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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関の地名36 赤馬 

赤馬


藤原佐理という人が書いた「離洛帖」に、「赤馬泊」と記されているのが、「赤馬(あかま)」を見る最も古い文書です。
記されたのはせい正暦2年5月19日、藤原佐理が京都から大宰府に大宰弐として赴任の途中のことです。
赤馬(下関の別称)まで来て、京都を出発するときに摂政藤原道隆にあいさつを忘れたため、そのお詫びを藤原誠信に依頼した書状で、文書は国宝に指定され、畠山記念館に所蔵されています。
「赤馬」の記述された部分は「今月十六日、来到長門赤馬泊」(16日に長門の赤馬という港に来た)とあります。
そののち「赤馬」は「赤間」と同じように使われています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/02/12 Tue. 10:17 [edit]

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下関の地名35 下関 

下関


下関も古くから登場していた地名で、文書として確認できるのは、貞観11年9月27日付けの「太政官符」(当時の朝廷の出した文書)です。
「下関権軍毅一人 主帳一人 兵士百人」
と記された太政官符の内容は、下関に権軍毅(副大将)を一人、主帳(書記)を一人、兵士百人を配置するというものです。
同じ項目に、豊浦団として、軍毅二人とあり、主帳と兵士の記述部分は欠落していますが、兵士は四百人であろうとされています。
この文書は、大陸からの外敵襲来に備えて、軍備を整えた様子を記したもので、長府(豊浦)に本隊があり、下関にその分隊を置き、その規模を示しています。
長府には四倍の兵力が置かれていたことになります。

「下関」は「上関」に対しての言葉と思われます。
上関は、山口県の東部にあり、瀬戸内海の重要な交通拠点に位置しています。下関に比べ、京都に近いことから「上」の名がつけられたものでしょう。

「下関」は、近代になって登場した地名のように思われがちですが、古くからあった地名ということがわかります。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/02/10 Sun. 11:08 [edit]

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下関の地名34 「赤間」の由来 

「赤間」の由来


赤間(あかま)の語源は、紅石山(赤間神宮の裏山)に大きな馬の形をした紅色の岩石があったことから、また、船の中にたまる水を「アカ」ということからなど諸説がありますが、平成4年に発刊された『下関市史・民俗編』に、「赤間関の地名の由来」という項があり、「赤間」の由来が記述されています。

この項目は、監修者で全国的に著名な国分直一氏が記述したもので、大要は次のとおりです。

旧暦一月一日、早朝の最干潮のとき、関門海峡の早鞆瀬戸で、下関市の住吉神社と門司区の和布刈神社が、両岸で相対し「和布刈神事」を行います。この神事は、太古から行われているもので、春に先立ちもえ出るワカメを刈り採って神前に供え、民衆も食べることによって神と一体になるという考え方です。(海中にあって繁茂するワカメには、神が宿ると伝えられています)
関門地域で海とかかわって暮らす人々は、「ワ」を「ア」と発音し、「ワカメ」を「アカメ」と発音するところから、「アカメ」が「アカマ」になったとするものです。
「メ」が「マ」となったのは、「目」の古い形が、「マ」であったからとしています。

現在でも、壇之浦漁業協同組合の皆さんは、この和布刈神事が終わるまで早鞆瀬戸のワカメを刈り採らないという風習を固く守りつづけています。これも神とのかかわりを感じさせるものです。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/02/09 Sat. 12:08 [edit]

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下関の地名33 赤間関(あかまがせき)と下関 

赤間関(あかまがせき)と下関


下関の地名で、忘れてならないものに、「赤間関」があります。
「赤間関」は、明治22年4月1日に全国で市制が施行され、31の市がはじめてできたとき、その一つ「赤間関市(あかまがせきし)」として、市の名称につかわれました。
また、赤間関は、「赤馬関」とつかわれたり、「馬関」と呼ばれたこともありました。
現在のように「下関市」と呼ばれるようになったのは、13年後の明治35年に、市の名称を近代的なものにしようと、変更したものです。

「赤間関」の「関」は、水陸の交通の要所に、軍事や警察上の目的をもって設けられた施設で、全国的には大化改新ころから整備されています。
本州最西端に位置し、九州と、さらに大陸とも近い下関の地に「関」があったことは、当然のことといえます。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/02/08 Fri. 12:09 [edit]

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下関の地名22 福浦 

龍宮島


 むかし、福浦の港には海賊が出入りして良民を苦しめていた。海賊の屋敷は、この港のあちこちに散らばっていたが、中でも対岸の伝馬島にあるのが一番大きかった。

 ある日のこと、
『あの島の海賊をみんなで退治しようじゃないか』
 という相談がまとまって。村の若い衆が総出で討伐に出かけることになった。

 さて、夜も寝しずまったころ、舟で島に渡り、そぅっと上陸してみたが、どこにも人の気配がない。
『おかしいぞ、こんな筈はない』
 小さな島のこと、みんなで手分けして探し歩いたが、猫の子一匹見つからなかった。
『今夜は、また沖へ出て、悪いことでもしよるんじゃろう。明日の夜、また出なおして来うじゃないか』
 一人の若い衆がそう言ったが、みんなは、なおも、そろっ、そろっと、足音をしのばせて探し歩いた。と、闇のすそからギーっと音がして、一本の松がぐっと傾いた。若者たちは驚いて一斉に身を伏せ、眼をこらした。
 すると、松の根方にぱっくりと穴があいて、雲をつくような大男が出て来た。一人だけではない。二人、三人、四人、九人、十人…と、出るわ出るわ、あとからあとから、数えてみると三十六人。
 大男のくせに足音も立てず、どこからともなく引いてきた船に分乗すると、すーっと屁のように沖へ消えて行った。

 若者たちは、松のまわりに集まって互いに顔を見合わせていたが、突然、一人の度胸者が、松の木を傾けて、根元の穴に入っていった。しばらくの間、ぼゃあっとそれを見ていた若い衆らも、気をとりなおして、そのあとにつづいて入った。

 そして、仰山たまげた。

 穴の中は立派な御殿、いや、さながら龍宮城で、金銀財宝が山と積まれていたからだ。その奥では、美しい着物で着飾った女たちが、ワイワイ騒いで酒盛りの最中であった。
 若者たちは、すっかりその雰囲気にのまれて、しばらく立ちつくしたままだった。すると女たちもそれに気づいたのか、
『まあ、あなた達は、むこう岸からいらしたのですね。私たちは、ずーっと永い間、お待ちしていました。さあ、こちらへどうぞ』と手招きして、大いにもてなしてくれた。
 若者たちは、夢遊病者のようにその宴の輪にさそい込まれ、思わず、時間も目的も忘れて美酒に酔いしれてしまった。
 そうしているうちに、海賊どもがぞろぞろと戻って来て、若ものたちは捕らえられたが、たった一人だけ、命からがら逃げ帰り、村の人びとにこのことを告げた。

 あくる朝、村の人びとは総出で伝馬島に押しかけ、若者たちを救おうとしたが、不思議なことに、前の晩の松はどこにも見当たらなかった。
 その夜から、付近の海を荒らす海賊たちは現れなくなったからそれは良いとしても。とらえられた若い衆の行方も、わからないままであったという。


 海賊が居なくなって静けさを取り戻した福浦の人びとは、伝馬島に若衆たちの墓を建てて『龍宮島』と改め、海賊退治に出向いた人びとの勇気をいつまでも語り伝えた。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
龍宮島は、福浦湾の奥まったあたりの、塩浜寄りにある小島であるが、今は陸続きとなっている。
通称、リンゴ山、昔は『海賊島』とも呼ばれていた。
現在、塩浜町の小公園になっているが、この名称は『リュウグウが転じてリンゴになった』と言われている。
尚、この近くには、他にも『海賊谷』『海賊の口』『海賊泊り』『海賊屋敷』などの地名や伝説が残っている。
また、海賊の人数が三十六人というのは、六十三隻江良の逆数であることを考え合わせて、面白い。

Posted on 2019/02/07 Thu. 09:39 [edit]

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