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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

楠ノ木の精 

楠ノ木の精


 むかし、彦島八幡宮は西山の舞子島にあった。その御神体は、海中から引き揚げた明鏡であったが、河野通次は立派な八幡尊像を彫って奉納したいと考えた。

 そのころ、里の森の東のはずれに、天にも届くかと思われるような大きな楠ノ木が聳え立っていた。
 通次は、家臣の小川甚六・柴崎甚平を呼び寄せ、その楠ノ木で八幡尊像を刻むよう命じた。永暦元年(1160年)三月のことであった。

 小川・柴崎の両人は、小者を集め、さっそく楠ノ木ほ伐り倒し、幹の芯を取って、小さな八幡尊像を彫塑した。たっぷり三ヶ月かかったという。

 しかし、伐り倒された楠ノ木は、千古の大木であったせいか、その後、不思議なことが続いた。
 月の無い夜には、楠ノ木の伐り株から赤い炎が燃え上がったり、嵐の夜には、そこから女のすすり泣く声が聞こえたりもした。そして、ついには、八幡尊像を刻んだ小川・柴崎両人をはじめ、伐採を手伝った小者たちまでが相次いで原因不明の病気にかかる始末。
 そこで、通次は、秋の八幡祭の後、楠ノ木の伐り株に堂宇を建て佛像を安置し、その付近の地名を『楠』と名付けた。
 里を中心に、各地に名前を付け、舞子島のあたりを『西山』、楠ノ木一帯を『東山』と命名したのはこの時のことだ。その後、西山は広範囲に広がり、現在でもその名は町名として残っているが、東山は本村の陰にかくれて殆ど知られなくなってしまった。

 それはさておいて、伐り株に佛像を安置して楠ノ木の精を慰めても、小川・柴崎両人や小者たちの病は、さっぱり良くならない。
 通次は考えあぐねた末、その原因は、伐られた楠ノ木の残り木の山が、そこに放置されたままになっていることにある、と気づいた。

 そこで翌二年(1161年)の春、堂宇の前に祠をつくり、弘法大師作と伝えられる石の地蔵尊を安置して供養祭を催した。そして、おびただしい楠ノ木の残り木を一カ所に集めて、何かある時には必ずこの木を使うことを誓った。
 すると不思議に、人びとの病いもすっかり良くなり、赤い炎も、女のすすり泣きも、いつの間にか聞かれなくなった。

 通次は大いに喜び、東山の小さな丘に『堂宇の山』という名を付け、日夜、地蔵尊への参詣をつづけ、楠ノ木の供養を怠らなかった。


 その後、何年かたって、平家の残党が落ちのびて来た。
 まず、植田・百合野・岡野の三名が、それぞれ平家の守り本尊一体ずつを覆奉して来島した。そして、迫の一角に観音堂を建てて、三尊を安置したが、その材料は東山の楠ノ木を使った。
 今、迫の山辺に『カナンドウ』という地名と屋号が残っているが、それは観音堂がなまったものだという。


 それからまた何年か経って、和田・冨田・登根という人びとが落ちのびて来た。この人たちは、先の植田らと話し合い、平家再興を祈って、堂宇の山のてっぺんに驚くほど大きな矛を建てた。その矛もまた、楠ノ木の残り木から造ったといわれている。

 ところで、この堂宇山というのは、現在では山頂付近が削られて玄洋中学校が建って居るが、一般には『ドオノ山』と呼ばれてきた。そして、本村寄り、つまり東側の八合目付近から下へかけては鉾江山と呼ばれているが、これは『矛柄(ほこえ)』が転じたものであろうか。
 また、鉾江山の真ん前にある西楽寺山は、古くから鉾崎山と呼ばれ、その麓の林兼造船第二工場のあたりは鉾崎の浜で、これも『矛先』がなまって『ほうさき』となったのかもしれない。


 それからまた何十年か経って、西楽法師が観音堂の三尊像を本村に移して西楽庵を建てた。この時にも、楠ノ木の残り木を使ったという。

 それからまた四十年ばかり後、舞子島にあった八幡宮を、今の宮ノ原に移して、新しく彦島八幡宮を造営することになったが、この時も同じ残り木を使ったと伝えられている。正和二年(1313年)のことであった。


 東山の森に太古の昔から聳え立っていた大楠ノ木は、八幡尊像を刻む為に伐り倒され、約百五十年もの間に、堂宇、観音堂、矛、西楽寺などの建立に少しずつその身を削ってゆき、再び八幡宮に戻って役立ったのであった。

 だから、楠ノ木は『彦島の守り木だ』と昔から伝えられている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
昭和四十八年、下関の木に『くすのき』が指定された。その他にも、花は『はまゆう』花木は『つつじ』だが、『彦島の守り木』と伝えられる楠ノ木が指定されたことが何よりも嬉しかったことを覚えている。
くすのきは当時の市報しものせきによれば、次のように書かれている。
『くすのき科の常緑樹です。樹形は雄大で、葉に香気があります。潤葉樹の中で最大直径の生長をします。実生で増殖し、移植も容易です。公園樹、神社境内樹に適します』
なお、創立百十二周年を迎えた下関市立本村小学校の校庭には、明治四十年『彦島にふさわしい木』として植えられたくすの木が、三十余年前の大火で幾らか小さくなったものの、今でも緑の葉を繁らせて、子供たちを見守っている。
ところで、この話に出て来る地名は、すべて今でも残って居り、『楠』の近くの峠は『地蔵の峠』そこへ至る急坂は『地蔵坂』と呼ばれている。
しかし、『楠』には、堂宇も無ければ、地蔵尊も無く、『堂宇の山』は削られて下関市立玄洋中学校が建っている。
地蔵損は、幕末の頃西楽寺の参道に移され、毎年九月一日から三日間、本村で地蔵祭りが催されてきたが、今は八月下旬に変わっている。

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Posted on 2020/04/05 Sun. 10:19 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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