彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
縄文遺跡
縄文遺跡
彦島に人間が住み着いたのは、一体、いつ頃であろうか。
今、はっきり確認しているところでは、縄文時代の前期の前半の遺跡として現在の彦島八幡宮附近に住居の跡があるので、紀元前七千年頃ということが出来よう。
そして前期の中葉にかけて使用されたと思われる多くの土器も出土しているが、この前半および中葉の遺跡は「彦島の宮ノ原遺跡」と呼ばれている。
また、六連島南端からも縄文時代の出土品や遺構が発見されているが、こちらは縄文後期及び晩期に属するものと見られ、「六連島遺跡」と名付けられている。
縄文後期末は紀元前四千年頃に当たる。
宮ノ原遺跡は、老の山山麓から西にのびた砂州で、彦島八幡宮の境内がその中心である。
ここに初めて発掘調査のメスを入れたのは山口大学の小野博士で、昭和34年のことであった。
宮ノ原遺跡の特長は、当時この住居地では何度か地盤沈下が繰り返され、その度に新しい文化が、礫層、海成砂層、風成層、地表などの上に根付いたことで、小野博士はこれを大きく二分し、「宮ノ原下層式土器」と、「上層式土器」と、それぞれ命名した。
すなわち縄文早期の末頃は磯浜であったものが、前期の前半には砂が堆積して老の山の西麓には低い砂嘴が出来て、ここに九州の曽畑式土器を携えた民族が住み着いた。
その後、海水上昇により住居は水没したが、やがて海退して以前よりも大きな砂嘴が出来上がると、また中期後半の人々が住み着き、狩や漁業を営んだ。
ところがまた、後期前半の頃、再び海面が上昇し彼らの住居は水没した。
このようなことが何度か繰り返されて現在の迫、西山地区の地形がつくられたのではあるが、ここで特筆すべきは、姫島産の黒曜石による石器の破片が、実に135点も発見されたことである。
更に、伊万里産と推定される破片も若干ながら出土しているという。
これらの発掘品に完全なものは全くなく、破片ばかりで、その文様も極めて単純なものが多く、しかし、土器の焼成は比較的良好であるといわれている。
宮ノ原遺跡も六連遺跡も、瀬戸内海の縄文文化と、朝鮮から九州に渡来したした文化とが合流していたことが考えられ、度重なる局地的な地盤運動によって、人々は絶えては栄え、栄えては絶えて弥生時代に入っていった。
しかし、彦島では現在まで、弥生遺跡は全く発見されていない。
藩制時代から開発されつづけてきたこの島は、いつの頃か、無頓着のままに破壊されてしまったのかもしれない。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
彦島に人間が住み着いたのは、一体、いつ頃であろうか。
今、はっきり確認しているところでは、縄文時代の前期の前半の遺跡として現在の彦島八幡宮附近に住居の跡があるので、紀元前七千年頃ということが出来よう。
そして前期の中葉にかけて使用されたと思われる多くの土器も出土しているが、この前半および中葉の遺跡は「彦島の宮ノ原遺跡」と呼ばれている。
また、六連島南端からも縄文時代の出土品や遺構が発見されているが、こちらは縄文後期及び晩期に属するものと見られ、「六連島遺跡」と名付けられている。
縄文後期末は紀元前四千年頃に当たる。
宮ノ原遺跡は、老の山山麓から西にのびた砂州で、彦島八幡宮の境内がその中心である。
ここに初めて発掘調査のメスを入れたのは山口大学の小野博士で、昭和34年のことであった。
宮ノ原遺跡の特長は、当時この住居地では何度か地盤沈下が繰り返され、その度に新しい文化が、礫層、海成砂層、風成層、地表などの上に根付いたことで、小野博士はこれを大きく二分し、「宮ノ原下層式土器」と、「上層式土器」と、それぞれ命名した。
すなわち縄文早期の末頃は磯浜であったものが、前期の前半には砂が堆積して老の山の西麓には低い砂嘴が出来て、ここに九州の曽畑式土器を携えた民族が住み着いた。
その後、海水上昇により住居は水没したが、やがて海退して以前よりも大きな砂嘴が出来上がると、また中期後半の人々が住み着き、狩や漁業を営んだ。
ところがまた、後期前半の頃、再び海面が上昇し彼らの住居は水没した。
このようなことが何度か繰り返されて現在の迫、西山地区の地形がつくられたのではあるが、ここで特筆すべきは、姫島産の黒曜石による石器の破片が、実に135点も発見されたことである。
更に、伊万里産と推定される破片も若干ながら出土しているという。
これらの発掘品に完全なものは全くなく、破片ばかりで、その文様も極めて単純なものが多く、しかし、土器の焼成は比較的良好であるといわれている。
宮ノ原遺跡も六連遺跡も、瀬戸内海の縄文文化と、朝鮮から九州に渡来したした文化とが合流していたことが考えられ、度重なる局地的な地盤運動によって、人々は絶えては栄え、栄えては絶えて弥生時代に入っていった。
しかし、彦島では現在まで、弥生遺跡は全く発見されていない。
藩制時代から開発されつづけてきたこの島は、いつの頃か、無頓着のままに破壊されてしまったのかもしれない。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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