彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
おおひと
おおひと
むかし、彦島では、本村町のことを地下(じげ)と呼んでました。
もともと『地下』というのは、宮中に仕える人以外の家格で、一般には農民や庶民のことを指しています。それが転じて山口県では、自分の住んでいるところ、つまり地元という意味で使われています。
彦島だけが、地下を地元でなく、島の中心を指して呼んでいた訳です。
島では、古くから子どもたちの間で、こんな歌が唄いつがれていました。
大江屋敷の おおひとは
けんのう飛びで どこ行った
和尚さんに聞いたれば
和尚さんは知っちゃあない
タイヨさんに聞いたれば
タイヨさんも知っちゃあない
どーこー行った どこ行った
地下の山を けんのうで
大江山を 飛び越えた
けんのう飛び、というのは片足跳びのことで、タイヨさんは『太夫』つまり、お宮の神主のことです。また、『知っちゃあない』は、『知っては居られない』という敬悟だそうです。
このわらべ唄については、面白い話があります。
むかしむかし、大むかし、天をつくような大男が、旅の途中も馬関と門司に足をかけ、海峡の潮水で顔を洗いました。
その時、クシュンと手鼻をきった所が、今の岬之町で、丸めた鼻くそをポイと捨てたら六連島が出来、プッと吐き出した歯くそは小六連島になりました。
それでさっぱりした大男は、鼻唄まじりに何やら唄いながら、彦島に右足をおろし、大股ぎで海の向こうへ消えていきました。その時の大きな波音はいつまでもこの近くの海に残って、響灘と名付けられました。
大男が去っていく時、踏みつけた右足は、小高い山を砕いて谷をつくり、そこは今でも『大江の谷』と呼ばれています。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
『おおひと』の話については、他にも幾つか語りつがれたようであるが、島の古老たちは、ほとんど覚えていない。
大江屋敷は、むかし、本村町五丁目の山手にあったといい、今では地番、あるいは屋号として残されているにすぎない。つまり『大江の新屋』『大江の母屋』『上の谷』『下の谷』『先の谷』などがそれである。
ところで、同じような話が、北九州市門司区にも残されている。それは、二夕松町の小森江東小学校の近くにある巨人坂(おおひとざか)という地名で、昔は二畝ほどの大きな人の足跡があったという。
大江の谷にも、同じように大男の足跡が残されていたが、明治の終わり頃、掘り返されて無くなってしまったといわれている。
この話については、清永唯夫氏が『関門海峡百話』で、『海峡をまたぐというイメージが、関門橋によって新しい観点からよみがえり…』と書いておられる。
また『おおひと』について、門司では『巨人』という字をあてているが彦島では『大人』と書いている。
むかし、彦島では、本村町のことを地下(じげ)と呼んでました。
もともと『地下』というのは、宮中に仕える人以外の家格で、一般には農民や庶民のことを指しています。それが転じて山口県では、自分の住んでいるところ、つまり地元という意味で使われています。
彦島だけが、地下を地元でなく、島の中心を指して呼んでいた訳です。
島では、古くから子どもたちの間で、こんな歌が唄いつがれていました。
大江屋敷の おおひとは
けんのう飛びで どこ行った
和尚さんに聞いたれば
和尚さんは知っちゃあない
タイヨさんに聞いたれば
タイヨさんも知っちゃあない
どーこー行った どこ行った
地下の山を けんのうで
大江山を 飛び越えた
けんのう飛び、というのは片足跳びのことで、タイヨさんは『太夫』つまり、お宮の神主のことです。また、『知っちゃあない』は、『知っては居られない』という敬悟だそうです。
このわらべ唄については、面白い話があります。
むかしむかし、大むかし、天をつくような大男が、旅の途中も馬関と門司に足をかけ、海峡の潮水で顔を洗いました。
その時、クシュンと手鼻をきった所が、今の岬之町で、丸めた鼻くそをポイと捨てたら六連島が出来、プッと吐き出した歯くそは小六連島になりました。
それでさっぱりした大男は、鼻唄まじりに何やら唄いながら、彦島に右足をおろし、大股ぎで海の向こうへ消えていきました。その時の大きな波音はいつまでもこの近くの海に残って、響灘と名付けられました。
大男が去っていく時、踏みつけた右足は、小高い山を砕いて谷をつくり、そこは今でも『大江の谷』と呼ばれています。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
『おおひと』の話については、他にも幾つか語りつがれたようであるが、島の古老たちは、ほとんど覚えていない。
大江屋敷は、むかし、本村町五丁目の山手にあったといい、今では地番、あるいは屋号として残されているにすぎない。つまり『大江の新屋』『大江の母屋』『上の谷』『下の谷』『先の谷』などがそれである。
ところで、同じような話が、北九州市門司区にも残されている。それは、二夕松町の小森江東小学校の近くにある巨人坂(おおひとざか)という地名で、昔は二畝ほどの大きな人の足跡があったという。
大江の谷にも、同じように大男の足跡が残されていたが、明治の終わり頃、掘り返されて無くなってしまったといわれている。
この話については、清永唯夫氏が『関門海峡百話』で、『海峡をまたぐというイメージが、関門橋によって新しい観点からよみがえり…』と書いておられる。
また『おおひと』について、門司では『巨人』という字をあてているが彦島では『大人』と書いている。
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