彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
数方庭祭
数方庭祭
神功皇后は長府と深い関係があります。
仲哀天皇二年五月、天皇さまは、熊襲を成敗されるために紀伊より穴門豊浦にこられました。
そのおきさきの神功皇后さまも、やがて豊浦の宮へ入られ、八年までお住みになられました。
豊浦の宮というのは、長府忌宮神社がある地区にあったのでしょう。
その跡をしるす“豊浦皇居跡”の石碑が長府図書館の横にあります。
忌宮の起こりも、豊浦の宮がおかれたときからはじまっています。
では本当に神功皇后さまが、いたのかどうか、という疑問がありますが、それを調べるには千六百年以上さかのぼらなければなりません。
しかし、いまでも神功皇后さまに関係ある地名とか、おまつりとかが、かなり残っていますので、その中で主なものを選んで、お話しましょう。
長府忌宮神社の“数方庭神事”は毎年八月七日から十三日までいとなまれます。
数方庭は別に「スッポーティ」「スッポウデン」あるいは「スホウデン」とも呼ばれていました。
このおこりは、仲哀天皇七年七月七日に、新羅の長、鹿輪が、豊浦の浜に上陸して豊浦の宮に攻め寄せてきました。
宮を守っていた兵たちは、一生懸命防戦しましたが、なにしろ敵は一度に宮を囲んだので、味方はつぎつぎに倒れ、宮守護の大将、阿部高麿とその弟の助麿も戦死して、もうこれで最後と思ったときです。
仲哀天皇が自分で弓矢をとり、鹿輪をねらって矢をはなちますと、見事にあたり、その場にドッと倒れてしまいました。
新羅の兵たちは、自分たちの長が目の前で射殺されたので、恐ろしくなり、あわてて逃げ出しました。
これを見ていた味方の兵は、矛をたて刀をふりかざして、勝利の歓声をあげて鹿輪の死体の周りを踊り狂いました。
そして、鹿輪の首は切られて土中に埋め、大石でふたをしましたが、この石が鹿輪の顔に似ていたので“鬼石”と呼ばれるようになりました。
そののち、神功皇后が三韓に兵を出されたときにも、出発するとき、凱旋したとき、この鬼石を回って、勇ましい踊りをくりひろげたといいます。
(注)
神事のようすは、男が幟、女が切籠を持って、鉦・太鼓のはやしに合わせて、鬼石を中心にぐるぐると踊り回りますが、幟を持つ男の勇壮さと、切籠を持つ女・こどもの典雅さは、対照的ですが、これが不思議によくとけあって、優雅な雰囲気をつくりだしています。
切籠(きりこ)の起こりは、神功皇后さまが、凱旋されたとき、浦の女たちが、油筒に火をともして浜辺にお迎えしたのがはじまりとされています。
それが、徳川時代に入って、油筒をやめ、七夕紙をつけた笹に燈籠をつるすようになり、また矛や刀に代えて幟を持つようになりました。
数方庭ということばは、むかし忌宮で行われていた念仏講習の修法庭からきているていわれます。
このお祭のとき、鬼石をまわる輪に加わってまわると、一年中元気で、子どもは強い子に育つといわれ、お父さんが小さい子どもを肩車にして、小さい幟を持たせ、一緒に輪の中へ入って回っている姿がよく見られます。
なお、祭は七日間続けられますが、初日と中日と最後の夜が一番の賑わいをみせます。
『下関の民話』下関教育委員会編
神功皇后は長府と深い関係があります。
仲哀天皇二年五月、天皇さまは、熊襲を成敗されるために紀伊より穴門豊浦にこられました。
そのおきさきの神功皇后さまも、やがて豊浦の宮へ入られ、八年までお住みになられました。
豊浦の宮というのは、長府忌宮神社がある地区にあったのでしょう。
その跡をしるす“豊浦皇居跡”の石碑が長府図書館の横にあります。
忌宮の起こりも、豊浦の宮がおかれたときからはじまっています。
では本当に神功皇后さまが、いたのかどうか、という疑問がありますが、それを調べるには千六百年以上さかのぼらなければなりません。
しかし、いまでも神功皇后さまに関係ある地名とか、おまつりとかが、かなり残っていますので、その中で主なものを選んで、お話しましょう。
長府忌宮神社の“数方庭神事”は毎年八月七日から十三日までいとなまれます。
数方庭は別に「スッポーティ」「スッポウデン」あるいは「スホウデン」とも呼ばれていました。
このおこりは、仲哀天皇七年七月七日に、新羅の長、鹿輪が、豊浦の浜に上陸して豊浦の宮に攻め寄せてきました。
宮を守っていた兵たちは、一生懸命防戦しましたが、なにしろ敵は一度に宮を囲んだので、味方はつぎつぎに倒れ、宮守護の大将、阿部高麿とその弟の助麿も戦死して、もうこれで最後と思ったときです。
仲哀天皇が自分で弓矢をとり、鹿輪をねらって矢をはなちますと、見事にあたり、その場にドッと倒れてしまいました。
新羅の兵たちは、自分たちの長が目の前で射殺されたので、恐ろしくなり、あわてて逃げ出しました。
これを見ていた味方の兵は、矛をたて刀をふりかざして、勝利の歓声をあげて鹿輪の死体の周りを踊り狂いました。
そして、鹿輪の首は切られて土中に埋め、大石でふたをしましたが、この石が鹿輪の顔に似ていたので“鬼石”と呼ばれるようになりました。
そののち、神功皇后が三韓に兵を出されたときにも、出発するとき、凱旋したとき、この鬼石を回って、勇ましい踊りをくりひろげたといいます。
(注)
神事のようすは、男が幟、女が切籠を持って、鉦・太鼓のはやしに合わせて、鬼石を中心にぐるぐると踊り回りますが、幟を持つ男の勇壮さと、切籠を持つ女・こどもの典雅さは、対照的ですが、これが不思議によくとけあって、優雅な雰囲気をつくりだしています。
切籠(きりこ)の起こりは、神功皇后さまが、凱旋されたとき、浦の女たちが、油筒に火をともして浜辺にお迎えしたのがはじまりとされています。
それが、徳川時代に入って、油筒をやめ、七夕紙をつけた笹に燈籠をつるすようになり、また矛や刀に代えて幟を持つようになりました。
数方庭ということばは、むかし忌宮で行われていた念仏講習の修法庭からきているていわれます。
このお祭のとき、鬼石をまわる輪に加わってまわると、一年中元気で、子どもは強い子に育つといわれ、お父さんが小さい子どもを肩車にして、小さい幟を持たせ、一緒に輪の中へ入って回っている姿がよく見られます。
なお、祭は七日間続けられますが、初日と中日と最後の夜が一番の賑わいをみせます。
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