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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

高杉晋作とは 

高杉晋作とは

高杉晋作は、天保10年(1839)、長州藩士高杉小忠太の長男として萩城下に生まれ、藩校明倫館に学ぶ一方、松下村塾で吉田松陰に入門したのを機に希代の革命戦略家として頭角をあらわしました。文久2年(1862)には幕府貿易視察団に加わり清国上海渡り、ヨーロッパの半殖民地と化した街を見て衝撃を受け、文久3年(1863)6月、下関を外国艦から防備するため奇兵隊を結成。奇兵隊は武士以外でも「志」があれば入隊を許した画期的な軍隊となりました。元治元年(1864)8月には、四国連合艦隊の下関砲撃事件の戦後処理にあたり、また同年12月には長府功山寺で挙兵し、藩論を倒幕に統一。さらに下関開港・薩長同盟締結を実現しました。慶応2年(1866)には、小倉戦争で奇兵隊などを指揮し、長州再征軍との戦いに勝利をおさめましたが、この時、持病の結核が悪化し、慶応3年(1867)4月14日、27歳の若さで亡くなりました。「面白きこともなき世を面白く」。まさにこの和歌の通り、 幕末の世を駈け抜けた高杉晋作。今もなお「維新の風雲児」としてその名が語られています。
(下関市教育委員会刊行「下関の地名」転載)

歴史が動いた瞬間「維新回天の挙兵」

元治元年(1864)、長州藩は存亡の危機にありました。7月の禁門の変後に朝敵へ失墜した長州藩に対し、第一次長州征討が実行されたのです。藩内は朝廷・幕府に恭順を示す保守派が主導権を握ると、征長軍が提示した三家老切腹、藩主の蟄居謹慎などを実行し、長州征討の早急な解決を模索しました。このとき保守派政権の対応に不満を抱き敢然と立ち上がったのが高杉晋作でした。晋作は、藩政の一新を求め、奇兵隊ほか多くの諸隊とたもとを分かち、決起を決意。12月16日の明け方、功山寺を訪れた晋作は、都から落ちのびていた三条実美ら五卿を前に、「これよりは、長州男児の腕前をお目にかけ申すべし」と告げ、萩藩新地会所を急襲。後に続いた者たちとクーデターを成功させ、長州を再び討幕へと導きました。この功山寺挙兵をきっかけに、維新が大きく動きます。「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」。まさに、日本の歴史を変えた瞬間でした。

下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より
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Posted on 2019/11/01 Fri. 09:45 [edit]

category: 下関あれこれ

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