彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
光明寺と旧駅かいわい
光明寺と旧駅かいわい
日和山の表坂は石段が約二百四十段、下ったところに「日和山公園入口」の標識がある。
だから、本当はこの石段を登るべきですよ、と意味している訳だ。
しかし、そこは気ままなぶらたん氏、もう随分昔から、この階段は帰り道として利用する事にしている。
やはりこの丘は、殿峰墓碑前の坂道や、豊前田の谷、入江の丸山通り一角、高尾の交差点などから放射状に集まったいくつもの小路を辿りながら登るに限る。
そうだ、高杉さんの立つこの公園へは、光明寺の横の小路に迷い込んで静かな宅地の雰囲気を味わいながら行く事ができる。
その光明寺は細江町の中通り、日和山公園入口の東側約百メートルの所に建つ浄土真宗のお寺だ。
もともと豊浦郡の西市にあったが、内日、幡生と転じ、享保十七年、今から二百四十年前にここに移ったという。
山門下の石段は重量感のある立派な参道であったが、今は下半分がセメントに替えられ、その両脇も駐車場と、かつての風格が薄らいだのが惜しい。
境内に入ると正面の入母屋造りの本堂が覆いかぶさるように迫ってくる。
そばの大イチョウも負けじと天高く聳え立っていて、実はこれも市の指定による保存樹木だ。
右手の墓地に入ってみると、昭和二年と書かれた燈籠などもなどもあるが、何よりそこから眺める本堂の大屋根の美しさがたまらない。
扇を描いた見事な鬼瓦、そこから前後に伸びる両翼は優雅な曲線を作り出していて鳥の羽ばたきにも似ている。
扇面は、同寺の定紋に対する裏の紋ともいうべきもので、これは本堂屋根の大棟にも浮き出ていて印象的である。
本堂の左手は庫裏だが、その横にはひかり保育園があって、園児たちの明るい笑顔や歌声の震源地となっている。
また、山門のそばに建つ大きな石碑は、幕末から明治にかけての下関の教育界に鮮明な足跡を残した広井良図の顕彰碑である。
しかし、ところどころ損傷したりして極めて読みにくい。
良図は清末藩士で、萩明倫館や清末育英館の舎頭をつとめたほどの人物。
明治時代には現在の下関商高、豊浦高校などで教鞭をとり、西細江に硯湾学舎という私塾を開いたりした。
だが、こうして読めなくなった顕彰碑の前に立ってみると、今度はその脇に解説碑を建てなければならなくのではないかと思えてくる。
ところで光明寺といえば、少し幕末の事に詳しい人なら大抵思い出すのが、光明寺党であろう。
久坂玄瑞以下六十余名の有志隊で、文久三年五月の攘夷決行では先頭に立って外艦を砲撃した。
彼らはやがて高杉晋作の奇兵隊にその大半が包含されることになるが、急進的公家である中山忠光卿は光明寺党の志士たちを大変好もしく思っていたようで、狐狩りの獲物をさげて同寺に行き召し上がられたと白石正一郎も日記に書いている。
光明寺を出て大通りに出ると国道9号線だ。
この辺りは戦前には「山陽の浜」と呼ばれる下関第一の繁華街があった。
アセチレンガスとバラナの叩き売りがここの名物でもあった。
下関では今でもバナナをバラナと呼ぶ老人が多い。
この国道沿いにある労働会館は昔の山陽百貨店で昭和七年に出来た鉄筋コンクリートの六階建てデパートは当時の下関の自慢であった。
その隣は下関警察署で、かつては下関駅の真ん前に位置して、大いに睨みをきかしていた。
旧下関駅はこの警察署と文化会館の間の海より真正面にあった。
東海道から続く山陽本線のレールはこの駅で波型に曲げられ、本州の最端であることを示していた。
この駅前の古ぼけたビルは明治三十六年五月に我が国の鉄道ホテル第一号として開業した山陽ホテルで、大正十三年に再建されたものである。
九州や大陸への橋渡しとして、このホテルはほとんどの有名人が宿泊した。
ベーブルースも、ヘレンケラーもここに泊まったと、古い馬関っ子たちは自慢するが、この旧山陽ホテルの真正面、つまり警察署の南側にも、当時の駅前旅館がそのままの形で残っている。
木造三階建のこの宿には、今でも郷愁を抱く人が多いという。
歌舞伎座の玄関を思わせるような佇まいを、じっと眺めていると、この旧浜吉旅館と旧山陽ホテルの相対する二つの宿は、いつまでも残して欲しいものと思わずにはいられない。
冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
日和山の表坂は石段が約二百四十段、下ったところに「日和山公園入口」の標識がある。
だから、本当はこの石段を登るべきですよ、と意味している訳だ。
しかし、そこは気ままなぶらたん氏、もう随分昔から、この階段は帰り道として利用する事にしている。
やはりこの丘は、殿峰墓碑前の坂道や、豊前田の谷、入江の丸山通り一角、高尾の交差点などから放射状に集まったいくつもの小路を辿りながら登るに限る。
そうだ、高杉さんの立つこの公園へは、光明寺の横の小路に迷い込んで静かな宅地の雰囲気を味わいながら行く事ができる。
その光明寺は細江町の中通り、日和山公園入口の東側約百メートルの所に建つ浄土真宗のお寺だ。
もともと豊浦郡の西市にあったが、内日、幡生と転じ、享保十七年、今から二百四十年前にここに移ったという。
山門下の石段は重量感のある立派な参道であったが、今は下半分がセメントに替えられ、その両脇も駐車場と、かつての風格が薄らいだのが惜しい。
境内に入ると正面の入母屋造りの本堂が覆いかぶさるように迫ってくる。
そばの大イチョウも負けじと天高く聳え立っていて、実はこれも市の指定による保存樹木だ。
右手の墓地に入ってみると、昭和二年と書かれた燈籠などもなどもあるが、何よりそこから眺める本堂の大屋根の美しさがたまらない。
扇を描いた見事な鬼瓦、そこから前後に伸びる両翼は優雅な曲線を作り出していて鳥の羽ばたきにも似ている。
扇面は、同寺の定紋に対する裏の紋ともいうべきもので、これは本堂屋根の大棟にも浮き出ていて印象的である。
本堂の左手は庫裏だが、その横にはひかり保育園があって、園児たちの明るい笑顔や歌声の震源地となっている。
また、山門のそばに建つ大きな石碑は、幕末から明治にかけての下関の教育界に鮮明な足跡を残した広井良図の顕彰碑である。
しかし、ところどころ損傷したりして極めて読みにくい。
良図は清末藩士で、萩明倫館や清末育英館の舎頭をつとめたほどの人物。
明治時代には現在の下関商高、豊浦高校などで教鞭をとり、西細江に硯湾学舎という私塾を開いたりした。
だが、こうして読めなくなった顕彰碑の前に立ってみると、今度はその脇に解説碑を建てなければならなくのではないかと思えてくる。
ところで光明寺といえば、少し幕末の事に詳しい人なら大抵思い出すのが、光明寺党であろう。
久坂玄瑞以下六十余名の有志隊で、文久三年五月の攘夷決行では先頭に立って外艦を砲撃した。
彼らはやがて高杉晋作の奇兵隊にその大半が包含されることになるが、急進的公家である中山忠光卿は光明寺党の志士たちを大変好もしく思っていたようで、狐狩りの獲物をさげて同寺に行き召し上がられたと白石正一郎も日記に書いている。
光明寺を出て大通りに出ると国道9号線だ。
この辺りは戦前には「山陽の浜」と呼ばれる下関第一の繁華街があった。
アセチレンガスとバラナの叩き売りがここの名物でもあった。
下関では今でもバナナをバラナと呼ぶ老人が多い。
この国道沿いにある労働会館は昔の山陽百貨店で昭和七年に出来た鉄筋コンクリートの六階建てデパートは当時の下関の自慢であった。
その隣は下関警察署で、かつては下関駅の真ん前に位置して、大いに睨みをきかしていた。
旧下関駅はこの警察署と文化会館の間の海より真正面にあった。
東海道から続く山陽本線のレールはこの駅で波型に曲げられ、本州の最端であることを示していた。
この駅前の古ぼけたビルは明治三十六年五月に我が国の鉄道ホテル第一号として開業した山陽ホテルで、大正十三年に再建されたものである。
九州や大陸への橋渡しとして、このホテルはほとんどの有名人が宿泊した。
ベーブルースも、ヘレンケラーもここに泊まったと、古い馬関っ子たちは自慢するが、この旧山陽ホテルの真正面、つまり警察署の南側にも、当時の駅前旅館がそのままの形で残っている。
木造三階建のこの宿には、今でも郷愁を抱く人が多いという。
歌舞伎座の玄関を思わせるような佇まいを、じっと眺めていると、この旧浜吉旅館と旧山陽ホテルの相対する二つの宿は、いつまでも残して欲しいものと思わずにはいられない。
冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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