彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
つかずのとうろう
つかずのとうろう
明治時代に入る少し前の話ですから、慶応年間のできごとです。
当時馬関には、倒幕運動が盛んで、隊士がたくさんきていました。
その中に報国隊(長府藩でつくった)の隊士もいましたが、みな元気がありすぎるくらいでした。
奇兵隊が桜山に招魂場をつくったのにならい、報国隊も豊町に招魂場をつくることになりました。
そこで阿弥陀寺町にあった燈籠を豊町に運ぼうとしました。
燈籠を横にして大八車に乗せ、外浜町(今の中之町)から赤間町をとおり裏町(今の赤間町)の曲がり角を過ぎたとき、力を出しすぎて大八車を料理屋「吉信」の表戸にぶっつけてしまいました。
隊士たちは酒に酔っていたので、詫びもしないでそのまま車を走らせようとしました。
そこで怒ったのが、料理屋の主人吉信で、表へ飛び出て大声をはりあげ、
「人の家に車をぶっつけておいて、だまっていくものがあるか、わびの一つくらい言ったらどうだ、このごくつぶしめ」
と怒鳴ったから大変。
「なにを、このとうへんぼく」
と、やにわに車を止め、主人を無理やり燈籠一緒にくくりつけました。
車はどんどん奥小路(今の幸町)を越えて走ります。
さすがに気の強い主人も恐ろしくなり、
「助けてくれ、お願いだ」
と叫びましたが、なにしろ隊士は酒によって、むちゃくちゃに車を走らせます。
道を行く人も助けるどころか、ただ車をよけるのがせいいっぱいでした。
それでも吉信は必死になって縄をほどき、車から田んぼの中に転がり落ちて逃げ出しました。
それを見た隊士は、逃がしてなるものかと追いかけ、そのうちの一人が後から一刀のもとに切り殺してしまいました。
しかしその隊士の刀は、まるで固い石か鉄でも切ったかのように真中からポキッと折れてしまいました。
それからまた車を走らせ、豊町の清水坂に運び、そこの牡丹畠に燈籠をたてました。
ところが、その後燈籠にいくら火をつけてもフッとかき消され、そればかりか、あたりにはゾッと鬼気がみなぎりました。
それはまさしく無念の死に方をした主人の亡霊のせいだといわれ、いつしかこの燈籠のことを“つかずの燈籠”とよぶようになりました。
(注)
この燈籠にまつわる話は、ほかにもあります。
燈籠はもともと春帆楼の下、魚安の近くにたっていたもので、観音崎の問屋長府屋長左衛門(長々といった)が供養のために建てたものらしいといわれています。
それは長々がある暴風雨の朝、岸に打ち上げられた男を助け起こしてみると手にずっしりと重い財布を握っていました。
長々はそのころ商売がうまくいかず、お金の心配ばかりはていたので、天の恵みとばかりに、とろうとしましたが、硬くなっている手からなかなかはなれない。そこで長々は
「すまぬがこの金を貸してくれ、そうすれば、必ず世の人のために恩返しをするから」
といったところ、スルスルと財布がとれました。
長々は、おかげで三百両の借金を払い、商売もうまくいって大変繁盛していました。そして約束したとおり、供養のためにあちらこちらに燈籠を寄進しましたが、そのうちの一つがこの燈籠らしいのです。
昭和八年、日和山に高杉晋作の銅像が建てられたとき、長い間、牡丹畠に置かれていた“つかずの燈籠”も晋作像の向かって右下に建てられ、盛大な供養祭とともに、点灯式が行われました。
料理屋吉信の家はも本行寺の二、三軒奥小路よりにありましたが、吉信のあと新しく料理屋を始めた夫婦が、毎晩位階の寝室の枕元に高足駄をはいた吉信が行き来するのに悩まされ、ついに店を閉じたということです。
それにしても、今は日和山公園にあるこの燈籠は、下関にある燈籠のなかでは一番大きいものでしょう。
『下関の民話』下関教育委員会編
明治時代に入る少し前の話ですから、慶応年間のできごとです。
当時馬関には、倒幕運動が盛んで、隊士がたくさんきていました。
その中に報国隊(長府藩でつくった)の隊士もいましたが、みな元気がありすぎるくらいでした。
奇兵隊が桜山に招魂場をつくったのにならい、報国隊も豊町に招魂場をつくることになりました。
そこで阿弥陀寺町にあった燈籠を豊町に運ぼうとしました。
燈籠を横にして大八車に乗せ、外浜町(今の中之町)から赤間町をとおり裏町(今の赤間町)の曲がり角を過ぎたとき、力を出しすぎて大八車を料理屋「吉信」の表戸にぶっつけてしまいました。
隊士たちは酒に酔っていたので、詫びもしないでそのまま車を走らせようとしました。
そこで怒ったのが、料理屋の主人吉信で、表へ飛び出て大声をはりあげ、
「人の家に車をぶっつけておいて、だまっていくものがあるか、わびの一つくらい言ったらどうだ、このごくつぶしめ」
と怒鳴ったから大変。
「なにを、このとうへんぼく」
と、やにわに車を止め、主人を無理やり燈籠一緒にくくりつけました。
車はどんどん奥小路(今の幸町)を越えて走ります。
さすがに気の強い主人も恐ろしくなり、
「助けてくれ、お願いだ」
と叫びましたが、なにしろ隊士は酒によって、むちゃくちゃに車を走らせます。
道を行く人も助けるどころか、ただ車をよけるのがせいいっぱいでした。
それでも吉信は必死になって縄をほどき、車から田んぼの中に転がり落ちて逃げ出しました。
それを見た隊士は、逃がしてなるものかと追いかけ、そのうちの一人が後から一刀のもとに切り殺してしまいました。
しかしその隊士の刀は、まるで固い石か鉄でも切ったかのように真中からポキッと折れてしまいました。
それからまた車を走らせ、豊町の清水坂に運び、そこの牡丹畠に燈籠をたてました。
ところが、その後燈籠にいくら火をつけてもフッとかき消され、そればかりか、あたりにはゾッと鬼気がみなぎりました。
それはまさしく無念の死に方をした主人の亡霊のせいだといわれ、いつしかこの燈籠のことを“つかずの燈籠”とよぶようになりました。
(注)
この燈籠にまつわる話は、ほかにもあります。
燈籠はもともと春帆楼の下、魚安の近くにたっていたもので、観音崎の問屋長府屋長左衛門(長々といった)が供養のために建てたものらしいといわれています。
それは長々がある暴風雨の朝、岸に打ち上げられた男を助け起こしてみると手にずっしりと重い財布を握っていました。
長々はそのころ商売がうまくいかず、お金の心配ばかりはていたので、天の恵みとばかりに、とろうとしましたが、硬くなっている手からなかなかはなれない。そこで長々は
「すまぬがこの金を貸してくれ、そうすれば、必ず世の人のために恩返しをするから」
といったところ、スルスルと財布がとれました。
長々は、おかげで三百両の借金を払い、商売もうまくいって大変繁盛していました。そして約束したとおり、供養のためにあちらこちらに燈籠を寄進しましたが、そのうちの一つがこの燈籠らしいのです。
昭和八年、日和山に高杉晋作の銅像が建てられたとき、長い間、牡丹畠に置かれていた“つかずの燈籠”も晋作像の向かって右下に建てられ、盛大な供養祭とともに、点灯式が行われました。
料理屋吉信の家はも本行寺の二、三軒奥小路よりにありましたが、吉信のあと新しく料理屋を始めた夫婦が、毎晩位階の寝室の枕元に高足駄をはいた吉信が行き来するのに悩まされ、ついに店を閉じたということです。
それにしても、今は日和山公園にあるこの燈籠は、下関にある燈籠のなかでは一番大きいものでしょう。
『下関の民話』下関教育委員会編
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