彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
酒垂山の紫雲
酒垂山の紫雲(さかたりやまのしうん)~防府市~
今からおよそ千年ほどむかしのことだ。
このあたりでは見かけない船が一そう、勝間の浦(かつまのうら:防府市)に流れ着いた。
海辺の冷たい風が肌をさす、2月のある夕暮れのことであった。
「えらい大きな船じゃのう。どこから来たんじゃろう。」
「漁をする船じゃないで。だれが乗っておいでたんかのう。」
漁師たちが、がやがや言いながら浜辺に集まってきた。
しばらくすると、船からりっぱな着物を着た人たちがおりてきた。その中の供らしい男が、つかつかと漁師たちの方へ近づくと、
「われわれは、菅原道真公(すがわらみちざねこう)の供をして大宰府(だざいふ:福岡県)にむかうところである。長い船旅で、道真公がたいへんお疲れになっているので、どこぞで休ませてもらえぬか。」
と、言った。
漁師たちは、たいへん驚いた。
道真公といえば、後に学問の神様といわれるほどの名高い人だ。それに右大臣という高い位の人だ。
漁師たちは、しばらく話し合っていたが、やがてその中の一人が、
「せまくてきたないところですが、どうぞおいでください。」
おそるおそる、一軒の家に案内した。
その家の中はうす暗く、魚をとる網やびくが、土間のかたすみにおいてある。
「さぞお疲れでございましょう。何もございませんが、これでもどうぞおめしあがりください。」
と、お茶とありあわせの食べ物をさし出した。
かべの落ちた、よごれたまずしい家、それに、そまつな食べ物であったが、里人のあたたかい気持ちが、道真には何よりもうれしかった。
次の日の朝、この地の国司(こくし:役人)の信貞(のぶさだ)は、道真を国府(役所)のやかたへ案内し、そして大切な客としてもてなした。道真は、その晩はひさしぶりにゆっくりと休むことができた。そして、それからしばらくの日を、そのやかたですごさせてもらうことにした。そのひまひまに、詩や歌を作ったり、本を読んだりしていた。
そんなある日、信貞は、
「道真様、あまり学問ばかりなさっていると、おからだにさわります。すこしこのあたりをお歩きになって、ゆっくりとなさってはいかがでしょうか。」
と言って、道真を酒垂山(さかたりやま:現天神山)へ案内した。
小高い酒垂山には、枝ぶりのよい松の林があり、その間からは、佐波の青い海が見えた。海に浮かぶ数々の島じま、塩を焼く煙が静かにたちのぼるようすは、まるで絵のようなながめであった。
道真は、この美しい景色を、いつまでもあきることなくながめていた。そして、信貞に、
「ここは、まだ都と陸続きなのだろう。できることなら、ここでずっと暮らしたいものだ。」
と言った。
きっと、都に残してきた妻や子どもたちといっしょに、この美しい景色をながめて、ここでくらしたいと思われたのであろう。
道真は、都で活躍していたのだが、道真をねたむ人たちの悪だくみにあって、遠くはなれた九州の役人として、都を追われたのだった。とつぜんのことだったので、こうしてわずかの供をつれて、九州の大宰府へ下るとちゅうであった。
話を伝え聞いた里の人たちは、道真のことを気の毒に思い、深く悲しんだ。道真は、
「そう悲しむことはない。わたしは悪くないのだから、いまに、きっとこの罪は晴れるだろう。」
という意味の歌をよんで、里人をなぐさめたという。
こうして、国司や里人とともに暮らしているうちに、とうとう九州へいかなければならない日がやってきた。
その日は、秋の風が気もちよくふき、波も静かないい日であった。
道真は、酒垂山を見上げて、
「わたしが、もし、大宰府で死ぬようなことがあったなら、わたしの魂はかならず、この勝間の里に帰ってくるであろう。」
と言って、勝間の浦から船に乗り、九州へむかった。
道真が大宰府に着いてみると、建物は古びて雨もりがするほどであった。
しかし、道真は都へ帰れる日を待ちながら、詩を作ったり、本を読んだりして、毎日を過ごしていた。
ところが、もともとじょうぶでなかった道真は、すっかり身体をこわしてしまい、それがもとで、大宰府に来てから三年たった二月二十五日、とうとうなくなってしまった。五十九歳であった。
ちょうどその頃、酒垂山にふしぎなことがおこった。
いままで澄み切っていた酒垂山の空に、紫色の雲がわき出しかと思うと、みるみるうちに空いっぱいに広がっていった。
そして、勝間の浦には、はるか西の空から五色の光がかがやいた。
「これはどうしたことだ。」
「きっと、何かたいへんなことが起こる前ぶれにちがいない。」
「それにしても、ふしぎなことじゃ。いったいどうしたというのだろう。」
紫に染まった空、五色にかがやく佐波の海。
余りの美しさに、国司信貞も里人たちも、みんな浜辺に出て、このふしぎなようすをながめていた。
このふしぎなできごとから何日かたってから、道真がなくなったというしらせがとどいた。
「では、あのふしぎなできごとは、道真公の魂がここへお帰りになったしるしだったのか。」
信貞は、勝間の浦をたつときに残した言葉を思い出した。
そして、道真が愛していた酒垂山のふもとに小さな社(やしろ)をたて、道真をまつった。これが防府天満宮(ほうふてんまんぐう)の起こりである。
いまも、毎年、秋になると、おおぜいの裸の男たちにより、神幸祭(じんこうさい)と呼ばれる祭りが行われている。
これは、里人たちが、道真を勝間の浦まで送ったようすをしのんで、網代車(あじろぐるま)にご神体を乗せ、勝間の浦まで運ぶ行事である。
また、紫色にかがやく雲がわき起こったことを長く伝えるために、天満宮の境内には、紫雲石(しうんせき)がまつってある。
題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部
豊徳園ホームページより
今からおよそ千年ほどむかしのことだ。
このあたりでは見かけない船が一そう、勝間の浦(かつまのうら:防府市)に流れ着いた。
海辺の冷たい風が肌をさす、2月のある夕暮れのことであった。
「えらい大きな船じゃのう。どこから来たんじゃろう。」
「漁をする船じゃないで。だれが乗っておいでたんかのう。」
漁師たちが、がやがや言いながら浜辺に集まってきた。
しばらくすると、船からりっぱな着物を着た人たちがおりてきた。その中の供らしい男が、つかつかと漁師たちの方へ近づくと、
「われわれは、菅原道真公(すがわらみちざねこう)の供をして大宰府(だざいふ:福岡県)にむかうところである。長い船旅で、道真公がたいへんお疲れになっているので、どこぞで休ませてもらえぬか。」
と、言った。
漁師たちは、たいへん驚いた。
道真公といえば、後に学問の神様といわれるほどの名高い人だ。それに右大臣という高い位の人だ。
漁師たちは、しばらく話し合っていたが、やがてその中の一人が、
「せまくてきたないところですが、どうぞおいでください。」
おそるおそる、一軒の家に案内した。
その家の中はうす暗く、魚をとる網やびくが、土間のかたすみにおいてある。
「さぞお疲れでございましょう。何もございませんが、これでもどうぞおめしあがりください。」
と、お茶とありあわせの食べ物をさし出した。
かべの落ちた、よごれたまずしい家、それに、そまつな食べ物であったが、里人のあたたかい気持ちが、道真には何よりもうれしかった。
次の日の朝、この地の国司(こくし:役人)の信貞(のぶさだ)は、道真を国府(役所)のやかたへ案内し、そして大切な客としてもてなした。道真は、その晩はひさしぶりにゆっくりと休むことができた。そして、それからしばらくの日を、そのやかたですごさせてもらうことにした。そのひまひまに、詩や歌を作ったり、本を読んだりしていた。
そんなある日、信貞は、
「道真様、あまり学問ばかりなさっていると、おからだにさわります。すこしこのあたりをお歩きになって、ゆっくりとなさってはいかがでしょうか。」
と言って、道真を酒垂山(さかたりやま:現天神山)へ案内した。
小高い酒垂山には、枝ぶりのよい松の林があり、その間からは、佐波の青い海が見えた。海に浮かぶ数々の島じま、塩を焼く煙が静かにたちのぼるようすは、まるで絵のようなながめであった。
道真は、この美しい景色を、いつまでもあきることなくながめていた。そして、信貞に、
「ここは、まだ都と陸続きなのだろう。できることなら、ここでずっと暮らしたいものだ。」
と言った。
きっと、都に残してきた妻や子どもたちといっしょに、この美しい景色をながめて、ここでくらしたいと思われたのであろう。
道真は、都で活躍していたのだが、道真をねたむ人たちの悪だくみにあって、遠くはなれた九州の役人として、都を追われたのだった。とつぜんのことだったので、こうしてわずかの供をつれて、九州の大宰府へ下るとちゅうであった。
話を伝え聞いた里の人たちは、道真のことを気の毒に思い、深く悲しんだ。道真は、
「そう悲しむことはない。わたしは悪くないのだから、いまに、きっとこの罪は晴れるだろう。」
という意味の歌をよんで、里人をなぐさめたという。
こうして、国司や里人とともに暮らしているうちに、とうとう九州へいかなければならない日がやってきた。
その日は、秋の風が気もちよくふき、波も静かないい日であった。
道真は、酒垂山を見上げて、
「わたしが、もし、大宰府で死ぬようなことがあったなら、わたしの魂はかならず、この勝間の里に帰ってくるであろう。」
と言って、勝間の浦から船に乗り、九州へむかった。
道真が大宰府に着いてみると、建物は古びて雨もりがするほどであった。
しかし、道真は都へ帰れる日を待ちながら、詩を作ったり、本を読んだりして、毎日を過ごしていた。
ところが、もともとじょうぶでなかった道真は、すっかり身体をこわしてしまい、それがもとで、大宰府に来てから三年たった二月二十五日、とうとうなくなってしまった。五十九歳であった。
ちょうどその頃、酒垂山にふしぎなことがおこった。
いままで澄み切っていた酒垂山の空に、紫色の雲がわき出しかと思うと、みるみるうちに空いっぱいに広がっていった。
そして、勝間の浦には、はるか西の空から五色の光がかがやいた。
「これはどうしたことだ。」
「きっと、何かたいへんなことが起こる前ぶれにちがいない。」
「それにしても、ふしぎなことじゃ。いったいどうしたというのだろう。」
紫に染まった空、五色にかがやく佐波の海。
余りの美しさに、国司信貞も里人たちも、みんな浜辺に出て、このふしぎなようすをながめていた。
このふしぎなできごとから何日かたってから、道真がなくなったというしらせがとどいた。
「では、あのふしぎなできごとは、道真公の魂がここへお帰りになったしるしだったのか。」
信貞は、勝間の浦をたつときに残した言葉を思い出した。
そして、道真が愛していた酒垂山のふもとに小さな社(やしろ)をたて、道真をまつった。これが防府天満宮(ほうふてんまんぐう)の起こりである。
いまも、毎年、秋になると、おおぜいの裸の男たちにより、神幸祭(じんこうさい)と呼ばれる祭りが行われている。
これは、里人たちが、道真を勝間の浦まで送ったようすをしのんで、網代車(あじろぐるま)にご神体を乗せ、勝間の浦まで運ぶ行事である。
また、紫色にかがやく雲がわき起こったことを長く伝えるために、天満宮の境内には、紫雲石(しうんせき)がまつってある。
題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部
豊徳園ホームページより
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