01 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.» 03

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

うにの由来 

うにの由来

雲丹加工の由来

 水産加工都市下関を代表する名産はウニとフクである。下関でウニを食用とした歴史は古く、安岡の潮待貝塚からは、約二千年前のウニの殻がタイの骨と一緒に発見されている。
 下関のウニは瓶詰めに加工した製品が有名で、全国に知られ、その生産量は毎年約千トンに及び、売上高は37億円(昭和50年)に達しているが、このウニ加工製造の元祖は六連島である。
 六連島は安政元年(1858)頃から、戸数六十戸程度を維持してきた島で、周囲は好漁場の海に囲まれているが、地形が肥沃な大地に恵まれ、農業に適していたため、漁業を見捨てて農業に生きてきた。しかし、農閑期には副業的な磯漁業として、ウニをはじめ、アワビ、サザエの貝類や海草の採取は毎年続けてきたのである。
 特にウニは、文化・文政(1804-1829)の頃から採取し販売してきたもので、塩漬けによる加工は、文久年間(1861-1862)に庄屋の久七が考案したと伝えられている。
 明治20年(1887)になって、六連島西教寺九世の蓬山和尚(1821-1898)が塩漬けウニに、新たに焼酎を振りかけて長期保存法を編み出し、城戸久七に教え、さらにアルコール漬けに改良した。
 こうしてアルコール漬けによる完全な長期保存が確保されてから売り上げも急速に伸び、六連島ウニ販売の代表者城戸久七こと「雲丹久」の名は一躍有名になり、その優れた製品により明治36年7月には、第五回内国勧業博覧会に、明治40年12月には連合水産共進会においてそれぞれ入賞した。
 その後、明治末期にいたり、六連島の雲丹は大資本の下関の業者と買占契約を結び、六連島ウニから下関ウニへと飛躍発展した。
 大正5年当時、下関におけるウニの生産額は約5万円にすぎなかったが、その後、当業者の努力により、逐年増加していった、昭和4年は生産高73トン、生産額15万6千円となっている。
 下関ウニはほとんどが土産品として市内で販売されたが、主たる輸送先は国内はもとより、青島、台湾、大連などでこれら輸送用のものはすべて瓶詰めのウニであった。
 第二次大戦の勃発により一時姿を消したが、戦後はいち早く復活し、設備の充実、製法の改良など近代的製造工程により、品質の向上を目指して競っている。

(下関市史)


創業80年の重み-下関名産ウニ

 明治初期、英国人が灯台守として六連島に居住。灯台設置に伴い外国船の出入りが増加し始めると、船舶の水先案内人たちも六連島を基地として常駐するようになる。外国人がしばしば、院家(西教寺の蓬山和尚)を訪ね、歓談に興じていたある日、杯に注ごうとした酒が誤って小鉢にこぼれた。
 院家は黙って小鉢のウニを口に含んだ。途端に「これだー」と思った。ウニがこれほど美味であったとは・・・まろやかな風味が口に広がったのであった。
 ボトルを手にしてみると、アムステルダム・オランダの刻字があるアルコール度45度のジンであった。さっそく、島一番のウニ業者城戸久七に話し、試作させた。城戸久七はさらに研究を重ねて独特の秘法を生み出した。
 城戸久七に弟子入りし、31才で秘伝法皆伝を授かった上田甚五郎が創業したのが「うに甚」である。

(山口新聞)

Posted on 2019/12/06 Fri. 09:55 [edit]

category: 下関あれこれ

TB: --    CM: 0

06

お亀銀杏 

お亀銀杏(亀山八幡宮)

「イチョウ」の大木を背にして、昔は島であった亀山八幡宮の一帯を埋め立てるときに、人柱となった遊女 「お亀」を祀った小さな祠(お亀大明神)があり、池には多くの亀が飼われています。

 神社地は古くは島でしたが、江戸時代の始め頃、街の発展のために陸続きにする埋め立て工事が、毛利藩によっておこされまりました。
 しかし海峡の潮の流れは速く、ひと岩沈めればひと岩を流す急流であり、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで一向に進みませんでした。
 町では「これはきっと神様のお怒りに触れたためだだ」と噂が広まり、とうとう困った役人は人柱を立てることを決め、さっそく海峡の流れを鎮めるため、「人身御供」としての人柱募集の高札」を立てました。

 当時、この辺りには、稲荷町(現・赤間町。当時江戸の吉原・京の島原につぐ三大遊廓の一つ)の「お亀」という疱瘡を病み顔に「アバタ」のある遊女がいました。
 町かどに立った人柱募集の高札を見て「お亀」は、このまま生きて身を汚すより、「こんな私でも町の人たちのお役に立つなら ば」と決心して申し出ました。

 月明かりの夜です。「お亀」は白衣に身をつつみ、合掌して一歩一歩どす黒い海へ消えていくその姿は、仏様を思わせる気高さがあって人々は、その後姿にいつまでも念仏を唱え続けました。

「 お亀」が人柱となって海底に消えた翌日から、人々は急いで準備にとりかかり「お亀」の尊い犠牲を無にするなと急ピッチで工事を進め埋めたて工事は速い潮に悩まされる事もなく、見る見るうちに完成したと言います。

 人々は「お亀」の功績をたたえ、亀山八幡宮にイチョウの木を植えて「お亀イチョウ」と名づけました。
 生長して毎年秋に無数の実を結ぶイチョウには、何故かたくさんの斑点があり、「お亀」さんの顔の「アバタ」が残ったものと伝えられ「お亀ギンナン」と呼ばれていました。
 この実は明治の頃に天然痘が流行した時は、多くの人に疫病除けのお守りとして求められたということです。

『お亀イチョウ」は昭和20年(1945)の空襲により、焼失しましたが、「お亀」さんの遺志を継ぐかのように焼け残った株から新しい芽 が出て、今では何事も無かったかのように豊かに生い茂っています。
 その名残である古株の跡は、今も残されています。

「お亀イチョウ」は、秋にはたくさんの実を落し、不思議にも「お亀」さんの「アバタ」のような無数の斑点があることから、「お亀ギンナン」と呼ばれ、明治の頃には、疱瘡除けのお守りとし、今では無病息災、延命長寿のご利益があるとして、境内で売られています。

 神社では5月に五穀豊穣を祈る五穀祭が行われます。その時に氏子中では、「八丁浜エラヤッチャ」と合いの手を入れながら、八丁浜の囃しに合わせ杓文字を叩きシャギリ踊る、八丁浜(ハッチャハマ。八丁浜踊り、八丁浜シャギリともいう)が行われます。
 いつしか博多にお株を奪われてしまいましたが、杓文字を打ち鳴らしがら「ぼんち可愛いやねんねしな」と唄って踊る踊りは、この下関が発祥の地と言われています。

「八丁浜」とは「お亀」さんの犠牲によって埋め立てられた浜地の広いことを言い、「エラヤッチャ」とは、「お亀」さんは立派な奴だの意味です。

 江戸時代、毛利藩は派手な歌舞音曲や酒宴などを禁じていましたが、八丁浜の期間中は各所に「賑わい勝手」の高札が立てられどんなに騒いでも咎められることはありませんでした。
「八丁浜総踊り」に先立ち、「お亀明神」前で「お亀明神顕彰祭」が行われています。

 戦後この行事は衰退しましたが、昭和60年(1985)市民祭として開催されることになり、現在しものせき海峡まつりにあわせ賑やかに復活し継承されています。

Posted on 2019/12/05 Thu. 08:50 [edit]

category: 下関あれこれ

TB: --    CM: 0

05

孫文蓮 

孫文蓮


長府庭園(下関市長府黒門東町)の園内には、「孫文蓮」と呼ばれる蓮の花が咲きます。
白地に淡いピンクの花をつける孫文蓮は、夜明けとともに咲き始めて早朝に満開となり、午後には再び花を閉じます。
これを4回繰り返し、4日目には全ての花弁を落として花托となります。
1年のうちでも限られた時期、また1日のうちでも限られた時間にしかその華麗な美しさを見せない孫文蓮を是非ご観賞ください。

【場所】
長府庭園の正門を入って左手、書院の横および奥の池

【開花時期】
例年は、7月中旬から8月中旬まで
※花弁は午前11時頃に閉じてしまいます。

孫文蓮

大正7年(1918)に日本 に亡命していた中国革命の父と言われる孫文が革命援助のお礼として、長府在住の田中隆氏に4粒の蓮の実を贈りました。
その後、昭和35年に田中氏の四男隆盛氏によりハス博士大賀一郎氏に発芽育成が依頼され、昭和37年東京大学農学部付属緑地実験所において4粒のうち1粒が発芽し、「孫文蓮」と名づけられ平成6年に長府庭園へと分根されました。

Posted on 2019/12/04 Wed. 09:16 [edit]

category: 下関あれこれ

TB: --    CM: 0

04

下関の人物 藤本 英雄 

藤本 英雄 ふじもと ひでお(1918-1997)


大正7年、韓国の釜山市で生まれました。
三歳のときに下関市彦島町に転居。昭和13年に下関商業高校を卒業。
甲子園には、同10年と同12年の選抜大会に出場し、二回目のときは優秀選手賞を獲得しています。
下商時代は、二年先輩の高井英一郎とバッテリーを組み、その後明治大学に進むと、二年生でエースとなり六大学リーグで二回優勝。同17年明治大学を卒業し、東京巨人軍に入団しています。
同21年まで巨人で活躍したあと、中日に移りますが、同23年に再び巨人に戻っています。
肩をいためてどん底の時代もありましたが、スライダーの会得で立ち直り、日本でのスライダーの生みの親となりました。スライダーで再起したのち、同25年6月28日、青森球場で西日本チームを相手に、日本プロ野球史上初めての「完全試合」の偉業を達成。
同51年にプロ野球殿堂入りをしています。プロ野球を引退後、同32年から三年間、大和証券の野球部監督として迎えられていました。
平成9年に亡くなりました。享年78歳でした。


「下関の人物」下関市教育委員会刊行より


Posted on 2019/12/03 Tue. 09:04 [edit]

category: 下関あれこれ

TB: --    CM: 0

03

下関の人物 河野 タカ 

河野 タカ こうの たか(1891-1980)


明治24年、現在の下関市彦島本村町で生まれました。
彦島実践女学校を卒業。大正6年に東京武田高等女学校専攻科へ入学。その後、大妻高等女学校高等科手芸科に入学し、同9年、卒業と同時に母校の東京武田高等女学校裁縫教師として就職し、教員生活の第一歩を踏み出しています。
同14年、かねて念願していた女子専門教育を実現させるため下関に帰り、次の年、上田中大正通りに河野高等技芸院を創設。同17年、桜山町に新校舎用地を購入。新校舎の実現は六年後のことでした。
戦後は、教育制度も大きくかわり、学制改革により新制中学校が発足すると、同22年、下関河野学園中学校を創設。続いて、新学制による下関河野学園高等学校を開校し、校長を勤めています。
同25年には、幼児教育の重要性を認識し、市内唯一の私立幼稚園下関河野学園幼稚園を開設、さらに、同37年、下関女子短期大学家政科を創設し学長に就任。
幼稚園・中学・高校・短大と一貫教育の場をつくりました。80歳を過ぎ、なお教壇に立ち、生涯を女子教育にささげました。
同55年ななくなりました。享年88歳でした。


「下関の人物」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/12/02 Mon. 11:13 [edit]

category: 下関あれこれ

TB: --    CM: 0

02