彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
西楽寺
西楽寺
専立寺の東側、といっても並び建っているようなものだが、小丘の中腹に正覚山西楽寺がある。
その参道入口の石段のそばには「平重盛守護仏彦島開闘尊像安置」と刻まれた石塔も建っている。
平重盛の守護仏は阿弥陀如来座像であるが、伝承によれば、白鳳時代の天武六年に賢問子という仏師に天武天皇が勅命によって彫らせた由緒ある仏像である。
この座像は約五百年間、東大寺に安置されていたが、承安四年、平家の絶対権力によって重盛の手に渡り「平家の守護仏」となったという。
その阿弥陀如来座像が彦島に渡って来たのは、源平合戦の後、文治二年一月のことで、平家の執権植田治部之進、岡野将監、百合野民部らによって、観世音菩薩、薬師如来立像と共に密かに運ばれ、迫の一角に隠された。
その地は今でも「カナンドウ」と呼ばれているが、これは「観音堂」が転じたものである。
時宗の祖、一遍上人の高弟、西楽法師は、建治二年三月、九州へ渡る途中来島し、観音堂の阿弥陀像の威光にうたれた。
「これは凡作ではない」と看破して、一遍上人の許しのもとに、彦島に永住し座像に仕えることを決意した。
そして、迫の観音堂を廃し、本村に草庵を建てて、三像を移奉し「西楽庵」あるいは「西楽精舎」と命名したが、それから二年後の弘安元年八月には、重盛の法要を盛大に営んだ。
「小松内大臣重盛公百回忌法要」は8月21日から27日まで開催され、時の太守、大内義成も参詣し、源平の合戦で大内氏が平家にそっぽを向けたことを悔いて、阿弥陀像に泣き伏したと伝えられている。
ところで阿弥陀如来座像は、度重なる海賊の襲来を避けて、下関の専念寺に疎開させられたり、住職の死によって、何度も無住の寺となった時もひっそり留守番役に甘んじて、今では彦島の守護仏となっている。
座像の高さは蓮台から光背まで、ざっと二メートル近いと思われ、薄暗い本堂の正面で、眉間の白豪だけが、いつも透明に輝いている。
「平家一門霊」と書かれた位牌を膝元に置いて、訪れる人もいない阿弥陀像は、平家ブームに便乗するでもなく、荒れ果てた寺院の片隅で、今も彦島の生活を送っていらっしゃる。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
専立寺の東側、といっても並び建っているようなものだが、小丘の中腹に正覚山西楽寺がある。
その参道入口の石段のそばには「平重盛守護仏彦島開闘尊像安置」と刻まれた石塔も建っている。
平重盛の守護仏は阿弥陀如来座像であるが、伝承によれば、白鳳時代の天武六年に賢問子という仏師に天武天皇が勅命によって彫らせた由緒ある仏像である。
この座像は約五百年間、東大寺に安置されていたが、承安四年、平家の絶対権力によって重盛の手に渡り「平家の守護仏」となったという。
その阿弥陀如来座像が彦島に渡って来たのは、源平合戦の後、文治二年一月のことで、平家の執権植田治部之進、岡野将監、百合野民部らによって、観世音菩薩、薬師如来立像と共に密かに運ばれ、迫の一角に隠された。
その地は今でも「カナンドウ」と呼ばれているが、これは「観音堂」が転じたものである。
時宗の祖、一遍上人の高弟、西楽法師は、建治二年三月、九州へ渡る途中来島し、観音堂の阿弥陀像の威光にうたれた。
「これは凡作ではない」と看破して、一遍上人の許しのもとに、彦島に永住し座像に仕えることを決意した。
そして、迫の観音堂を廃し、本村に草庵を建てて、三像を移奉し「西楽庵」あるいは「西楽精舎」と命名したが、それから二年後の弘安元年八月には、重盛の法要を盛大に営んだ。
「小松内大臣重盛公百回忌法要」は8月21日から27日まで開催され、時の太守、大内義成も参詣し、源平の合戦で大内氏が平家にそっぽを向けたことを悔いて、阿弥陀像に泣き伏したと伝えられている。
ところで阿弥陀如来座像は、度重なる海賊の襲来を避けて、下関の専念寺に疎開させられたり、住職の死によって、何度も無住の寺となった時もひっそり留守番役に甘んじて、今では彦島の守護仏となっている。
座像の高さは蓮台から光背まで、ざっと二メートル近いと思われ、薄暗い本堂の正面で、眉間の白豪だけが、いつも透明に輝いている。
「平家一門霊」と書かれた位牌を膝元に置いて、訪れる人もいない阿弥陀像は、平家ブームに便乗するでもなく、荒れ果てた寺院の片隅で、今も彦島の生活を送っていらっしゃる。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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