彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
彦島七浦七曲り
彦島七浦七曲り
平清盛が、天下を治めていたころのこと、平氏の祈願所をつくるために、全国に測量班を差し向け“七里七浦七曲り”の場所を探させました。
もちろん浦があるところといえば海岸線ですが、なかなか一つの土地に七浦もあるところは見つかりません。
あっても五浦とか、たまに七浦をみつけて大喜びしてみると、七里にたらなかったりして、いつもがっかりするのでした。
七という数字は大変縁起のいい数字で、その七が三つ続けばなおさら幸運をもたらすものと、平清盛は信じていましたから、全国の“七里七浦七曲り”の候補地五十箇所をしらみつぶしに調べ、残っているのは長門の国の彦島と安芸の国の宮島の二箇所だけになってしまいました。
はじめに彦島の測量からはじめました。
七浦七曲りあることは、簡単にわかりましたが、測量となるとたいへんな努力と労力がいります。
長い紐を使って測っていくのですが、四里、五里とすすむうちに次第に希望がわいてきました。
五里半、六里、六里からは、一間、二間、三間と数えていきましたが、あとわずかの距離で、どうしても七里にたりませんでした。
こうして彦島の祈願所つくりは夢物語におわり、残りの安芸の宮島が“安芸の宮島回れば七里、浦は七浦七曲り”といわれるように、ここに祈願所がつくられたのでした。
(注)
明治になって彦島を測量してみますと、六里十五町五十一間(約25.3キロメートル)でした。
七里は約27.5キロメートルですから、わずか2.2キロメートル足りなかったことになります。
ところで彦島の七浦というのは、宮ノ浦、江ノ浦、伊佐木ノ浦、鯉ノ浦、桃ノ浦、福浦、名古浦ですが、埋め立てなどですでにわからなくなったところもあります。
いま字名で残っているのは、福浦、江ノ浦、伊佐浦、名古浦の四ヶ所です。
『下関の民話』下関教育委員会編
平清盛が、天下を治めていたころのこと、平氏の祈願所をつくるために、全国に測量班を差し向け“七里七浦七曲り”の場所を探させました。
もちろん浦があるところといえば海岸線ですが、なかなか一つの土地に七浦もあるところは見つかりません。
あっても五浦とか、たまに七浦をみつけて大喜びしてみると、七里にたらなかったりして、いつもがっかりするのでした。
七という数字は大変縁起のいい数字で、その七が三つ続けばなおさら幸運をもたらすものと、平清盛は信じていましたから、全国の“七里七浦七曲り”の候補地五十箇所をしらみつぶしに調べ、残っているのは長門の国の彦島と安芸の国の宮島の二箇所だけになってしまいました。
はじめに彦島の測量からはじめました。
七浦七曲りあることは、簡単にわかりましたが、測量となるとたいへんな努力と労力がいります。
長い紐を使って測っていくのですが、四里、五里とすすむうちに次第に希望がわいてきました。
五里半、六里、六里からは、一間、二間、三間と数えていきましたが、あとわずかの距離で、どうしても七里にたりませんでした。
こうして彦島の祈願所つくりは夢物語におわり、残りの安芸の宮島が“安芸の宮島回れば七里、浦は七浦七曲り”といわれるように、ここに祈願所がつくられたのでした。
(注)
明治になって彦島を測量してみますと、六里十五町五十一間(約25.3キロメートル)でした。
七里は約27.5キロメートルですから、わずか2.2キロメートル足りなかったことになります。
ところで彦島の七浦というのは、宮ノ浦、江ノ浦、伊佐木ノ浦、鯉ノ浦、桃ノ浦、福浦、名古浦ですが、埋め立てなどですでにわからなくなったところもあります。
いま字名で残っているのは、福浦、江ノ浦、伊佐浦、名古浦の四ヶ所です。
『下関の民話』下関教育委員会編
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