彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
仲哀天皇御駐蹕聖蹟の碑と霊木弓
■仲哀天皇御駐蹕聖蹟の碑と霊木弓
人皇第十四代仲哀天皇(193)は容姿端正身丈十尺に及び体格は自ら人を威圧する感あらせ給ふ。
天皇即位二年三月九州は日向、大隈、薩摩地方に蟠居せる熊襲の僻地を利し皇威に叛くの報いに接し、天皇直に舟師と率いて遠く九州の地へ御親征の議決し給い、聖駕を穴門豊浦に進め給う。神功皇后は天皇の勅に依り、御後を追われ七月五日豊浦津に来りて宮室を興し熊襲平定の策を譲り給へり。天皇即位八年、計畫全く整い春正月船を筑紫に南下の途上筑紫の豪族伊都縣主祖五十跡手と云う者、天皇の御船を穴門の引島の原(現彦島八幡宮所在地)の地に奉迎、八尺瓊、白銅鏡、十握剣を献じて戦勝を祈り、征虜の辛酸を慰め奉れり。天皇大いに其の志を嘉し給い「伊蘇志」の名を忠勤を賞で給う。
(日本書記仲哀記)
此の時天皇の御弓を立て掛け給いし松を「霊木弓立松」と云っております。現在その松の古株と石碑があります。其の後天皇は、橿日宮(香椎宮)に行宮を定め給い、鋭意、熊襲親征に力を注ぎ給いしも成果はかばかしからざる内、俄に陣中に病を得させ給い、橿日の宮に崩御遊され給いき。皇后は大臣、武内宿禰と議って其の喪を秘し皇軍の志気を保ち天皇の素志を続ぎ給い、船路遥に新羅の本城を衝き遂に熊襲の後路を経ち、九州を洽て平定なし給へり。社頭に、英邁果敢なる仲哀天皇の蹕を駐め給へる聖地を持つは当宮又、彦島の誇りなり。
彦島八幡宮HPより
人皇第十四代仲哀天皇(193)は容姿端正身丈十尺に及び体格は自ら人を威圧する感あらせ給ふ。
天皇即位二年三月九州は日向、大隈、薩摩地方に蟠居せる熊襲の僻地を利し皇威に叛くの報いに接し、天皇直に舟師と率いて遠く九州の地へ御親征の議決し給い、聖駕を穴門豊浦に進め給う。神功皇后は天皇の勅に依り、御後を追われ七月五日豊浦津に来りて宮室を興し熊襲平定の策を譲り給へり。天皇即位八年、計畫全く整い春正月船を筑紫に南下の途上筑紫の豪族伊都縣主祖五十跡手と云う者、天皇の御船を穴門の引島の原(現彦島八幡宮所在地)の地に奉迎、八尺瓊、白銅鏡、十握剣を献じて戦勝を祈り、征虜の辛酸を慰め奉れり。天皇大いに其の志を嘉し給い「伊蘇志」の名を忠勤を賞で給う。
(日本書記仲哀記)
此の時天皇の御弓を立て掛け給いし松を「霊木弓立松」と云っております。現在その松の古株と石碑があります。其の後天皇は、橿日宮(香椎宮)に行宮を定め給い、鋭意、熊襲親征に力を注ぎ給いしも成果はかばかしからざる内、俄に陣中に病を得させ給い、橿日の宮に崩御遊され給いき。皇后は大臣、武内宿禰と議って其の喪を秘し皇軍の志気を保ち天皇の素志を続ぎ給い、船路遥に新羅の本城を衝き遂に熊襲の後路を経ち、九州を洽て平定なし給へり。社頭に、英邁果敢なる仲哀天皇の蹕を駐め給へる聖地を持つは当宮又、彦島の誇りなり。
彦島八幡宮HPより
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