彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
高杉東行像と崑崙丸碑
高杉東行像と崑崙丸碑
日和山公園の中央に大きく聳え立っているのは、長府の功山寺に挙兵して長州の藩論を覆し明治維新を早める動機を作り出してくれた東行高杉晋作の像である。
高杉は萩藩士だが、下関で奇兵隊を結成して以来、古い因習に苛まれることの少ないこの商業と港の町の底抜けな明るさに魅せられたのか。その晩年を下関とともに生きた。
だから、決起を前に書き残した手紙にも「死して赤間関の鬼となり、赤間関の鎮主とならん」という意味の字句がある。
高杉の像は、昭和十一年に銅像として建てられたが戦時中に供出され、現在のものは戦後、備前焼で復元された像、つまり陶像である。
作者は伊勢陽山、かつて銅像が建っていた台座に昭和三十一年四月に据えられた。
その台座に刻まれた「高杉晋作像」という字は昭和のお殿様である毛利元昭の書だから、感激家の東行、地下で感涙にむせびつづけていることだろう。
この像の脇には大きな石文がある。
上下二段に区切って、上には高杉の詩が、そして下には野村望東尼の歌が刻まれ、二人の絆が思い出される。
まず高杉の詩は、元治元年大庭伝七に宛てた手紙の中にある憤怒の叫びである。
売国囚君無不至 捨生取義是斯辰
天祥高説成功略 欲学二人作一人
国を売り君を囚え至らざるなし
生を捨て義を取るはこれこのとき
天祥の高説 成功の略
二人を学んで一人とならんと欲す
この場合の天祥は文天祥、成功は鄭成功で、二人とも中国の忠臣である。
これは、俗論党の天下を憂えて怒り心頭の末に書いた詩だが、このとき、高杉はすでに死を覚悟していて、自分の墓碑銘や借財の返済などを頼み「陣中で楽しむために頼山陽の筆による小屏風を盗んできたが許してくれ」という意味のことまで書いている。
石文の下の段は野村望東尼の歌で、これは高杉が俗論党の手を逃れて福岡平尾山荘の望東尼にかくまわれている間に長州藩では三家老と四参謀が処刑され、それを聞いた高杉が蜂起を決意して下関に帰る際に着物と一緒に贈ったものである。
谷梅ぬしの故郷に帰り給ひけるに
形見として夜もすがら
旅衣を縫ひて贈りける
まごころを つくしのきぬは 国のため
たちかへるべき 衣手にせよ
谷梅ぬし、というのは高杉の変名で、谷梅之助といっていたからである。
ところで、望東尼は、高杉をかくまった罪により大分の姫島に流されるが、それを聞いた高杉は直ちに牢破りをして救出し白石正一郎の屋敷に保護する。
この石文のそばに黒っぽい石が三つ並んでいて「野村望東尼ゆかりの石、姫島産」とか「姫島石」などと刻まれているのはそんな経緯があるからだ。
結局高杉は明治維新を待たずして慶応三年四月十四日、満二十七歳八ヶ月の若さで永眠するが、そのときの辞世も上の句を読んだところで力尽きてしまったため、望東尼が続けたのであった。
おもしろきことも無き世を面白く
すみなすものは心なりけり
さて、高杉晋作像の東側には「重村禎介、吉村藤舟両先覚顕彰碑」という立派な碑が建っている。
こうした人々の事跡を顕彰し後世に遺してやることは大変結構だ。
だが、ぶらたん氏、いささか物足りない。
この種の顕彰碑とか頌徳碑などは大抵、その人の名前と建設発起人などの団体名が刻まれているのにすぎないからだ。
これではあまりにも不親切ではないだろうか。
何も多く書く必要はない。
例えばこの顕彰碑であれば裏面に、
重山 下関二千年史 編著
吉村 下関郷土物語二十冊 編者
だけでも彫り加えてあれば、碑の前に佇む人々も納得するだろう。
ただ、褒め称えるだけで多額の金を費やす訳ではないはずで、その人の成し遂げた功績を書き残すのが目的なら、名前よりもむしろその足跡を大きく刻んで良いくらいだ。
旅の途中に立ち寄った寺院や公園などで、知らない人の銅像や頌徳碑の前に立ったとき、この人を知らないのはお前の責任だと、いつもぶらたん氏、叱られる気持ちに襲われる。
高杉晋作像の前の石段を降りたところにある灯篭はなかなか立派なものだが、「つかずの灯篭」と呼ばれている。
約百二十年くらい前、つまり幕末の頃には壇ノ浦の海岸に建っていた灯明台であるが、長府藩報国隊が貴船町の招魂場に移そうとして事件が起こった。
それを運搬する際に、裏町の吉信という料理屋の格子にぶっつかり、かなり家を傷めたため吉信の主人が何か言おうとしたところを、報国隊士が勢いに乗じて斬ってしまった。
その吉信の主人の霊が乗り移ったためか、この灯篭はいくら火をつけてもすぐに消えるので隊士たちも気味悪がって路傍にうち捨てていたという。
それが昭和十一年に高杉像が出来た時、ここに移されたのである。
つかずの灯篭が建っている公園広場の南側の出っぱなに、「崑崙丸慰霊碑」がある。
関釜連絡船については先に「鉄道桟橋跡」の項で簡単ながらも触れたので、ここでは慰霊の碑文を読むだけにとどめよう。
関釜連絡船、崑崙丸七千八百総屯は太平洋戦争最中昭和十八年十月四日二十二時五分、下関鉄道桟橋を出港し釜山に向け航行中、翌五日一時二十分、沖島北東十海里の地点にて潜水艦の魚雷攻撃を受け一瞬にして沈没、乗組員二十四名、船内警察官三名、税関史二名、海軍警備兵二名、乗客四百五十一名は船と運命を共にし悲壮な最期を遂ぐ。
ここに有志一同の芳志により、かっての関釜航路の基地、下関港を見下ろす日和山公園に碑を建て、これら犠牲者の冥福を衷心より祈り、併せて永遠の平和を希う。
このそばに長い石段が下っているが、本当はこれが日和山の正面階段である。
冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
日和山公園の中央に大きく聳え立っているのは、長府の功山寺に挙兵して長州の藩論を覆し明治維新を早める動機を作り出してくれた東行高杉晋作の像である。
高杉は萩藩士だが、下関で奇兵隊を結成して以来、古い因習に苛まれることの少ないこの商業と港の町の底抜けな明るさに魅せられたのか。その晩年を下関とともに生きた。
だから、決起を前に書き残した手紙にも「死して赤間関の鬼となり、赤間関の鎮主とならん」という意味の字句がある。
高杉の像は、昭和十一年に銅像として建てられたが戦時中に供出され、現在のものは戦後、備前焼で復元された像、つまり陶像である。
作者は伊勢陽山、かつて銅像が建っていた台座に昭和三十一年四月に据えられた。
その台座に刻まれた「高杉晋作像」という字は昭和のお殿様である毛利元昭の書だから、感激家の東行、地下で感涙にむせびつづけていることだろう。
この像の脇には大きな石文がある。
上下二段に区切って、上には高杉の詩が、そして下には野村望東尼の歌が刻まれ、二人の絆が思い出される。
まず高杉の詩は、元治元年大庭伝七に宛てた手紙の中にある憤怒の叫びである。
売国囚君無不至 捨生取義是斯辰
天祥高説成功略 欲学二人作一人
国を売り君を囚え至らざるなし
生を捨て義を取るはこれこのとき
天祥の高説 成功の略
二人を学んで一人とならんと欲す
この場合の天祥は文天祥、成功は鄭成功で、二人とも中国の忠臣である。
これは、俗論党の天下を憂えて怒り心頭の末に書いた詩だが、このとき、高杉はすでに死を覚悟していて、自分の墓碑銘や借財の返済などを頼み「陣中で楽しむために頼山陽の筆による小屏風を盗んできたが許してくれ」という意味のことまで書いている。
石文の下の段は野村望東尼の歌で、これは高杉が俗論党の手を逃れて福岡平尾山荘の望東尼にかくまわれている間に長州藩では三家老と四参謀が処刑され、それを聞いた高杉が蜂起を決意して下関に帰る際に着物と一緒に贈ったものである。
谷梅ぬしの故郷に帰り給ひけるに
形見として夜もすがら
旅衣を縫ひて贈りける
まごころを つくしのきぬは 国のため
たちかへるべき 衣手にせよ
谷梅ぬし、というのは高杉の変名で、谷梅之助といっていたからである。
ところで、望東尼は、高杉をかくまった罪により大分の姫島に流されるが、それを聞いた高杉は直ちに牢破りをして救出し白石正一郎の屋敷に保護する。
この石文のそばに黒っぽい石が三つ並んでいて「野村望東尼ゆかりの石、姫島産」とか「姫島石」などと刻まれているのはそんな経緯があるからだ。
結局高杉は明治維新を待たずして慶応三年四月十四日、満二十七歳八ヶ月の若さで永眠するが、そのときの辞世も上の句を読んだところで力尽きてしまったため、望東尼が続けたのであった。
おもしろきことも無き世を面白く
すみなすものは心なりけり
さて、高杉晋作像の東側には「重村禎介、吉村藤舟両先覚顕彰碑」という立派な碑が建っている。
こうした人々の事跡を顕彰し後世に遺してやることは大変結構だ。
だが、ぶらたん氏、いささか物足りない。
この種の顕彰碑とか頌徳碑などは大抵、その人の名前と建設発起人などの団体名が刻まれているのにすぎないからだ。
これではあまりにも不親切ではないだろうか。
何も多く書く必要はない。
例えばこの顕彰碑であれば裏面に、
重山 下関二千年史 編著
吉村 下関郷土物語二十冊 編者
だけでも彫り加えてあれば、碑の前に佇む人々も納得するだろう。
ただ、褒め称えるだけで多額の金を費やす訳ではないはずで、その人の成し遂げた功績を書き残すのが目的なら、名前よりもむしろその足跡を大きく刻んで良いくらいだ。
旅の途中に立ち寄った寺院や公園などで、知らない人の銅像や頌徳碑の前に立ったとき、この人を知らないのはお前の責任だと、いつもぶらたん氏、叱られる気持ちに襲われる。
高杉晋作像の前の石段を降りたところにある灯篭はなかなか立派なものだが、「つかずの灯篭」と呼ばれている。
約百二十年くらい前、つまり幕末の頃には壇ノ浦の海岸に建っていた灯明台であるが、長府藩報国隊が貴船町の招魂場に移そうとして事件が起こった。
それを運搬する際に、裏町の吉信という料理屋の格子にぶっつかり、かなり家を傷めたため吉信の主人が何か言おうとしたところを、報国隊士が勢いに乗じて斬ってしまった。
その吉信の主人の霊が乗り移ったためか、この灯篭はいくら火をつけてもすぐに消えるので隊士たちも気味悪がって路傍にうち捨てていたという。
それが昭和十一年に高杉像が出来た時、ここに移されたのである。
つかずの灯篭が建っている公園広場の南側の出っぱなに、「崑崙丸慰霊碑」がある。
関釜連絡船については先に「鉄道桟橋跡」の項で簡単ながらも触れたので、ここでは慰霊の碑文を読むだけにとどめよう。
関釜連絡船、崑崙丸七千八百総屯は太平洋戦争最中昭和十八年十月四日二十二時五分、下関鉄道桟橋を出港し釜山に向け航行中、翌五日一時二十分、沖島北東十海里の地点にて潜水艦の魚雷攻撃を受け一瞬にして沈没、乗組員二十四名、船内警察官三名、税関史二名、海軍警備兵二名、乗客四百五十一名は船と運命を共にし悲壮な最期を遂ぐ。
ここに有志一同の芳志により、かっての関釜航路の基地、下関港を見下ろす日和山公園に碑を建て、これら犠牲者の冥福を衷心より祈り、併せて永遠の平和を希う。
このそばに長い石段が下っているが、本当はこれが日和山の正面階段である。
冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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