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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

水雷発射管 

水雷発射管


この浜辺は、水雷発射管の跡地として、戦前まではかなり知られていたところである。
また、幕末攘夷戦に於いて活躍した弟子待砲台や山床砲台も、すぐこの近くにあった。

水雷発射管は、ロシアのバルチック艦隊襲来にそなえて明治35年に建造されたものである。
それはロシア艦隊が関門海峡に近づくことに対しての、いわば本土決戦体制であった。
即ち、バ艦隊が本土に近づいた場合には、まず老ノ山砲台がこれを撃破するが、もし突破された場合には、田ノ首の砲台山と海軍山で砲撃し、次に弟子待の水雷発射管が活躍する。
それでも駄目な場合には火ノ山砲台と門司の和布刈が撃滅する手筈になっていた。

そのため、弟子待では、一度だけ実弾演習を行ったところ、兵隊の多くが鼓膜を破ってしまったので、和布刈では演習を取りやめる羽目になったという。
因みに、門司の和布刈は、当時、下関要塞司令部の管轄であった。

結局、日露戦争は日本海海戦で終止符を打ち、関門海峡へ敵艦を迎えることはなかったが、老ノ山砲台や六連島砲台はかなり活躍した。

その時の模様を明治29年生まれという竹ノ子島の瓜生さんは記憶をたどりながら、こう話してくれた。
「何人か忘れたがのう。ロシアの兵隊が溺れて、この瀬戸を流れたもんじゃ。そこの突き出しの浜でも一人打ち上げられてのう」

ところで、現存の発射管は、赤レンガ造りの短いトンネルだけで、その前面には幅3メートル、長さ約50メートルの突堤が海峡に延びているにすぎないが、七十余年前の当時としては帝国海軍の頭脳を集めた堅固な要塞の一つであったことであろう。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2017/07/03 Mon. 12:43 [edit]

category: 彦島あれこれ

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