彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
関門トンネルと惣の話
関門トンネルと惣の話
彦島の弟子待に、惣とよばれる、変わり者が住んでおった。
なぜ惣とよばれるのか、だれも知らん、名まえが惣吉か、惣太郎か、惣兵衛かの、どれかじゃろうという人もあるが、『うん、そうそう』というのが口ぐせじゃったけぇ、それで惣とよんだのかもしれん。
明治のおわりごろ、下関海峡(いまの関門海峡)にトンネルが掘られるという話が伝えられて、人びとは喜んだ。
『トンネルができたら、九州へはひとっぱしりで行けるけえ、便利になるのう』
『ほいでも、トンネルの中を汽車が走って、大丈夫じゃろうか』
そんな話が、あちらこちらでささやかれたものじゃが、変わり者の惣は、噂の仲間にはいっても、最期までぶすっとした顔で聞いておって、ひとこと、にくまれ口をいうんじゃ。
『トンネルが、なにがええもんか、どうせつくるんなら、橋じゃ』
明治がおわって大正になっても、トンネルの話は、いっこう進まんで、そのまま昭和にはいった。しかし、どうしても本州と九州をむすぶトンネルは必要じゃというわけで、十一年(1936年)の秋、ようやく工事が始まった。
トンネルを掘りはじめた日の夜は、下関でも門司でも、提灯行列があって、それはそれは賑やかじゃった。
ところが惣は、提灯行列の人びとをつかまえては、
『トンネルよりも橋のほうが、なんぼかええ。つくるんなら橋じゃ』
と、言うて回った。よく聞いてみると、惣の言い分は、こうじゃ。
トンネルより橋のほうが、安くできる。また、巌流島のちかくに穴を掘ると、宮本武蔵に負けた佐々木小次郎の恨みが、トンネルに乗り移る。巌流島のそばには死の瀬と呼ばれる恐ろしい岩礁もあって、いままでそこで沈んだ、たくさんの船乗りたちの怨霊が、トンネル工事を邪魔するぞ…
そのうち惣は、兵隊にとられて、中国の戦場へ出ていった。
やがてアメリカとの戦争も始まったが、トンネル工事は進められた。そして昭和十七年にトンネルが開通して、十一月十五日、電気機関車に引っ張られた列車が、トンネルを抜けていった。
その日は、下関駅にも、門司駅にも、それからトンネルの入り口にも、何万人もの人が集まって
『ばんざあい、ばんざあい』
と、旗を振ったものじゃ。
ところが、その人ごもの中に、惣がおったと、誰かが言いだした。見た人は、一人だけじゃない。
『うん、わしも見た』
惣に気づいたという人は、次から次にあらわれた。そのころ惣は、本当に戦地へ行っておったんじゃがのう。
ある人などは、人ごみの中で、惣と口まできいておって、
『むりをしてトンネルを掘ったけえ、三十二人も死んでしもおたじゃろうが』
と、恨みごとまで言われたというけえ、なんとなく不気味な話じゃ。げんに(じっさいに)トンネル掘りはたいへんな難工事で、出来あがねまでに三十二人の死者をだしておった。
また、それからまもなくのこと、下関のタクシーが駅前で、ひとりの工夫を乗せた。
『トンネルの入り口の少し向こうまで』
そう言われて運転手は、だまって車を走らせたが、しばらく行くと客が、ぼそっと、ひとりごとを言うたんじゃ。
『ほんとうは、橋のほうがええんじゃが…』
『ええっ、お客さん、どこの橋ですか』
行き先を変えろ、と言われたのかと思うて、運転手が聞きかえすと、
『まあ、トンネルでもええ』
と言うたきりで、客は静かになった。眠っておるんじゃろうと思うておったが、トンネルのちかくまで来たので、運転手はもう一度、行くさきを確かめようと、うしろをふり返っておどろいた。
座席には、誰も居ないんじゃ。運転手は、ぞぅっとして、がたがたふるえたそうじゃ。
『たしかに乗せましたよ。トンネル掘りのドリルのようなものを持っておって、うす気味わるいほど沈んだ顔をしておりましたがね』
戦争がおわって、戦地からはたくさんの兵隊が帰って来たが、惣が元気で戻ったのかどうかは、誰も知らん。
いまじゃあ、関門橋も出来あがったことやから、もし生きていりあ、大喜びじゃろうのう。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
彦島の弟子待に、惣とよばれる、変わり者が住んでおった。
なぜ惣とよばれるのか、だれも知らん、名まえが惣吉か、惣太郎か、惣兵衛かの、どれかじゃろうという人もあるが、『うん、そうそう』というのが口ぐせじゃったけぇ、それで惣とよんだのかもしれん。
明治のおわりごろ、下関海峡(いまの関門海峡)にトンネルが掘られるという話が伝えられて、人びとは喜んだ。
『トンネルができたら、九州へはひとっぱしりで行けるけえ、便利になるのう』
『ほいでも、トンネルの中を汽車が走って、大丈夫じゃろうか』
そんな話が、あちらこちらでささやかれたものじゃが、変わり者の惣は、噂の仲間にはいっても、最期までぶすっとした顔で聞いておって、ひとこと、にくまれ口をいうんじゃ。
『トンネルが、なにがええもんか、どうせつくるんなら、橋じゃ』
明治がおわって大正になっても、トンネルの話は、いっこう進まんで、そのまま昭和にはいった。しかし、どうしても本州と九州をむすぶトンネルは必要じゃというわけで、十一年(1936年)の秋、ようやく工事が始まった。
トンネルを掘りはじめた日の夜は、下関でも門司でも、提灯行列があって、それはそれは賑やかじゃった。
ところが惣は、提灯行列の人びとをつかまえては、
『トンネルよりも橋のほうが、なんぼかええ。つくるんなら橋じゃ』
と、言うて回った。よく聞いてみると、惣の言い分は、こうじゃ。
トンネルより橋のほうが、安くできる。また、巌流島のちかくに穴を掘ると、宮本武蔵に負けた佐々木小次郎の恨みが、トンネルに乗り移る。巌流島のそばには死の瀬と呼ばれる恐ろしい岩礁もあって、いままでそこで沈んだ、たくさんの船乗りたちの怨霊が、トンネル工事を邪魔するぞ…
そのうち惣は、兵隊にとられて、中国の戦場へ出ていった。
やがてアメリカとの戦争も始まったが、トンネル工事は進められた。そして昭和十七年にトンネルが開通して、十一月十五日、電気機関車に引っ張られた列車が、トンネルを抜けていった。
その日は、下関駅にも、門司駅にも、それからトンネルの入り口にも、何万人もの人が集まって
『ばんざあい、ばんざあい』
と、旗を振ったものじゃ。
ところが、その人ごもの中に、惣がおったと、誰かが言いだした。見た人は、一人だけじゃない。
『うん、わしも見た』
惣に気づいたという人は、次から次にあらわれた。そのころ惣は、本当に戦地へ行っておったんじゃがのう。
ある人などは、人ごみの中で、惣と口まできいておって、
『むりをしてトンネルを掘ったけえ、三十二人も死んでしもおたじゃろうが』
と、恨みごとまで言われたというけえ、なんとなく不気味な話じゃ。げんに(じっさいに)トンネル掘りはたいへんな難工事で、出来あがねまでに三十二人の死者をだしておった。
また、それからまもなくのこと、下関のタクシーが駅前で、ひとりの工夫を乗せた。
『トンネルの入り口の少し向こうまで』
そう言われて運転手は、だまって車を走らせたが、しばらく行くと客が、ぼそっと、ひとりごとを言うたんじゃ。
『ほんとうは、橋のほうがええんじゃが…』
『ええっ、お客さん、どこの橋ですか』
行き先を変えろ、と言われたのかと思うて、運転手が聞きかえすと、
『まあ、トンネルでもええ』
と言うたきりで、客は静かになった。眠っておるんじゃろうと思うておったが、トンネルのちかくまで来たので、運転手はもう一度、行くさきを確かめようと、うしろをふり返っておどろいた。
座席には、誰も居ないんじゃ。運転手は、ぞぅっとして、がたがたふるえたそうじゃ。
『たしかに乗せましたよ。トンネル掘りのドリルのようなものを持っておって、うす気味わるいほど沈んだ顔をしておりましたがね』
戦争がおわって、戦地からはたくさんの兵隊が帰って来たが、惣が元気で戻ったのかどうかは、誰も知らん。
いまじゃあ、関門橋も出来あがったことやから、もし生きていりあ、大喜びじゃろうのう。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
偕成社版の『山口県の民話』に、日本民俗学会の松岡利夫氏は、『関門トンネルが掘られる当時から、トンネルより橋をと考える人びとが下関の一部にはいたのでしょう。そうした気持ちがたまたま「惣」という男をかりて世間話としてひろがっていったものかと思われます』と解説されている。
下関でもあまり知られていないこの話について『岩国市で聞いたことがあります』と、日本子どもの本研究会の稲生慧氏に聞き、この種の話の広がりを知って驚いたことがある。
偕成社版の『山口県の民話』に、日本民俗学会の松岡利夫氏は、『関門トンネルが掘られる当時から、トンネルより橋をと考える人びとが下関の一部にはいたのでしょう。そうした気持ちがたまたま「惣」という男をかりて世間話としてひろがっていったものかと思われます』と解説されている。
下関でもあまり知られていないこの話について『岩国市で聞いたことがあります』と、日本子どもの本研究会の稲生慧氏に聞き、この種の話の広がりを知って驚いたことがある。
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Posted on 2017/05/20 Sat. 10:10 [edit]
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