彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
専立寺
専立寺
本村本町の小高い丘のふところに、西楽寺と並んで建つ海音山専立寺は、青銅でふいた屋根が遠くから眺めても美しい。
この寺院は、古くは安楽寺と呼ばれ、寿永元年和田四郎常保の開基と伝えられている。
伝承によれば、常保は平忠清の執権で、富士川の合戦で敗れ、一門から離れて西走し、彦島に渡って剃髪したことになっている。
富士川の戦いというのは治承四年十月二十日平家の軍勢が頼朝の大軍に気負けして敗退したことをさすのであろうか。
その後、寿永三年秋、平知盛が彦島に城を築き、翌四年早々には、平家一門が続々とこの島にやってきたが、その時の和田四郎の行動は何一つとして記録されていない。
しかし、当時の安楽寺は寺とは名ばかりの小さな草庵にすぎなかったようである。
ところが、建治二年三月、時宗の祖、円照大師一遍上人の高弟、西楽法師が来島し、安楽寺の東側に並んで西楽庵を建てた。
西楽庵は平家の守護仏を安置したので十二苗祖をはじめ島民の信仰を厚くしたが、安楽寺は永年の間、ひっそりと静まりかえったままであった。
その後、西楽庵は西楽寺と改めたため、その山号が安楽寺とまぎわらしくなった。
そこで、弘安二年安楽寺四代住職教順法師が通称「専立寺」と改めたという。この通称が、京都本願寺より正式に寺号として許されて専立寺となったのは四百年近くも後のことで、慶安二年六月四日であった。
その十年ばかり前、寛永十五年には天草の乱における小西の残党が海賊となってこの島を占拠したので、島民の多くは下関へ疎開したが、何人か残った者は、廃寺同然となった西楽寺と共に専立寺を守り通したという。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
本村本町の小高い丘のふところに、西楽寺と並んで建つ海音山専立寺は、青銅でふいた屋根が遠くから眺めても美しい。
この寺院は、古くは安楽寺と呼ばれ、寿永元年和田四郎常保の開基と伝えられている。
伝承によれば、常保は平忠清の執権で、富士川の合戦で敗れ、一門から離れて西走し、彦島に渡って剃髪したことになっている。
富士川の戦いというのは治承四年十月二十日平家の軍勢が頼朝の大軍に気負けして敗退したことをさすのであろうか。
その後、寿永三年秋、平知盛が彦島に城を築き、翌四年早々には、平家一門が続々とこの島にやってきたが、その時の和田四郎の行動は何一つとして記録されていない。
しかし、当時の安楽寺は寺とは名ばかりの小さな草庵にすぎなかったようである。
ところが、建治二年三月、時宗の祖、円照大師一遍上人の高弟、西楽法師が来島し、安楽寺の東側に並んで西楽庵を建てた。
西楽庵は平家の守護仏を安置したので十二苗祖をはじめ島民の信仰を厚くしたが、安楽寺は永年の間、ひっそりと静まりかえったままであった。
その後、西楽庵は西楽寺と改めたため、その山号が安楽寺とまぎわらしくなった。
そこで、弘安二年安楽寺四代住職教順法師が通称「専立寺」と改めたという。この通称が、京都本願寺より正式に寺号として許されて専立寺となったのは四百年近くも後のことで、慶安二年六月四日であった。
その十年ばかり前、寛永十五年には天草の乱における小西の残党が海賊となってこの島を占拠したので、島民の多くは下関へ疎開したが、何人か残った者は、廃寺同然となった西楽寺と共に専立寺を守り通したという。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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