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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

本州最西端の地 

本州最西端の地


下関市の吉母毘沙ノ鼻は、北緯34度6分27秒・東経130度51分45秒で、本州最西端の地です。

この地は、海岸の岩が切り立った先端にあり、ルート知り尽くした釣り人以外は、行く事が出来ません。
そこで、毘沙ノ鼻の岩礁からはるかに高い位置の山林を切り開き、展望台を設置し、観光客が車で訪れることができるようになっています。

この最西端の地域は、歴史や伝説の多い地区でもあります。
そのなかから、幾つかを紹介しましょう。

毘沙ノ鼻の近くには、下関市の不燃ゴミの埋没場があり、その先に「畳石」があります。

この「畳石」は、神功皇后が韓半島から帰朝のとき、ここから上陸したと伝えられる所です。
この場所は、周囲の黒色の岩盤中に、黄色をおびた岩肌が、波打ち際から絶壁の上まで続き、さながらに畳を積み重ねた様相にも見えるところから、このように名付けられたものです。

また、この近くに「どうどうケ瀬」「馬取場」という場所があります。
この地名は、牧場の馬が「どうどう」という、止まれという声も聞かずに淵に飛び込み、これを重ねているうちにみごとに育ち、「するすみ」「池月」という、宇治川の先陣争いにその名の残る名馬になった、というものです。

「馬取」は、馬取殿といわれた人の屋敷があったから、といわれています。

馬の伝説に「ひばり毛の名馬」もあります。
これは、母馬を亡くした子馬が、母恋しくていななくと、はるか4キロ沖の海上に浮かぶ蓋井島から、応えるかのように母馬らしい声が聞こえます。
子馬は、母を求めて海を泳ぎ渡り、島を探し回っても母馬はいません。
そこで、ふたたび母恋しくいななくと、今度は、牧場の方からいななきの声がします。
すぐに飛び込んで、牧場に戻ってみますが、母馬の姿はもちろんありません。
こうして、蓋井島との間を何回も泳いでいるうちに、ひばり毛のみごとな名馬になり、大内義隆の愛馬となった、というものです。

次は、住吉神社文書に記録されているもので、永禄11年3月14日に、この御崎の北、室津と吉母の境に打ち寄せられた鯨の所有権をめぐって争いがあり、一宮領と馬牧場の絵図で確認すると、紛れも無く住吉神社の神領地である、という内容のものです。
当時でも、鯨は大切な食糧であったことがわかります。

さらに、この地域が、伊能忠敬の測量地図に「正月不知」と記されています。

伊能忠敬は、文化3年5月16日、
「吉母村黒嶋一周、室津村の内、正月不知迄測、測量場甚難所ニ付…」
とあり、御崎を「正月不知」と記述しています。

これは、この地域が温暖で、スイセンが他の地より早く咲き、下関へ売りに出たところ、よく売れるため、毎日毎日売りに出ていましたが、突然売れなくなりました。
いつの日か正月に入っていた、という笑い話です。

この話が古くからあったことを示し、伊能忠敬の地図に記述されているところから、日本全国、世界までも流布していることになります。

終わりに、万葉の歌碑を紹介しましょう。

 長門なる 沖つ借島 奥まへて
 吾が思ふ君は 千歳にもがも (万葉集巻六 1024)

の歌碑が、毘沙ノ鼻展望台の地に建っています。
沖つ借島は、この地から展望できる蓋井島のことで、平成12年に地元の皆さんによって建立されたものです。

この歌は、天平10年8月20日、時の右大臣橘諸兄の家での宴で、長門守巨曽倍対馬朝臣が詠んだものです。

このように、本州最西端の地、毘沙ノ鼻は、歴史と伝説の地でもあります。
どうぞ、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/09/25 Wed. 11:45 [edit]

category: 下関あれこれ

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