彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
彦島大橋
彦島大橋
下関の伊崎と彦島の老の山を結ぶ「彦島大橋」は、橋長710メートル、主橋部の中央径間236メートルで、コンクリート橋としては世界第一の橋である。
世界第十位のつり橋、関門橋と共に、下関の自慢の一つになったことは確かだ。
彦島大橋が出来るまでは、高知県の浦戸大橋が中央径間230メートルで、コンクリート橋世界第一位を誇っていた。
彦島大橋は山口県道路公社の発足第一号の工事で、彦島有料道路の一部に含まれ、その全延長は4.460メートル。
大橋の他に、小迫から長崎町まで山をくり抜いて860メートルのトンネルも通された。
有料道路の工事は暫定二車線であるが、用地買収だけは四車線とし、昭和46年に着手した。そして大橋の着工は昭和48年3月で、昭和50年4月には完工し供用を開始する予定が、例のオイルショックのあおりを受けて約半年、その開通が遅れた。
この工事は、関門橋ほどではないにしても着工からドッキング、開通までにたびたび新聞に報じられたが、各紙とも、彦島上空から撮影して彦島大橋と関門橋の二つを画面に配するという決まった構図が多かった。
「世界一と東洋一が勢ぞろい」と説明をつけた新聞もあって、しきりにその完工が待たれた。
別名ヤジロベエ工法と呼ばれるディビダーク工法は昭和25年西ドイツのミュンヘン市で開発。33年我が国に導入し、神奈川県の相模湖嵐山橋で初めて採用された。
ネズミ色の大きなTの字が二つ、下関側の小門と彦島側の小戸にそびえ立ったのが二年前、それ以来、二つの橋台を軸にして、左右のバランスをとりながらコンクリートブロックを伸ばしていく工法で、「弥次郎兵衛の腕」に似ているところから、ディビダーク工法と呼ばず、ヤジロベエで通っている。
こうして出来上がった大橋は老の山の中腹を巻く関連道路に直結され、泥田堤をまたいでそのままトンネルに入る。
トンネル出口は本村長崎町の通称、篠栗山の山すそにあるが、隊道工事にかかるまでは、ここにこんこんと清水の湧き出る穴があった。
かつてはこの水を利用して清涼飲料水や豆腐の製造工場があったが工事で涸れてしまった。
この湧き水は篠栗の水、あるいは平家水と呼ばれ、昭和の初頭まではその周辺に幾つもの五輪塔が苔むしていたという。
そして、どのような旱魃にも決して涸れることがなかったと伝えられ、平家の引島城はこの丘にあったのではないかと推測する人もいる。
ドイツで生まれたディビダーク工法による彦島大橋は、私どもに八百年の一大絵巻を彷彿させてくれる。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
下関の伊崎と彦島の老の山を結ぶ「彦島大橋」は、橋長710メートル、主橋部の中央径間236メートルで、コンクリート橋としては世界第一の橋である。
世界第十位のつり橋、関門橋と共に、下関の自慢の一つになったことは確かだ。
彦島大橋が出来るまでは、高知県の浦戸大橋が中央径間230メートルで、コンクリート橋世界第一位を誇っていた。
彦島大橋は山口県道路公社の発足第一号の工事で、彦島有料道路の一部に含まれ、その全延長は4.460メートル。
大橋の他に、小迫から長崎町まで山をくり抜いて860メートルのトンネルも通された。
有料道路の工事は暫定二車線であるが、用地買収だけは四車線とし、昭和46年に着手した。そして大橋の着工は昭和48年3月で、昭和50年4月には完工し供用を開始する予定が、例のオイルショックのあおりを受けて約半年、その開通が遅れた。
この工事は、関門橋ほどではないにしても着工からドッキング、開通までにたびたび新聞に報じられたが、各紙とも、彦島上空から撮影して彦島大橋と関門橋の二つを画面に配するという決まった構図が多かった。
「世界一と東洋一が勢ぞろい」と説明をつけた新聞もあって、しきりにその完工が待たれた。
別名ヤジロベエ工法と呼ばれるディビダーク工法は昭和25年西ドイツのミュンヘン市で開発。33年我が国に導入し、神奈川県の相模湖嵐山橋で初めて採用された。
ネズミ色の大きなTの字が二つ、下関側の小門と彦島側の小戸にそびえ立ったのが二年前、それ以来、二つの橋台を軸にして、左右のバランスをとりながらコンクリートブロックを伸ばしていく工法で、「弥次郎兵衛の腕」に似ているところから、ディビダーク工法と呼ばず、ヤジロベエで通っている。
こうして出来上がった大橋は老の山の中腹を巻く関連道路に直結され、泥田堤をまたいでそのままトンネルに入る。
トンネル出口は本村長崎町の通称、篠栗山の山すそにあるが、隊道工事にかかるまでは、ここにこんこんと清水の湧き出る穴があった。
かつてはこの水を利用して清涼飲料水や豆腐の製造工場があったが工事で涸れてしまった。
この湧き水は篠栗の水、あるいは平家水と呼ばれ、昭和の初頭まではその周辺に幾つもの五輪塔が苔むしていたという。
そして、どのような旱魃にも決して涸れることがなかったと伝えられ、平家の引島城はこの丘にあったのではないかと推測する人もいる。
ドイツで生まれたディビダーク工法による彦島大橋は、私どもに八百年の一大絵巻を彷彿させてくれる。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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