彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
彦島八幡宮 御由緒
■彦島八幡宮 御由緒
当宮は平治元年(1159)十月十五日、本当開拓の主祖・河野通次自ら祭主となり宇佐神宮より御祭神を勧請、祭祀なされたのであります。一名灘八幡と言っただけに宮の沖合を通過する船は必ず「半帆」の札をとったと云われる事から造船、漁業関係者の崇敬が厚く、又、安産の神として別名子安八幡と崇められて併せて式神、文化神、生産神として御霊験あらたかな神様であります。尚、秋の例大祭「十月二十一日」には八百四十余年伝来の無形民俗文化財「サイ上リ神事」があり由緒の深さを示しております。
■河野通次の来島と彦島十二苗祖
河野通次は人皇第五十一代平城天皇の子孫、三位中将大江正房の摘子で伊豫水軍の祖・越智高縄城主河野通清の末裔で伊豫勝山城主でありましたが人皇第七十七代後白河天皇御代保元元年保元の乱(1156)に藤原頼長と共に崇徳上皇と結び天皇方と戦い白河殿の夜襲に惨敗した通次は残党の園田一覚、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平と率いて西奔比の彦島に逃避して隠棲農夫漁夫を装い再起を謀って居りましたが朝に興り夕に亡びる武士の生活に無常を感じ農耕漁釣に浮世を捨てたのであります。
それから二十有余年後、植田治郎、岡野将監、百合野民部、和田義信、登根金吾、富田刑部が来島して住むようになり彦島開拓の祖となりました。これを「彦島十二苗祖」と云っております。
彦島八幡宮HPより
当宮は平治元年(1159)十月十五日、本当開拓の主祖・河野通次自ら祭主となり宇佐神宮より御祭神を勧請、祭祀なされたのであります。一名灘八幡と言っただけに宮の沖合を通過する船は必ず「半帆」の札をとったと云われる事から造船、漁業関係者の崇敬が厚く、又、安産の神として別名子安八幡と崇められて併せて式神、文化神、生産神として御霊験あらたかな神様であります。尚、秋の例大祭「十月二十一日」には八百四十余年伝来の無形民俗文化財「サイ上リ神事」があり由緒の深さを示しております。
■河野通次の来島と彦島十二苗祖
河野通次は人皇第五十一代平城天皇の子孫、三位中将大江正房の摘子で伊豫水軍の祖・越智高縄城主河野通清の末裔で伊豫勝山城主でありましたが人皇第七十七代後白河天皇御代保元元年保元の乱(1156)に藤原頼長と共に崇徳上皇と結び天皇方と戦い白河殿の夜襲に惨敗した通次は残党の園田一覚、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平と率いて西奔比の彦島に逃避して隠棲農夫漁夫を装い再起を謀って居りましたが朝に興り夕に亡びる武士の生活に無常を感じ農耕漁釣に浮世を捨てたのであります。
それから二十有余年後、植田治郎、岡野将監、百合野民部、和田義信、登根金吾、富田刑部が来島して住むようになり彦島開拓の祖となりました。これを「彦島十二苗祖」と云っております。
彦島八幡宮HPより
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