彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
清盛塚があった
清盛塚があった
昭和49年11月28日夜は、久し振りに快い興奮でなかなか眠れなかった。
ここ何年か、彦島に関する新しい発見に縁のなかった私に、突然ある人が電話を下さったのだ。
「江ノ浦に清盛塚というのがありますが、御存知ですか。貴方が探しているという平家塚がこれではないかと思いまして…」
電話の主は、新しく下関市役所彦島支所長として赴任されて、まだ一ヶ月しか経たない前田勲氏である。彦島に来たからには、少しでも多くの彦島を知ろうと、あちこち歩き回って調べているとのことで、その熱心さが声に満ち満ちていて溢れそうであった。
「清盛塚、とはっきり書いてありますし、すぐそばには地鎮神と彫られた石塚もありますよ。行ってみられたら如何でしょうか」
私のまったく知らないことであった。
思わず受話器を強く握り締めたが、カーッと頭に血がのぼる興奮を抑えながら、私は、その場所を確かめた。
地理的に、やや説明しにくい所であるらしく、あまり要領を得なかったが、すぐにでも走って探しに出かけたい衝動をこらえながら、ていねいにお礼を述べて電話を切った。
翌日私は、杉田古墳の当たりに見当をつけてその付近のひとびとに訊ねたりしたが、誰も知らない。
林に入り、藪に入り、あちこち、ごそごそと歩き回って何度も犬に吠えられているうちに、ふと「そばに椿の木が何本かありましてね」との前田氏の言葉を思い出した。
古墳の西側の小丘は「ノジ」と呼ばれている。私はその丘に移って、背丈ほどの大藪をかき分けて探した。
ところどころ山芋を掘ったあとがあり、その穴に落ち込んだりしながら、ふと見上げると椿の大木があった。
清盛塚はその椿の根元に、ひっそり建っていた。
ノジの丘のこんもり繁った森の中である。
約90センチの高さの自然石にはっきりと「清盛塚」と掘られてあり、左に無刻の石を並べて、少し前には立派な台座をもった「地鎮神」と刻んだ石も建っている。
このほうは約1メートル50、背に榊を繁らせ、前面には椿やグミの木が植えてあり、ツワブキの黄色い花がそこここに咲いていた。
これが古くから伝えられている「平家塚」であろうか。
刻字から判断すればそう古いものとは思えない。せいぜい百五十年位であろうか。
しかし「地鎮神」の碑の背面をよく見ると、殆ど読み取れないが確かになにか彫ったあとがある。かなり風化して、それらの字は削り取られたようにも見えるが、確かに字であることには間違いない。
「古くから伝えられている平家塚を、誰かが裏返して、新しく刻字したものではないでしょうか」
その夜、私は、前田氏にそんな手紙を書いた。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
昭和49年11月28日夜は、久し振りに快い興奮でなかなか眠れなかった。
ここ何年か、彦島に関する新しい発見に縁のなかった私に、突然ある人が電話を下さったのだ。
「江ノ浦に清盛塚というのがありますが、御存知ですか。貴方が探しているという平家塚がこれではないかと思いまして…」
電話の主は、新しく下関市役所彦島支所長として赴任されて、まだ一ヶ月しか経たない前田勲氏である。彦島に来たからには、少しでも多くの彦島を知ろうと、あちこち歩き回って調べているとのことで、その熱心さが声に満ち満ちていて溢れそうであった。
「清盛塚、とはっきり書いてありますし、すぐそばには地鎮神と彫られた石塚もありますよ。行ってみられたら如何でしょうか」
私のまったく知らないことであった。
思わず受話器を強く握り締めたが、カーッと頭に血がのぼる興奮を抑えながら、私は、その場所を確かめた。
地理的に、やや説明しにくい所であるらしく、あまり要領を得なかったが、すぐにでも走って探しに出かけたい衝動をこらえながら、ていねいにお礼を述べて電話を切った。
翌日私は、杉田古墳の当たりに見当をつけてその付近のひとびとに訊ねたりしたが、誰も知らない。
林に入り、藪に入り、あちこち、ごそごそと歩き回って何度も犬に吠えられているうちに、ふと「そばに椿の木が何本かありましてね」との前田氏の言葉を思い出した。
古墳の西側の小丘は「ノジ」と呼ばれている。私はその丘に移って、背丈ほどの大藪をかき分けて探した。
ところどころ山芋を掘ったあとがあり、その穴に落ち込んだりしながら、ふと見上げると椿の大木があった。
清盛塚はその椿の根元に、ひっそり建っていた。
ノジの丘のこんもり繁った森の中である。
約90センチの高さの自然石にはっきりと「清盛塚」と掘られてあり、左に無刻の石を並べて、少し前には立派な台座をもった「地鎮神」と刻んだ石も建っている。
このほうは約1メートル50、背に榊を繁らせ、前面には椿やグミの木が植えてあり、ツワブキの黄色い花がそこここに咲いていた。
これが古くから伝えられている「平家塚」であろうか。
刻字から判断すればそう古いものとは思えない。せいぜい百五十年位であろうか。
しかし「地鎮神」の碑の背面をよく見ると、殆ど読み取れないが確かになにか彫ったあとがある。かなり風化して、それらの字は削り取られたようにも見えるが、確かに字であることには間違いない。
「古くから伝えられている平家塚を、誰かが裏返して、新しく刻字したものではないでしょうか」
その夜、私は、前田氏にそんな手紙を書いた。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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