彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
馬関港開港
馬関港開港
1864年8月8日、下関戦争で惨敗を喫した長州藩は、講和使節の使者に高杉晋作を任じた。
この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていたが、家老宍戸備前の養子宍戸刑部を名乗り、四国連合艦隊のユーライアラス号に乗り込んでキューパー司令官との談判に臨んだ。
イギリス側通訳のアーネスト・サトウはこの時の高杉の様子を「非常に傲然としていたが、出された要求は何の反対もせずに全て受け入れた。」と述べている。
講和の開始から10日後の8月18日、下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立した。
この講和が成立したことにより、外国船舶の下関海峡(現・関門海峡)自由通行、船員の上陸許可、外国船への必需品の販売が行われるようになったことから、馬関港は事実上開港した。
1864年8月8日、下関戦争で惨敗を喫した長州藩は、講和使節の使者に高杉晋作を任じた。
この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていたが、家老宍戸備前の養子宍戸刑部を名乗り、四国連合艦隊のユーライアラス号に乗り込んでキューパー司令官との談判に臨んだ。
イギリス側通訳のアーネスト・サトウはこの時の高杉の様子を「非常に傲然としていたが、出された要求は何の反対もせずに全て受け入れた。」と述べている。
講和の開始から10日後の8月18日、下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立した。
この講和が成立したことにより、外国船舶の下関海峡(現・関門海峡)自由通行、船員の上陸許可、外国船への必需品の販売が行われるようになったことから、馬関港は事実上開港した。
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