07 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

航送船の碑 

航送船の碑

フェニックスが生い茂る三角緑地には「ふく笛」をあしらった歓迎塔に「おいでませ」の文字が旅人を待っている。
フク笛は下関を代表するユーモラスな郷土玩具だから、これは駅前にふさわしい。
しかし「おいでませ」というのは「山口ことば」として広く宣伝されてはいても、ここ下関で使う人はまずいない。
むしろ「おいでなんせえ」とか「よう来ちゃったのう」などと書くべきだろう。
そんなことを考えながら散歩の足を進めてみよう。

緑地の横を国道が走っていて下関郵便局あたりから山口銀行近くへかけて。いつも車が渋滞している。
四十年ごろまで、ここには山陽本線の踏切があった。
列車の通過で一度び閉まると、なかなか開かなくて通行人はイライラしながら踏切警手の手旗を見つめていた。

その踏切の少し駅より、専門大店とサンデン営業所のあたりであったろうか、ここには国鉄の機関区があった。
旧下関駅に入ってくるSLたちは、この円型工場で整備点検され、元気一杯、山陽本線、山陰本線をひた走った。
そして、機関区といえば野球で鳴らした関鉄を思い出す人も多い。
関鉄は正式には下関鉄道管理局で、大洋漁業、全下関などのノンプロ球団とともに活躍し、中等野球の下関商業と並んで熱狂的なファンを集めていた。

機関区の少し南側は海であった。
このあたりの地形は度重なる埋め立てにより、人々の記憶もその年代によって異なる。

ここには、ついこの間まで鉄道病院があったが、今は下関駅のブラットフォーム寄りに移っている。
「シーモール」という大規模商店街が建設されるために立ち退いたものだが、その旧鉄道病院の玄関脇に建っていた「準鉄道記念物・車両航送発祥の地」の大きな石碑も一緒に片付けられてしまった。

下関駅の話によれば、この記念碑の位置だけは変えるわけにゆかないので、シーモールが完成した暁には、元の場所に建てることになっているとか。

さて「車両航送」というのは、貨物航送船、関門航送船、あるいは外輪船などと呼ばれ親しまれた関門海峡の風物詩のことである。
まず、碑面の説明文を読んでみよう。

「本州・九州間の国鉄貨物輸送に大変革をもたらした貨車航送は、下関・小森江間の航送作業を請け負った宮本高次が明治四十四年三月一日から試航送を行い同年十月一日鉄道院はこの航路を関森航路として正式に営業を開始しました。
宮本高次は、かねてから貨車航送について深い関心を寄せ航送作業を請け負うに当たり私財を投じて七トン貨車三両を積載する艀三隻とこれを曳航する小発蒸気汽船三隻を建造し当時の困難な海陸連絡輸送を打開しました。
この貨車航送は我が国の車両航送のはじまりであり、当時の下関側発着場がこの地点です。

現在、日本はフェリー時代を迎えているが、これは今から約七十年前も前の画期的な事業であった。
それまでの本州から九州への貨物輸送は、下関で貨車からおろした荷物がほとんど人力によって艀に移された。
艀は小さな蒸気船に引っ張られ門司に渡り、そこで再び人力によって貨車に積み込まれるというこの繰り返しであった。
それを一挙に解消したのが、我が国におけるフェリーの第一号、関門貨車航送船である。

この船は、前にも書いたように外輪船とも呼ばれ、船体の両側に約五メートルに近い大きな水車を取り付けて、それを回して操船する珍しい船…。
だから旅人の多くは、まるでミシシッピー川を下る映画の風景がそこに現出した気がして、しばし岸壁に佇んだものであった。

それが関門トンネルが開通したために昭和十七年に姿を消し、戦後二十五年に自動車航送船として再び活躍することになったものの、さらに関門国道トンネル開通の三十三年、時代の波に勝つことはできず、ついに海峡から姿を消してしまった。
関門民芸会の佐藤治氏は、それを惜しんで次のように詩っている。

この船は私たちの郷愁であった
この船は海峡のシンボルであった
どうしてもこの海峡におきたかった船


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
関連記事

Posted on 2019/09/28 Sat. 10:48 [edit]

category: ぶらたん

TB: --    CM: 0

28

コメント

Comment
list

コメントの投稿

Secret

Comment
form