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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

台場ヶ鼻 

台場ヶ鼻


 夷狄が来た。
 一カ国だけじゃ適わんと見たか、アメリカ、イギリス、フランス、オランダと、四つの国が誘い合うてやって来た。

 こうなりゃあ、長州さまだけにおすがりしちょく訳にゃあいかん。
 百姓も漁師も、みんな率先してお手伝いすることにしたけぇ、彦島の農兵隊は、みるみるうちに大人数になった。
 多い時にゃ、五百人は居ったそうじゃが、弟子待の萩野隊を助けて、よう活躍したちゅうことが、昔から伝えられちょる。

 夷狄が来たなぁ元治元年(1864年)の八月のことやが、亀山、壇ノ浦、前田、城山の、あちこちの砲台が外艦めがけて、どんどんばりばり撃ちはじめた。
 彦島も負けちゃあ居れん。
 山床鼻、弟子待、石ヶ原なんかの砲台も、関に呼応して、やんくも撃って撃ちまくった。おとなしかったのは、西山やら竹ノ子島の連中で、何せ、外艦が見えん所に居るけえ、どねえもこねえもならん。
 遠くで鳴る大砲の音を聞きながら、腕を鳴らして、やきもきしちょったらしい。

 それは長いような短いような何とも知れん一日で、ようようお天道さまが西の海に沈みかけたころ、竹ノ子島六ノ台の遠見が、どひょうしもない大声をあげた。
『オーイ、獅子ノ瀬に人が流されよるぞー』
 その声に藩兵やら農兵やらが台場にあがってみると、まこと、獅子ヶ口から獅子ノ瀬へ急流に押されて人間らしいものが流されちょる。
『誰か助けに行けえ』
『よし、わしが…』
 元気な若者が六人、台場をかけおりて、ドブン、ドブンと海に飛び込うだ。泳ぎにかけちゃあ、達者な者ばかりじゃ。見る間に六人で、その人間を浜に引きあげたが、
『オーイ、こりゃあ佛様じゃあ』
『もう土左衛門になっちょるわい』
『どうも、毛唐らしいぞ』
『佛は紅毛じゃーい』
 六人は口々に、台場に向かって大声に叫んだけえ、みんな浜に降りてみると、まこと、佛は日本人じゃあない。
 何とも奇妙な着物を着て、髪は赤いし、鼻は天狗のように高いし、河豚のシラコのようにブヨブヨと白い。
『長州さまの大砲に当たったんじゅろうか』
 ちゅうて、いろいろ調べたが、どこにも傷らしいものは無い。
 結局、このまま放っちょくわけにもいかんので、台場の脇にねんごろに埋めてユズの苗木を植えたちゅうことじゃ。

 ところが、戦争が終わって講和談判の時、オランダの水兵が行方不明になったちゅう話が出て、ごっぽうこじれたらしいと、そんな噂が流れた。
 竹ノ子島の藩兵やら農兵やらは、早速、話し合うて、
『今後、如何なることがあろうとも、獅子ノ瀬の佛については、一切口外しない』
 と誓い、一書をしたためて血判までしたちゅう話。

 竹ノ子島の六ノ台とはのう、今じゃ、台場ヶ鼻ちゅうて、燈台みたいな潮流信号所が建っちょるあそこのことじゃ。
 信号所の井戸のねき(そば)に大きなユズの木があったが、さて、今でもあるかのう。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
攘夷戦でオランダの水夫が行方不明になった話は事実であるが、それが、この外人の漂流死体と同じであるかどうかわからない。
ところで、竹ノ子島の燈台は、何十年前から電光表示板に変わっているが、旧燈台の初点火は明治四十二年八月のことで、砲台址に建てられた為、正しくは『台場ヶ鼻通航潮流信号所』と命名されている。この『台場ヶ鼻』という地名は地元よりも、むしろ釣り天狗たちの間では、かなり広く知られているようである。
信号所の井戸、それは現在でも残っていて、手押しポンプが取り付けられている。小さな屋根を頂いた手押しポンプは、信号所敷地のほぼど真ん中にあり、灯台も官舎も、それを囲む形で建てられていたが、近年、かなり様子が変わってしまった。
しかし、百年も経つようなユズの大木は、どこにも見られない。

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Posted on 2020/03/02 Mon. 11:45 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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