彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
竜宮の鐘
竜宮の鐘
文政のころといいますから、いまから約百数十年前のことです。
市内南部町の専念寺は昔から大鐘のあることで有名で、その大きさは、高さ約2.5メートル、重さ約1.5トンもありました。
ところが、ある年の八月、その鐘がだれも鳴らさないのに、ひとりでに鳴りだしました。
毎晩、真夜中ごろになるときまってウォーン、ウォーンと不気味に鳴り続け、ことに満潮のときとか、風雨のひどいときには、ことのほか激しく鳴りわたりました。
近所の人たちは鐘がなりはじめると、まんじりともせず布団の中でガタガタ震えだし、こどもたちは泣き叫ぶありさまでした。
ある晩のことでした。
専念寺の俊達和尚がかやをつって床にはいろうとすると、また例によって鐘が鳴り始めました。和尚は、
「ああまた鐘が鳴る、一体どうしたことだろう。何かのたたりでもあるのかもしれん…。困ったことだわい」
そう思いながら灯りを消したとたん、夜目にもはっきりとわかる白いひげをつけた老人が音も無く障子を開き、和尚の目の前に立ちました。
その老人は和尚に向かって低いおごそかな声でこういいました。
「このわしは竜宮からの使者である。ここの鐘はもともとは竜宮の秘宝、毎晩鳴り続けるのは、一日も早く竜宮に帰りたいためじゃ、お前はその鐘をすぐさま竜宮へ返せ、さもないとこのお寺もろとも粉々に打ち砕いてしまうぞ」
というやいなや、煙のように姿を消してしまいました。
驚いた和尚は、夜の明けるのを待ってさっそく、檀家の人びとを集め、その善後策をはかりました。
縄で鐘をがんじがらめにしばっておけとか、鐘楼を板で囲っておけばとかいろいろ案がだされましたが、結局、女の髪の毛が一番強いから、女の髪で縄を編みしばっておこうということになりました。
そこで女の人たちは大切な黒髪を惜しげもなく根元からバッサリ切り取り、それで太縄を作り鐘をしっかりと柱にしばりつけました。
その晩は、はじめて鐘もならず、人々はもうこれで安心だとぐっすり眠ることができました。
ところが、鐘をしばって三日目の朝でした。
和尚が鐘つき堂に登ろうとしてハッとしました。例の女の髪縄がだれのしわざか刃物で切り取られたようにブッツリと断ち切られ、大鐘は足がついたようにゴトリ、ゴトリと鐘つき堂を降り、百段近い石段をまさに降りようとしています。
和尚は驚いて近所の人を呼び集めました。近所の人たちも、最初あっけにとられて鐘の動くのを見ていましたが、急に恐ろしくなって逃げ出すものもでるしまつです。
それでも、いせいのよい若者四、五人が鐘に飛びつき押し戻そうとしましたが、びくともしません。逆にそのうち一人が鐘に押しつぶされて大怪我をしてしまいました。
とつぜん和尚は、
「又五郎さんを呼べ、又五郎さんを」とどなりました。
その声にすぐさま若い者がお寺を駆け下りて東三軒目の紀の国屋又五郎の家へ走りました。この紀ノ国屋は強力無双の力持ちで、亀山八幡宮の境内で催される相撲大会ではいつも優勝していました。
その紀ノ国屋又五郎が呼ばれて表へ出てみると鐘はもう石段を降りきって波打ち際まできていました。
又五郎は、人を押し分け、片肌をぬいで鐘の竜頭を両手でムンズとつかみました。
そして満身の力をこめて引き寄せようとしました。
鐘はなおも海へすべりこもうとする。
鐘と人との力くらべです。
又五郎は両足をふんばり真赤になりながらグイグイと金剛力をだす。
と突然ガーン大きな音がしたと同時に、又五郎のにぎっていた竜頭がポッキリ折れ、鐘はズルズルと海底深くすべりこんでしまいました。
(注)
南部町の海岸には大ダコが出るという話が伝わっています。
万延元年の八月、南部の海岸で米の荷揚げをしていた北国の荒神丸という千石船がいよいよ出航するときになって、どうしてもイカリがあがりません。
そこで船頭が海に飛び込んで調べてみると、いかりは鐘のふちに引っかかっている。はずそうとして手をかけたとたん、中からヌラヌラと大ダコが現われ、いまにも巻き込もうとしたので、船頭はびっくりして浮かび上がり命からがらはいあがったということです。
南部町の物品問屋奈新という店の女中が、この浜で洗濯をしていましたが、大ダコが音も無くはいあがって、この美しい女中を海中に引きずり込みました。もちろん女中の死体は、発見されませんでした。
又五郎といえば“亀山八幡宮の相撲でアトがない”ということわざが残っています。
当時亀山八幡宮の夏越祭には、毎年境内で大相撲がおこなわれていましたが、この近辺では豊前小倉生まれの妙見山(風師山)尾右衛門という男がとても強く、下関側はいつも彼に負けてばかりいました。
そこで、だれか力の強い者はいないかと八方手を尽くして探し出したのが紀の国屋又五郎で、呼び名を「火の山」と称しいよいよ妙見山と対戦することになりました。
ワァワァという大声援の中で、土俵中央にがっぷり四つになったまま、一呼吸したのち妙見山がグィグィと押し込む、火の山はあとがない…。
もう負けると見物人は思いましたが、ヨオーと一声かけると逆に一気に妙見山を寄り倒しました。
実に下関側ではこの勝負に負けたらあとがないということで“亀山の相撲でアトがない”とはここからきたものだといわれています。
しかし、一説によると、この敗戦で妙見山が死んだため、その後の相撲が取りやめになったので、こうしたことわざが生まれたものともいわれています。
『下関の民話』下関教育委員会編
文政のころといいますから、いまから約百数十年前のことです。
市内南部町の専念寺は昔から大鐘のあることで有名で、その大きさは、高さ約2.5メートル、重さ約1.5トンもありました。
ところが、ある年の八月、その鐘がだれも鳴らさないのに、ひとりでに鳴りだしました。
毎晩、真夜中ごろになるときまってウォーン、ウォーンと不気味に鳴り続け、ことに満潮のときとか、風雨のひどいときには、ことのほか激しく鳴りわたりました。
近所の人たちは鐘がなりはじめると、まんじりともせず布団の中でガタガタ震えだし、こどもたちは泣き叫ぶありさまでした。
ある晩のことでした。
専念寺の俊達和尚がかやをつって床にはいろうとすると、また例によって鐘が鳴り始めました。和尚は、
「ああまた鐘が鳴る、一体どうしたことだろう。何かのたたりでもあるのかもしれん…。困ったことだわい」
そう思いながら灯りを消したとたん、夜目にもはっきりとわかる白いひげをつけた老人が音も無く障子を開き、和尚の目の前に立ちました。
その老人は和尚に向かって低いおごそかな声でこういいました。
「このわしは竜宮からの使者である。ここの鐘はもともとは竜宮の秘宝、毎晩鳴り続けるのは、一日も早く竜宮に帰りたいためじゃ、お前はその鐘をすぐさま竜宮へ返せ、さもないとこのお寺もろとも粉々に打ち砕いてしまうぞ」
というやいなや、煙のように姿を消してしまいました。
驚いた和尚は、夜の明けるのを待ってさっそく、檀家の人びとを集め、その善後策をはかりました。
縄で鐘をがんじがらめにしばっておけとか、鐘楼を板で囲っておけばとかいろいろ案がだされましたが、結局、女の髪の毛が一番強いから、女の髪で縄を編みしばっておこうということになりました。
そこで女の人たちは大切な黒髪を惜しげもなく根元からバッサリ切り取り、それで太縄を作り鐘をしっかりと柱にしばりつけました。
その晩は、はじめて鐘もならず、人々はもうこれで安心だとぐっすり眠ることができました。
ところが、鐘をしばって三日目の朝でした。
和尚が鐘つき堂に登ろうとしてハッとしました。例の女の髪縄がだれのしわざか刃物で切り取られたようにブッツリと断ち切られ、大鐘は足がついたようにゴトリ、ゴトリと鐘つき堂を降り、百段近い石段をまさに降りようとしています。
和尚は驚いて近所の人を呼び集めました。近所の人たちも、最初あっけにとられて鐘の動くのを見ていましたが、急に恐ろしくなって逃げ出すものもでるしまつです。
それでも、いせいのよい若者四、五人が鐘に飛びつき押し戻そうとしましたが、びくともしません。逆にそのうち一人が鐘に押しつぶされて大怪我をしてしまいました。
とつぜん和尚は、
「又五郎さんを呼べ、又五郎さんを」とどなりました。
その声にすぐさま若い者がお寺を駆け下りて東三軒目の紀の国屋又五郎の家へ走りました。この紀ノ国屋は強力無双の力持ちで、亀山八幡宮の境内で催される相撲大会ではいつも優勝していました。
その紀ノ国屋又五郎が呼ばれて表へ出てみると鐘はもう石段を降りきって波打ち際まできていました。
又五郎は、人を押し分け、片肌をぬいで鐘の竜頭を両手でムンズとつかみました。
そして満身の力をこめて引き寄せようとしました。
鐘はなおも海へすべりこもうとする。
鐘と人との力くらべです。
又五郎は両足をふんばり真赤になりながらグイグイと金剛力をだす。
と突然ガーン大きな音がしたと同時に、又五郎のにぎっていた竜頭がポッキリ折れ、鐘はズルズルと海底深くすべりこんでしまいました。
(注)
南部町の海岸には大ダコが出るという話が伝わっています。
万延元年の八月、南部の海岸で米の荷揚げをしていた北国の荒神丸という千石船がいよいよ出航するときになって、どうしてもイカリがあがりません。
そこで船頭が海に飛び込んで調べてみると、いかりは鐘のふちに引っかかっている。はずそうとして手をかけたとたん、中からヌラヌラと大ダコが現われ、いまにも巻き込もうとしたので、船頭はびっくりして浮かび上がり命からがらはいあがったということです。
南部町の物品問屋奈新という店の女中が、この浜で洗濯をしていましたが、大ダコが音も無くはいあがって、この美しい女中を海中に引きずり込みました。もちろん女中の死体は、発見されませんでした。
又五郎といえば“亀山八幡宮の相撲でアトがない”ということわざが残っています。
当時亀山八幡宮の夏越祭には、毎年境内で大相撲がおこなわれていましたが、この近辺では豊前小倉生まれの妙見山(風師山)尾右衛門という男がとても強く、下関側はいつも彼に負けてばかりいました。
そこで、だれか力の強い者はいないかと八方手を尽くして探し出したのが紀の国屋又五郎で、呼び名を「火の山」と称しいよいよ妙見山と対戦することになりました。
ワァワァという大声援の中で、土俵中央にがっぷり四つになったまま、一呼吸したのち妙見山がグィグィと押し込む、火の山はあとがない…。
もう負けると見物人は思いましたが、ヨオーと一声かけると逆に一気に妙見山を寄り倒しました。
実に下関側ではこの勝負に負けたらあとがないということで“亀山の相撲でアトがない”とはここからきたものだといわれています。
しかし、一説によると、この敗戦で妙見山が死んだため、その後の相撲が取りやめになったので、こうしたことわざが生まれたものともいわれています。
『下関の民話』下関教育委員会編
- 関連記事
-
- 龍宮島物語 (2020/08/06)
- 竜宮の鐘 (2020/08/05)
- お亀銀杏 (2020/08/04)
TB: -- CM: 0
05
コメント
Comment
list
コメントの投稿
Comment
form
| h o m e |