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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

学校は七つ 

学校は七つ


彦島第二中学校の新築用地がようやく決まった。
昭和49年暮れのことである。
現在、彦島には彦島中学と玄洋中学の二つがあるのに、第二中学とはおかしいと思っていた所、いずれ玄洋中学は新中学に統合し、その跡地に西山小学校が入る予定とか。
当初、第二中学は、荒田の佐々崎山一帯が候補にあげられたが、老、海士郷の生徒には彦島中学よりも遠くなるとのことで、本村と迫を隔てる鉾江山の西方、東佐山に落ち着いた。

現在、彦島には公立学校が、七里七浦にあやかった訳ではないが、丁度、七つある。
即ち、小学校四、中学校二、高等学校一がそれであるが、中でも明治7年創立の本村小学校は、在校児童千余名を数え、下関の豊浦小学校などと共にマンモス校と呼ばれている。

また、49年1月、校舎の殆どを焼失した彦島中学は千八百余名、一学年のクラスが13を数える程のふくれようである。
江ノ浦小学校は明治40年10月、本村小学校から分かれたもので、当時は、堀越、鎌崎を除く南部地域の四年生以下を収容した。
そして逐次、校区を広め、五年生、六年生と児童をふやして完全に独立したのは、杉田から現在の塩谷に新築移転した大正12年のことであった。

その江ノ浦小学校から分かれて開校したのが角倉小学校で、西山小学校もまた本村小学校から独立して出来た学校である。

彦島中学は、本村小学校の高等科が昭和13年に単独校として創設された彦島高等小学校を前身とし、昭和30年、迫、西山地区の生徒を収容して発足したのが玄洋中学である。
また、現在の桜山小学校六連分校は、明治9年、当時、志磨小学校と呼ばれていた本村小学校の分教場として発足し、のち、簡易小学校となったが、大正11年、再び本村小学校分校に復して戦後まで続いた。

県立下関第一高校は、昭和37年の創立である。この学校は、昭和8年、関彦合併に際して取り決めた協定事項の「彦島地内に中等程度の工業高校及び実科高等女学校、県立水産高校を設置」と書かれた条項を市がなかなか実行しないため、地元が立ち上がり、約30年近く経って、ようやくその一つが実現したものである。
因みに「中等程度」とは、現在の高等教育に相当する。
開校当時は市立であったが、校舎、運動場、図書館などの諸施設を完備した後、県に移管された。

かくして、このちっぽけな島に学校は七つ… 

しかし、彦島中学、本村小学校と共に、他の小学校も年々マンモス化しつつある。
そのための対策も早くから講じておかねばならないだろうし、また、「関彦合併協定事項」にある水産高校や女学校実現も促すべきであろう。早くも四十年が過ぎただから。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
昭和50年9月30日 赤間書房発行
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Posted on 2017/06/21 Wed. 10:01 [edit]

category: 彦島あれこれ

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コメント

 

生徒数が増える?!すごい時代があったんだね。

URL | 小田 克己 #- | 2013/05/25 01:20 | edit

小田 克己さん 

いまはどこの学校も寂しくなってしまいましたね。

URL | 事務局三木 #- | 2013/05/25 09:17 | edit

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