彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
きぬかけ岩
きぬかけ岩
むかし、河野権之進という人が、田ノ首という村からの帰り道、小さな山すそにさしかかると、そこに今まで見たこともない流れがありました。
不思議に思って流れにさかのぼって行くと林の中に湧き水があり、妙齢の姫が衣を濯いでいました。それはそれは美しい姫で、権之進は思わず声をかけました。
『あなたさまは、どこからおいでなされたのかな』
すると姫は眼をうるませて答えました。
『私は、伊予の国に住んでいましたが、さる戦いで敗れ、夫と生き別れになりました。そこで、こうして諸国を尋ね歩いていますが、かいもく消息を掴めません。もし、何かお心当たりでもございましたらお教えください』
権之進は哀れに思って姫を自分の家に連れて帰り、その夜はゆっくり休ませました。
ところが翌朝、眼をさましてみると、姫の姿が見当たりません。驚いた権之進は八方手分けして捜しましたが、とうとう行く方をつかむことが出来ませんでした。
そのうち権之進は、忘れるともなく忘れてしまっていましたが、数十日たったある日、姫の衣が小戸の大岩にかけられてあるのを、浦びとが見つけて大騒ぎになりました。
そこで初めて権之進は、姫が急潮に身を投げたことを知り、その岩に地蔵尊を建てて冥福を祈りました。
いつの頃からか、浦びとたちは、姫が衣を濯いでいた流れを『姫ノ水』、衣がかけられてあった大岩を『きぬかけ岩』と呼ぶようになりました。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
亀山叢書『下関の伝説』や『馬関太平記』には、河野権之進のことを『河野通久の四代目権之進』と書かれている。
しかし権之進は、三代目河野通里の弟で、元仁元年(1224年)一月二十二日、園田一学の子息、学之助の長女と結婚し、西山に分家しており、四代目通久の伯父にあたる人物である。
ところで、言外に保元の乱を匂わせるこの話が、それから七、八十年を経た後もなお、妙齢の姫として登場させるおかしさがたまらない。
ここで注意しておきたいことは、一般には、身投げ石、身投げ岩、きぬかけ石、きぬかけ岩が、すべて一つの岩であると伝えられていることである。
しかし、多くの古老たちは、それは誤りだとくやしがる。
本当は小戸の大岩は六つに分かれていて、東から順次、本書に書いた順にその名が付されてあり、五番目が菩薩岩、六番目が地蔵岩だというのである。
ただ、これらの岩を総称した場合『身投げ岩』あるいは『きぬかけ岩』と呼んでいたに過ぎない。
むかし、河野権之進という人が、田ノ首という村からの帰り道、小さな山すそにさしかかると、そこに今まで見たこともない流れがありました。
不思議に思って流れにさかのぼって行くと林の中に湧き水があり、妙齢の姫が衣を濯いでいました。それはそれは美しい姫で、権之進は思わず声をかけました。
『あなたさまは、どこからおいでなされたのかな』
すると姫は眼をうるませて答えました。
『私は、伊予の国に住んでいましたが、さる戦いで敗れ、夫と生き別れになりました。そこで、こうして諸国を尋ね歩いていますが、かいもく消息を掴めません。もし、何かお心当たりでもございましたらお教えください』
権之進は哀れに思って姫を自分の家に連れて帰り、その夜はゆっくり休ませました。
ところが翌朝、眼をさましてみると、姫の姿が見当たりません。驚いた権之進は八方手分けして捜しましたが、とうとう行く方をつかむことが出来ませんでした。
そのうち権之進は、忘れるともなく忘れてしまっていましたが、数十日たったある日、姫の衣が小戸の大岩にかけられてあるのを、浦びとが見つけて大騒ぎになりました。
そこで初めて権之進は、姫が急潮に身を投げたことを知り、その岩に地蔵尊を建てて冥福を祈りました。
いつの頃からか、浦びとたちは、姫が衣を濯いでいた流れを『姫ノ水』、衣がかけられてあった大岩を『きぬかけ岩』と呼ぶようになりました。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
亀山叢書『下関の伝説』や『馬関太平記』には、河野権之進のことを『河野通久の四代目権之進』と書かれている。
しかし権之進は、三代目河野通里の弟で、元仁元年(1224年)一月二十二日、園田一学の子息、学之助の長女と結婚し、西山に分家しており、四代目通久の伯父にあたる人物である。
ところで、言外に保元の乱を匂わせるこの話が、それから七、八十年を経た後もなお、妙齢の姫として登場させるおかしさがたまらない。
ここで注意しておきたいことは、一般には、身投げ石、身投げ岩、きぬかけ石、きぬかけ岩が、すべて一つの岩であると伝えられていることである。
しかし、多くの古老たちは、それは誤りだとくやしがる。
本当は小戸の大岩は六つに分かれていて、東から順次、本書に書いた順にその名が付されてあり、五番目が菩薩岩、六番目が地蔵岩だというのである。
ただ、これらの岩を総称した場合『身投げ岩』あるいは『きぬかけ岩』と呼んでいたに過ぎない。
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