彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
鬼面ばなし
鬼面ばなし
明治の中頃まで、彦島の十二苗祖を名乗る家なら、どこもかしこも、鬼の面を鴨居に下げて居ったものじゃ。
玄関、勝手口、納屋、長屋、それに土合い(母屋と長屋との間の通路)の入口に、小さい鬼面を下げ、他に人間の顔くらいの大きなやつを佛間に隠して居った。じゃから、少ない家でも必ず五つは持って居り、多い所じゃ、十も十五もあったらしい。
どおして、そねぇに鬼面があったかと言うと、昔から彦島は何回も何回も海賊に襲われたもんじゃけぇ、もう、ええ加減に来て欲しゅうない、という祈りを込めたものじゃったと伝えられて居る。
この近くじゃあ海賊のことを、大昔は、鬼と言うて居ったらしい。その証拠に、竹ノ子島やら西山には、今でも鬼にまつわる伝説や地名がようけ残されて居るじゃろう。
まず、仲哀天皇の頃、朝鮮半島から海賊が押し寄せて来たというのが、今から千七百年以上も前の話。
それから元久二年(1205年)、文暦元年(1234年)、貞和六年(1350年)とつづいて、応安五年(1372年)には、九州の菊池党に敗れた足利氏の一統が海賊になり、彦島を根城にして荒らし回った。
その後、天文十七年(1548年)にも海賊に襲われ、島の人びとは下関の伊崎などに避難しはじめたそうじゃ。
しかし、一番ひどかったのは寛永十五年(1638年)のことで、この時は、天草の乱で敗れた小西の残党どもが海賊に身をやつして、彦島をその本拠地にしてしもうた。そして、この近海を片っぱしらから荒らし回ったもんじゃけぇ、その悪らつぶりに耐えかねた島の者は、ほとんど下関の方へ逃げて行った。
伊崎、細江、それに垢田、川中、勝谷、内日などに、それぞれ避難して三十年も四十年も隠れ住んだが、その後、次つぎに帰島しはじめても、とうとうそこを動かず、住み着いてしもうた者もかなり居ったという。
そんな訳で、むかしから彦島の者は、海賊に対しては身の縮まるような恐怖感を抱いて生きて来た。爺から親へ、親から子、子から孫へと、何代も何代も、その不安と恐ろしさは受け継がれて来たんじゃ。
そいで、彦島の者が、鬼の面を作って、末永い平和を祈ったという気持ちも、よう解るじゃろう。
ところが、いつのまにか、子供のいたずらや、やんちゃを戒める風習に使われはじめてのぅ。
例えば、子供が親の言い付けを守らん時やら、なかなか泣き止まん時にゃあ、親は佛間から大きい鬼面を出してかぶり、
『言うことをきかんけぇ、鬼が来たぞ!』
と、おどかしたりするようになった。ほいやけえ(それだから)しまいには、無理に鬼面を出さんでも『鬼が来るぞ』『鬼ヶ島にやるぞ』と言うただけで子供は泣き止んだものじゃ。それほど鬼に対する印象は強烈で、根強いものがあった。
ところで、彦島にゃあ、昔から『彦島謡』と呼ばれる独特な謡曲があった。結婚式、上棟式、年祝いなどの、いわゆる祝いごとの時にゃあ必ず謡われて、女やら子供までもが聞き覚えで二つや三つの謡曲は、大抵うたえたものじゃ。
その彦島謡の謡い納めが十二月三十一日の晩にやる『年もらいの謡』で、この時にも、鬼面が使われることになって居った。
どの部落にも『謡い所』というものがあって、そこにみんな集まり、夕方から『年送りの謡』をうたい、それが終わったら『年もらいの謡』に変わる。
年もらいの謡は、除夜の鐘が鳴りはじめるまで次々に謡い次いでゆくのじゃが、その時の聞き手はすべて鬼の面をかぶり、女や子供は謡い所の背戸に出なけりゃあならんかった。
それは、新しい年もまた、海賊騒ぎの無い平和な年であって欲しいという願いから始まったそうじゃが、今じゃあ、彦島謡も鬼面もみんなすたれてしもうて、ほんに寂しゅうなったのう。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
明治の中頃まで、彦島の十二苗祖を名乗る家なら、どこもかしこも、鬼の面を鴨居に下げて居ったものじゃ。
玄関、勝手口、納屋、長屋、それに土合い(母屋と長屋との間の通路)の入口に、小さい鬼面を下げ、他に人間の顔くらいの大きなやつを佛間に隠して居った。じゃから、少ない家でも必ず五つは持って居り、多い所じゃ、十も十五もあったらしい。
どおして、そねぇに鬼面があったかと言うと、昔から彦島は何回も何回も海賊に襲われたもんじゃけぇ、もう、ええ加減に来て欲しゅうない、という祈りを込めたものじゃったと伝えられて居る。
この近くじゃあ海賊のことを、大昔は、鬼と言うて居ったらしい。その証拠に、竹ノ子島やら西山には、今でも鬼にまつわる伝説や地名がようけ残されて居るじゃろう。
まず、仲哀天皇の頃、朝鮮半島から海賊が押し寄せて来たというのが、今から千七百年以上も前の話。
それから元久二年(1205年)、文暦元年(1234年)、貞和六年(1350年)とつづいて、応安五年(1372年)には、九州の菊池党に敗れた足利氏の一統が海賊になり、彦島を根城にして荒らし回った。
その後、天文十七年(1548年)にも海賊に襲われ、島の人びとは下関の伊崎などに避難しはじめたそうじゃ。
しかし、一番ひどかったのは寛永十五年(1638年)のことで、この時は、天草の乱で敗れた小西の残党どもが海賊に身をやつして、彦島をその本拠地にしてしもうた。そして、この近海を片っぱしらから荒らし回ったもんじゃけぇ、その悪らつぶりに耐えかねた島の者は、ほとんど下関の方へ逃げて行った。
伊崎、細江、それに垢田、川中、勝谷、内日などに、それぞれ避難して三十年も四十年も隠れ住んだが、その後、次つぎに帰島しはじめても、とうとうそこを動かず、住み着いてしもうた者もかなり居ったという。
そんな訳で、むかしから彦島の者は、海賊に対しては身の縮まるような恐怖感を抱いて生きて来た。爺から親へ、親から子、子から孫へと、何代も何代も、その不安と恐ろしさは受け継がれて来たんじゃ。
そいで、彦島の者が、鬼の面を作って、末永い平和を祈ったという気持ちも、よう解るじゃろう。
ところが、いつのまにか、子供のいたずらや、やんちゃを戒める風習に使われはじめてのぅ。
例えば、子供が親の言い付けを守らん時やら、なかなか泣き止まん時にゃあ、親は佛間から大きい鬼面を出してかぶり、
『言うことをきかんけぇ、鬼が来たぞ!』
と、おどかしたりするようになった。ほいやけえ(それだから)しまいには、無理に鬼面を出さんでも『鬼が来るぞ』『鬼ヶ島にやるぞ』と言うただけで子供は泣き止んだものじゃ。それほど鬼に対する印象は強烈で、根強いものがあった。
ところで、彦島にゃあ、昔から『彦島謡』と呼ばれる独特な謡曲があった。結婚式、上棟式、年祝いなどの、いわゆる祝いごとの時にゃあ必ず謡われて、女やら子供までもが聞き覚えで二つや三つの謡曲は、大抵うたえたものじゃ。
その彦島謡の謡い納めが十二月三十一日の晩にやる『年もらいの謡』で、この時にも、鬼面が使われることになって居った。
どの部落にも『謡い所』というものがあって、そこにみんな集まり、夕方から『年送りの謡』をうたい、それが終わったら『年もらいの謡』に変わる。
年もらいの謡は、除夜の鐘が鳴りはじめるまで次々に謡い次いでゆくのじゃが、その時の聞き手はすべて鬼の面をかぶり、女や子供は謡い所の背戸に出なけりゃあならんかった。
それは、新しい年もまた、海賊騒ぎの無い平和な年であって欲しいという願いから始まったそうじゃが、今じゃあ、彦島謡も鬼面もみんなすたれてしもうて、ほんに寂しゅうなったのう。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
彦島謡というのは、何流にも属さず、彦島だけに受け継がれて来た独特な節回しの謡曲であった。
昭和初年まで、島の各部落に設けられていた『若衆宿』では、古くからこの謡曲を教えついで来たから、そこに学んだ古老たちは自筆の謡い本を山ほど持って居る。
しかし、それらの人びとも、現在八十歳以上の年齢に達していて『大工送りの謡』とか『千秋楽の謡』でさえも覚えている人は少ない。
ましてや『年送り』や『年もらい』などの謡は、明治の中期において既にすたれてしまったというほどで、今では伝説化された謡である。
鬼面も彦島の旧家で探し出すことはとうていむずかしい。
彦島謡というのは、何流にも属さず、彦島だけに受け継がれて来た独特な節回しの謡曲であった。
昭和初年まで、島の各部落に設けられていた『若衆宿』では、古くからこの謡曲を教えついで来たから、そこに学んだ古老たちは自筆の謡い本を山ほど持って居る。
しかし、それらの人びとも、現在八十歳以上の年齢に達していて『大工送りの謡』とか『千秋楽の謡』でさえも覚えている人は少ない。
ましてや『年送り』や『年もらい』などの謡は、明治の中期において既にすたれてしまったというほどで、今では伝説化された謡である。
鬼面も彦島の旧家で探し出すことはとうていむずかしい。
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Posted on 2020/03/07 Sat. 09:16 [edit]
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