受けながら、春三月お嫁入りしました。
そしてその後も八重は、ずっと幸せにくらしたということです。


ところで、それからというもの、毘沙門さまのおまつりには、おまいりする誰もが、四王司山の笹葉をもらって帰るようになり、いつか笹葉は、初寅まいりの福の笹として、これに張り子の小さな虎や小判を結びつけ“福飾り”といって売り出されるようになりました。


(注)
初寅まいりの日には、今でもこの“福飾り”がお土産に売られています。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/03/30 Sat. 10:46 [edit]

category: 下関の民話

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