彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
下関駅と壁画
下関駅と壁画
駅はその町の顔。
駅はその土地の玄関だという。
とすれば下関駅は、下関の顔であり、そして玄関でもある。
他に一ノ宮地区には山陽新幹線の新下関駅もあるが、ここは在来線の下関駅について書こう。
山陽本線の前身、山陽鉄道が厚狭から赤間関市まで全線開通したのは明治三十四年五月で、その時、赤間関駅も同時に開業した。
それは、まもなく下関駅と改めることになるが、今の西細江の海岸沿いに門司港駅によく似た駅舎が建っていた。
わが国最初の展望車付きの特急列車もこの駅を基点として走り、関門連絡船や関釜航路の乗客もこの駅に足跡を残した。
下関駅は本州最西端の終着駅であると同時に九州への橋渡しと、大陸への玄関口として華やかな四十余年を過ごした訳であった。
その下関駅が西細江から現在地に移ったのは関門鉄道トンネル開通の昭和十七年秋。
そして駅移転の日から下関駅は「新駅」、西細江の跡地は「旧駅」とそれぞれ呼び分けられることになる。
海底トンネルは、下関・門司間を西日本における電化第一号で結んだ。
だから人々は電気機関車のピーッと鳴らす警笛を珍しがって、わざわざその音を聞きに出かけたものであった。
また新駅は、戦時中の完工にもかかわらず構内の主要な箇所はもとより、ホームの洗面所や便所にまで大理石をふんだんに使って話題をまいた。
さらに豪華な一、二等待合室と広大な三等待合室はこの駅の自慢でもあった。
今、下関駅の中央部にある名店街は、三等待合室の約七十パーセントをつぶして充てたものである。
一、二等待合室も当時に比べればいくらか狭くなっているが、ここには大きな壁画があった。
確か大東亜共栄圏を描いた地図であったような気がするが、今ではそれを見ることはできない。
壁画といえば、駅の日本食堂に関門トンネル掘削工事のたくましい絵がある。
縦約二メートル、横約一メートル五十で、あまり大きくはないが、おでん売り場の湯気に当てられながら食堂のお客を見下ろしている。
素掘りのトンネル内で膝をついて、削岩機を操る工夫と、つるはしを握った二人の男、それにおそらくこれもドリルを使っている後ろ向きの二人の力強い姿が壁に浮き出ている。
トンネル工事は昭和十一年九月の起工で十四年四月に豆トンネルが貫通し、十六年七月には本トンネルが通じた。
そして公式に運転営業を開始したのは十七年十一月十五日であった。
しかし、その時はまだ単線で、そのまま工事を続けて複線になったのは十八年十二月三十日だが、起工から約四年八ヶ月の間に延べ三百四十七万人作業員が従事し、三十四人の殉職者がでた。
その慰霊碑は彦島の関門トンネル入り口に立てられているが、シーズンには河豚刺しが食べられると評判の日食の壁画を鑑賞しながら当時の難工事に想いを馳せるのも意義がある。
また、この絵の右側にもかなり大きな壁画があったと記憶するのだが、二、三の日食従業員に訊ねても覚えていないという。
冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
駅はその町の顔。
駅はその土地の玄関だという。
とすれば下関駅は、下関の顔であり、そして玄関でもある。
他に一ノ宮地区には山陽新幹線の新下関駅もあるが、ここは在来線の下関駅について書こう。
山陽本線の前身、山陽鉄道が厚狭から赤間関市まで全線開通したのは明治三十四年五月で、その時、赤間関駅も同時に開業した。
それは、まもなく下関駅と改めることになるが、今の西細江の海岸沿いに門司港駅によく似た駅舎が建っていた。
わが国最初の展望車付きの特急列車もこの駅を基点として走り、関門連絡船や関釜航路の乗客もこの駅に足跡を残した。
下関駅は本州最西端の終着駅であると同時に九州への橋渡しと、大陸への玄関口として華やかな四十余年を過ごした訳であった。
その下関駅が西細江から現在地に移ったのは関門鉄道トンネル開通の昭和十七年秋。
そして駅移転の日から下関駅は「新駅」、西細江の跡地は「旧駅」とそれぞれ呼び分けられることになる。
海底トンネルは、下関・門司間を西日本における電化第一号で結んだ。
だから人々は電気機関車のピーッと鳴らす警笛を珍しがって、わざわざその音を聞きに出かけたものであった。
また新駅は、戦時中の完工にもかかわらず構内の主要な箇所はもとより、ホームの洗面所や便所にまで大理石をふんだんに使って話題をまいた。
さらに豪華な一、二等待合室と広大な三等待合室はこの駅の自慢でもあった。
今、下関駅の中央部にある名店街は、三等待合室の約七十パーセントをつぶして充てたものである。
一、二等待合室も当時に比べればいくらか狭くなっているが、ここには大きな壁画があった。
確か大東亜共栄圏を描いた地図であったような気がするが、今ではそれを見ることはできない。
壁画といえば、駅の日本食堂に関門トンネル掘削工事のたくましい絵がある。
縦約二メートル、横約一メートル五十で、あまり大きくはないが、おでん売り場の湯気に当てられながら食堂のお客を見下ろしている。
素掘りのトンネル内で膝をついて、削岩機を操る工夫と、つるはしを握った二人の男、それにおそらくこれもドリルを使っている後ろ向きの二人の力強い姿が壁に浮き出ている。
トンネル工事は昭和十一年九月の起工で十四年四月に豆トンネルが貫通し、十六年七月には本トンネルが通じた。
そして公式に運転営業を開始したのは十七年十一月十五日であった。
しかし、その時はまだ単線で、そのまま工事を続けて複線になったのは十八年十二月三十日だが、起工から約四年八ヶ月の間に延べ三百四十七万人作業員が従事し、三十四人の殉職者がでた。
その慰霊碑は彦島の関門トンネル入り口に立てられているが、シーズンには河豚刺しが食べられると評判の日食の壁画を鑑賞しながら当時の難工事に想いを馳せるのも意義がある。
また、この絵の右側にもかなり大きな壁画があったと記憶するのだが、二、三の日食従業員に訊ねても覚えていないという。
冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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