彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
六連の大鐘
六連の大鐘
むかし、六連島の西教寺には、重さ三十二貫(480キロ)もある大きな釣鐘がありました。
鐘はふつう時間を知らせるために鳴らしますが、ここのは、それ以外に舟が安全に進むように羅針盤と危険を知らせる警鐘の役目をもっており、特別な大きな釣鐘を作ったのでした。
それほど六連島のあたりは、漁船、そのほかの舟の行き来がはげしく、また遭難も多かったのです。
とくに六連島を含んだ馬島、藍島、白島一帯は、霧の名所で、この霧に閉じ込められて方向を間違える漁師はたくさんいました。
そうしたときには、必ず島の人はこの鐘を乱打して方向を知らせてやりました。
こんなことがありました。
夜釣りにでた漁師が舟の上でウトウトしていますと、目の前に大きな怪物が現れました。
はっきり目をすえてみると、それは大入道で、人間が四、五人はいれそうな目をギョロギョロさせ、口は耳まで裂け、いまにも舟におおいかぶさろうとしていました。
とたんに漁師は目を回してしまいましたが、それからしばらくして、正気にもどってみると、あの大入道の姿はなく、深い夜霧の中から鐘の音がかすかに聞こえてきていました。
島の人たちは、この怪物を海坊主といっていますが、海坊主のいたずらは、このほかにもまだあります。
真っ暗い闇の中に舟を走らせていると、目の前にこちらを向いて矢のように走ってくる舟があります。
危ない、ととっさに舵を変えてみたが、どうしても舵が動きません。
向こうの舟は、ますます速力をまして近づいてくる。
あせればあせるほど、こちらの舟は吸いつけられるように向こうの舟の真正面に進みます。
アッ、衝突。
気を失った漁師が目をさましてみると、さきほどまで猛スピードで突っ込んできた舟の姿はなく、また自分の舟も壊れていませんでした。
このほか、空から「水をくれ、水をくれ」と叫んで、舟を追いかけてくることもあるし、海の底から何か大きな網でグイグイと舟を引っ張り込むこともあります。
ある霧の深い夜の出来事です。
一人の漁師がいつものように夜釣りにでていますと、自分の舟が同じ場所をくるくると輪をえがいて回りはじめました。
風もあまりなく、波もおだやかなときなので、漁師は不思議に思って、船べりから身を乗り出して海中を見ると、海坊主が舟の底をくるくる回している。
と見る間に、目もくらむほどの早さに変り、漁師は今にも海に放り出されそうになりました。
もう助からない、いまはこれまでと、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と夢中でお経を唱えました。
そのとき漁師の頭の中に、かすかに“ガーン、ガーン”と鐘の音が響いてきました。
と見る間に、舟の回転はだんだんゆるくなりましたが、それでも漁師はまだ目を明けずに「南無阿弥陀仏」と唱え続けました。
鐘の音はしだいに近くなり、そのうちピッタリと舟が止まりました。
漁師は恐る恐る目を開いてみますと、目の前に六連の島がポッカリと朝霧の中に浮いていたということです。
こうして、六連あたりの漁師は、よく“あやかし”に襲われますが、そのたびに六連西教寺の釣鐘は、この“あやかし”退治にご利益があったといいます。
(注)
あやかしとは、船の難破しようとするときに出るという海上の怪物。
六連島へは、いま竹崎町から船が通っていますが、約30分で着きます。
竹崎町から距離にして約6キロメートル、島の周囲3.5キロメートル、世帯数56、人口253人です。
この島の名は、古い本によると日本書紀に「没利島」と記されています。
伝説によりますと、いまから約三百五十年前、この島にある西教寺を最初に開いた人で、麻生与三衛門高房ほか、五人がはじめてこの島に渡り、ここに住みつくようになりましたが、島の土地を分けるために縄でこの島を六等分したことから六連島と呼ぶようになったといいます。
また別の説によると、この六連島一帯には、この島を中心に馬島・藍島・白島など、六つの島が連なっているので六連島の名がついたといわれています。
ところで、この六連島のことは別名で蟹島といっています。
この島を空から見ると蟹の形をしているから、そう呼ばれたのでしょう。
またある人にいわせると、大昔、下関の火の山が大爆発したとき、吹き上げられた熔岩が西に流れ、椋野、幡生から海に入り、玄海に向かいましたが、たまたまそこに蟹の大群がいて、その熔岩を鋏み止めたといいます。
そうしてできた島だから蟹島と呼んだといいます。
いまでも島の北側の海岸に「蟹の瀬」というところがあり、森の中に「蟹の目」という地名が残っています。
島の古老の話では、むかしは六連島の人は絶対蟹を食べなかったといいます。
『下関の民話』下関教育委員会編
むかし、六連島の西教寺には、重さ三十二貫(480キロ)もある大きな釣鐘がありました。
鐘はふつう時間を知らせるために鳴らしますが、ここのは、それ以外に舟が安全に進むように羅針盤と危険を知らせる警鐘の役目をもっており、特別な大きな釣鐘を作ったのでした。
それほど六連島のあたりは、漁船、そのほかの舟の行き来がはげしく、また遭難も多かったのです。
とくに六連島を含んだ馬島、藍島、白島一帯は、霧の名所で、この霧に閉じ込められて方向を間違える漁師はたくさんいました。
そうしたときには、必ず島の人はこの鐘を乱打して方向を知らせてやりました。
こんなことがありました。
夜釣りにでた漁師が舟の上でウトウトしていますと、目の前に大きな怪物が現れました。
はっきり目をすえてみると、それは大入道で、人間が四、五人はいれそうな目をギョロギョロさせ、口は耳まで裂け、いまにも舟におおいかぶさろうとしていました。
とたんに漁師は目を回してしまいましたが、それからしばらくして、正気にもどってみると、あの大入道の姿はなく、深い夜霧の中から鐘の音がかすかに聞こえてきていました。
島の人たちは、この怪物を海坊主といっていますが、海坊主のいたずらは、このほかにもまだあります。
真っ暗い闇の中に舟を走らせていると、目の前にこちらを向いて矢のように走ってくる舟があります。
危ない、ととっさに舵を変えてみたが、どうしても舵が動きません。
向こうの舟は、ますます速力をまして近づいてくる。
あせればあせるほど、こちらの舟は吸いつけられるように向こうの舟の真正面に進みます。
アッ、衝突。
気を失った漁師が目をさましてみると、さきほどまで猛スピードで突っ込んできた舟の姿はなく、また自分の舟も壊れていませんでした。
このほか、空から「水をくれ、水をくれ」と叫んで、舟を追いかけてくることもあるし、海の底から何か大きな網でグイグイと舟を引っ張り込むこともあります。
ある霧の深い夜の出来事です。
一人の漁師がいつものように夜釣りにでていますと、自分の舟が同じ場所をくるくると輪をえがいて回りはじめました。
風もあまりなく、波もおだやかなときなので、漁師は不思議に思って、船べりから身を乗り出して海中を見ると、海坊主が舟の底をくるくる回している。
と見る間に、目もくらむほどの早さに変り、漁師は今にも海に放り出されそうになりました。
もう助からない、いまはこれまでと、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と夢中でお経を唱えました。
そのとき漁師の頭の中に、かすかに“ガーン、ガーン”と鐘の音が響いてきました。
と見る間に、舟の回転はだんだんゆるくなりましたが、それでも漁師はまだ目を明けずに「南無阿弥陀仏」と唱え続けました。
鐘の音はしだいに近くなり、そのうちピッタリと舟が止まりました。
漁師は恐る恐る目を開いてみますと、目の前に六連の島がポッカリと朝霧の中に浮いていたということです。
こうして、六連あたりの漁師は、よく“あやかし”に襲われますが、そのたびに六連西教寺の釣鐘は、この“あやかし”退治にご利益があったといいます。
(注)
あやかしとは、船の難破しようとするときに出るという海上の怪物。
六連島へは、いま竹崎町から船が通っていますが、約30分で着きます。
竹崎町から距離にして約6キロメートル、島の周囲3.5キロメートル、世帯数56、人口253人です。
この島の名は、古い本によると日本書紀に「没利島」と記されています。
伝説によりますと、いまから約三百五十年前、この島にある西教寺を最初に開いた人で、麻生与三衛門高房ほか、五人がはじめてこの島に渡り、ここに住みつくようになりましたが、島の土地を分けるために縄でこの島を六等分したことから六連島と呼ぶようになったといいます。
また別の説によると、この六連島一帯には、この島を中心に馬島・藍島・白島など、六つの島が連なっているので六連島の名がついたといわれています。
ところで、この六連島のことは別名で蟹島といっています。
この島を空から見ると蟹の形をしているから、そう呼ばれたのでしょう。
またある人にいわせると、大昔、下関の火の山が大爆発したとき、吹き上げられた熔岩が西に流れ、椋野、幡生から海に入り、玄海に向かいましたが、たまたまそこに蟹の大群がいて、その熔岩を鋏み止めたといいます。
そうしてできた島だから蟹島と呼んだといいます。
いまでも島の北側の海岸に「蟹の瀬」というところがあり、森の中に「蟹の目」という地名が残っています。
島の古老の話では、むかしは六連島の人は絶対蟹を食べなかったといいます。
『下関の民話』下関教育委員会編
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