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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

和布刈祭 

和布刈祭


長門一の宮住吉神社では、旧正月の一月一日に、壇の浦の海岸で和布刈神事を行います。

住吉神社で営まれるおまつりの中では、大切なおまつりの一つで、昔からこのおまつりは秘密になっていましたので、いろいろな言伝えがあります。

わかめを刈る時期は、子の刻すぎから丑の刻の間とされていますが、神事がはじまる三十分前までは、波は渦巻き荒れ狂い、いよいよわかめを刈りに入ると不思議に波はおさまって、潮は左右に開き、二十段の石段があらわれます。
神官は宮殿の宝剣を胸にあて、松明をともし、その石段を降りて一握りの“わかめ”を一鎌だけ刈って陸にあがる。
と、たちまち左右に開いていた潮がもとのように合流し、海上は荒れに荒れるといいます。
もし、そのとき一鎌でなく、二鎌刈れば、みるみるうちに左右の潮にはさまれて溺れるといわれています。

では、実際の神事はどうなのでしょう。“下関民俗歳時記”をみてみましょう。

この和布刈祭のおこりは、住吉神社がおかれたとき、神功皇后のおことばによって、践立の命が、壇の浦のわかめをとって、元旦のお供え物にしたことからはじまるといわれます。

その様子は、大宮司、神官二人、氏子六人が定められたしたくで、その朝につかれたお餅を持ち、神鉾を先頭に松明を連ねて壇の浦に行きます。
松明はオダケとメダケを割ったものをまぜて束ねたもので、二人で担ぐくらいに太くて長いものです。
壇の浦へは、和布刈道という昔からの特別な道を通りますが、長年の間に、土地の様子が変り、小道になったり、あるいは畦道となったところもあり、しかも、帰りは行くときと違った道を通らなければならない掟があって、往復にたいへん苦心します。

壇の浦へ着くと、火立岩に注連縄を張り巡らし、かがり火をたいて、持参したお餅を供え、神事を営みます。
やがてしたくを整え海に入り和布を刈ります。
これが終わると、すぐさま別に用意した草鞋にはきかえ、再び松明の行列をつくって住吉神社へ帰ります。
そして新年のわかめは、神殿に供えられ祭典がおこなわれます。

儀式が終わった後の和布は、むかしは朝廷に、中世になると大内氏や毛利氏などの武将へ贈ったといわれますが、いまでは参拝者に分け与えられます。


厳かな儀式なので、この和布刈祭は次のような、してはいけないことがあります。

一 和布刈祭のお供をしたものは、この神事のありさまを絶対人に言ってはいけない。

二 一般の人は、この行列の火を絶対に見てはいけない。そのため和布刈祭の夜は早くから戸を閉めて寝ることになっている。もちろん、この夜の外出はしてはならないが、事情によってどうしても外出し行列の火を見た場合は、すぐさま物陰に隠れ、行列の方は絶対見ないようにしなければならない。もし見たときはめくらになるといわれる。

三 壇の浦の漁夫たちは、和布刈祭がすむまでは、和布をとって売ってはならないとかたく戒められている。しかし長年の間には、漁夫の生活上、この戒めも破らねばならないこともあり、そうした場合には、これを和布といわず、とくに「名いわず」といって売り歩いたといわれる。

四 この地方には、その日ついた餅は、焼いて食べてはならないという戒めがあるが、これは祭事の中にその日についた餅を焼いて食べる行事があるところからきたものである。


この日、住吉神社はたくさんのおまいりの人で賑わいます。
境内から参道へかけて、物売りの店が並び、とくに農具、苗木の市は有名です。


(注)
門司の和布刈神社でも同じ日に、和布刈祭を行いますが、このほうは住吉神社のように、してはいけないことを別にあげてはいません。
むしろ多くの人々に見せるための観光的な行事になっています。
それに対し、下関の住吉神社では、今でも秘密の神事としてのしきたりを守り、和布を刈る行事などは、人に見せないようにしています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/07/31 Fri. 10:26 [edit]

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つかずのとうろう 

つかずのとうろう


明治時代に入る少し前の話ですから、慶応年間のできごとです。

当時馬関には、倒幕運動が盛んで、隊士がたくさんきていました。
その中に報国隊(長府藩でつくった)の隊士もいましたが、みな元気がありすぎるくらいでした。
奇兵隊が桜山に招魂場をつくったのにならい、報国隊も豊町に招魂場をつくることになりました。
そこで阿弥陀寺町にあった燈籠を豊町に運ぼうとしました。

燈籠を横にして大八車に乗せ、外浜町(今の中之町)から赤間町をとおり裏町(今の赤間町)の曲がり角を過ぎたとき、力を出しすぎて大八車を料理屋「吉信」の表戸にぶっつけてしまいました。
隊士たちは酒に酔っていたので、詫びもしないでそのまま車を走らせようとしました。
そこで怒ったのが、料理屋の主人吉信で、表へ飛び出て大声をはりあげ、
「人の家に車をぶっつけておいて、だまっていくものがあるか、わびの一つくらい言ったらどうだ、このごくつぶしめ」
と怒鳴ったから大変。
「なにを、このとうへんぼく」
と、やにわに車を止め、主人を無理やり燈籠一緒にくくりつけました。
車はどんどん奥小路(今の幸町)を越えて走ります。
さすがに気の強い主人も恐ろしくなり、
「助けてくれ、お願いだ」
と叫びましたが、なにしろ隊士は酒によって、むちゃくちゃに車を走らせます。

道を行く人も助けるどころか、ただ車をよけるのがせいいっぱいでした。
それでも吉信は必死になって縄をほどき、車から田んぼの中に転がり落ちて逃げ出しました。

それを見た隊士は、逃がしてなるものかと追いかけ、そのうちの一人が後から一刀のもとに切り殺してしまいました。
しかしその隊士の刀は、まるで固い石か鉄でも切ったかのように真中からポキッと折れてしまいました。
それからまた車を走らせ、豊町の清水坂に運び、そこの牡丹畠に燈籠をたてました。

ところが、その後燈籠にいくら火をつけてもフッとかき消され、そればかりか、あたりにはゾッと鬼気がみなぎりました。

それはまさしく無念の死に方をした主人の亡霊のせいだといわれ、いつしかこの燈籠のことを“つかずの燈籠”とよぶようになりました。


(注)
この燈籠にまつわる話は、ほかにもあります。

燈籠はもともと春帆楼の下、魚安の近くにたっていたもので、観音崎の問屋長府屋長左衛門(長々といった)が供養のために建てたものらしいといわれています。
それは長々がある暴風雨の朝、岸に打ち上げられた男を助け起こしてみると手にずっしりと重い財布を握っていました。
長々はそのころ商売がうまくいかず、お金の心配ばかりはていたので、天の恵みとばかりに、とろうとしましたが、硬くなっている手からなかなかはなれない。そこで長々は
「すまぬがこの金を貸してくれ、そうすれば、必ず世の人のために恩返しをするから」
といったところ、スルスルと財布がとれました。
長々は、おかげで三百両の借金を払い、商売もうまくいって大変繁盛していました。そして約束したとおり、供養のためにあちらこちらに燈籠を寄進しましたが、そのうちの一つがこの燈籠らしいのです。

昭和八年、日和山に高杉晋作の銅像が建てられたとき、長い間、牡丹畠に置かれていた“つかずの燈籠”も晋作像の向かって右下に建てられ、盛大な供養祭とともに、点灯式が行われました。

料理屋吉信の家はも本行寺の二、三軒奥小路よりにありましたが、吉信のあと新しく料理屋を始めた夫婦が、毎晩位階の寝室の枕元に高足駄をはいた吉信が行き来するのに悩まされ、ついに店を閉じたということです。

それにしても、今は日和山公園にあるこの燈籠は、下関にある燈籠のなかでは一番大きいものでしょう。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/07/30 Thu. 09:52 [edit]

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初寅 

初寅


毎年、年の初めの初寅にあたる日は、長府四王司山の毘沙門天まいりに前日の夜から大勢の人がおまいりします。

この毘沙門天は、貞観九年、清和天皇の仰せにより五体を作り、これを因幡、伯耆、出雲、石見、長門の五つの国へ一体ずつくばられ、外国からの襲撃を守り、国の平和を祈るために、遠く西の国を望むことのできる高い山におかれました。

長府四王司山の毘沙門天は、そのうちの一つでしたが、そののち厚東氏が、この山で戦争をはじめたとき、毘沙門天の焼失することを恐れて、王司村河内の里へ移されました。
やがて厚東氏もほろびて戦争は終わりましたが、毘沙門天は、もとのまま、山里におかれていました。


ある日のことでした。
里の久兵衛という年寄りが、息子夫婦と仲が悪く、いつもけんかばかりしているので、どうにかして、なごやかな家庭をつくりたいと、この毘沙門天に願をかけにきました。
久兵衛は、願をかけおわって社の石段に腰をかけ、緑の葉陰から射してくる日差しをあびながら、いい気持ちでいねむりをはじめました。

すると、その久兵衛の夢枕に、あのいかつい顔をした毘沙門天が現われ、
「久兵衛、お前の願いはききとどけてやろう。そのかわり、わしの願いも里人に伝えてくれ。わしが、四王司山頂から里におりてもうかなりの日数になる。せめて、毎年、正月初寅の日には、四王司山頂のふるさとへ旅させてくれよ」
と、いい終わるや、スーっと消えていきました。

久兵衛はさっそく里人を集めて、毘沙門天のおつげを伝え、そのあくる年の正月、初寅の日には、像を山頂に移し、お祭をしました。
もちろん久兵衛の願いは、ききとどけられたのか、いつまでも明るい平和な家庭を営み続けることができました。


こうしたこともあってから、毎年正月、初寅の日には、盛大なお祭が四王司山頂で行われるようになり、いつのころからか、毘沙門天は、武運長久、開運勝利、福徳円満の神さまとして、みんなの信仰をあつめ、初寅のひには、下関市内はもちろん、九州や山口県下からたくさんの人が、おまいりするようになりました。

(注)
初寅まいりは、三年続けておまいりすると大きいご利益があるといわれています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/07/29 Wed. 11:51 [edit]

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干る珠・満ちる珠 

干る珠・満ちる珠


長府の沖に浮かぶ、美しい二つの島も、神功皇后さまにゆかりがあります。

神功皇后さまが神様のおつげで三韓征伐をされることになり、長府に豊浦の宮をおかれ、いろいろと作戦をねったり、準備をすすめました。

三韓は遠い国です。皇后さまは、天地のあらゆる神さまに、お力添えとおまもりをお願いしました。
もちろん海の神さまである龍神にも海路の無事と戦の勝利を願われました。
ちょうど満願の日です。それまで、おぼろ月のしたに静まりかえっていた瀬戸の海が、にわかに潮鳴りをおこし、渦を巻いてたけ狂いはじめました。そのどよめきの中から、
「皇后さま、皇后さま、わたしは瀬戸に住む住吉明神の化身でございます」
と呼ぶ声、皇后さまの耳に聞こえてきました。
みると、一番大きな渦の中に、白いひげを潮風になびかせながら、住吉明神が立っていました。そして、
「三韓はいずれも強い国です。ぜひ龍神のおたすけをかりなさい。それには、安曇の磯良という者を召されて、これを使者として、干珠・満珠の二つの珠をかりうけられ、そのご神徳によって戦を勝利にすすめられるがよいでしょう」
と、おつげになりました。

そこで皇后さまは、この海岸に住む安曇の磯良という若者を召して、龍神のもとに使わされ、二つの珠を借り受けてこさせました。

いよいよ新羅の大軍が攻めてきましたが、皇后さまは、まず潮干る珠を沖の方へ投げられました。
すると、見る間に潮が引いていって海底があらわれましたので、しかたなく新羅の軍隊は船を降りて海底を歩いて攻め寄せてきましたが、もう少しで陸へ上がろうとという時、こんどは潮満つ珠を岸の近くに投げられると、たちまちまた潮が満ちてきて、新羅の軍隊はおぼれてしまいました。

そののち、皇后さまは、軍船をととのえて、いよいよ三韓へわたり、敵を打ち破り、やがて皇后さまの軍船はいさましく長門の海に凱旋してきました。


皇后さまは、干珠・満珠のあらたかな徳をたたえられ、それをもとの龍神におかえしになるに先立って、お祝いの儀式をとりおこないました。

その日は、軍船が幾組みも組をつくって、壇の浦から長門にかけて、にぎやかなまつりの行事をくりひろげました。
そして、その先頭のひときわ大きい軍船から、皇后さまは、声を高くして、
「わたくしたちが、このたびのいくさに勝利をおさめ、ここにめでたく凱旋できたのは、みなの勇敢な働きによるものであることは申すまでもない。しかし、それにもまして、龍神より借り受けたこの干珠と満珠の二つの珠のご神徳である。いまここに、お礼を申すとともに、この珠をお返ししたいと思う」
と、おつげになり、静かに二つの珠を海に沈められました。
つわものたちも軍船の上から、二つの珠が沈められた海のあたりを、深い感謝の心をこめて、いつまでもふり返りふり返り見守っていました。

すると、二つの珠が沈められたあたりの海の上に、見るもあざやかな美しい緑の島が、ふたつぼっかりと浮かび上がってきたのです。

この不思議な出来事に、皇后さまをはじめ、つわものたちは感動の目をもって眺め入りました。皇后さまは、
「みなのもの、龍神はいまこの海に二つの島をつくりたまわれた。永遠に長門の浦を鎮めたまうのである。この平和の波はいつまでも干珠・満珠の岸を洗うことであろう」
と申されました。

これを聞いたつわものたちは、いっせいによろこびの声をあげ、そのこだまは海峡にひびき、干珠・満珠の美しい島をつつみました。


(注)
長府の沖合いに、夢のように浮かんでいる島影は、どちらが満珠・干珠だろうと、よくいわれますが、この島の樹林が天然記念物に指定されたとき、沖の方を干珠、陸に近いほうを満珠としており、いまでは、そのとおりに呼ばれています。
また二つの島は、忌宮神社の飛地境内になっています。

島をおおう、うっそうたる樹林は、千古の原始林で、植物目録によると、きょう木17種、かん木30種、草木41種があげられ、大正15年10月22日に、天然記念物に指定され、さらに昭和31年5月1日に、火の山とともにこの二つの島をふくめて、海面区域が瀬戸内海国立公園に編入されました。

なお、船の航海に必要な世界中の海図には、燈台のある沖の島が満珠島、手前の陸に近いほうが干珠島となっており、どちらの島の名前が本当なのかと問題になったことがあります。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/07/28 Tue. 10:39 [edit]

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青いぐみ 

青いぐみ


江戸時代の頃、川中村の伊倉八幡宮の近くに一人の浪人が男の子を一人つれて住んでいました。
浪人は、わけがあって自分の国を捨て、この土地に住みつくようになったのですが、着ているものといえばいつもつぎはぎのボロボロの着物、住んでいる家も牛や馬が住むような小屋よりも、もっとひどいものでした。
生活も楽ではなく、八幡宮の土地を少しばかり借り受けて、やっと食べるものだけは作っていました。

ある年のこと、飢饉があり、村人たちが大切に作っていた西瓜がたびたび盗られるということが起こり、村人たちは「これは、あのおさむらいの子どもがあやしい、一つや二つの西瓜ならがまんするが、こう毎日盗られたんじゃ、たまったものではない。おさむらいに注意してしかってもらおう」と、村人たちはそろっておさむらいの家へいき、どうかしまつをつけてくれとせまりました。

浪人は、自分の子どもにかぎってそんなことをするはずがないと思いましたが、村人たちからうたがわれているのなら仕方がないと、さっそく子どもを呼び、
「お前が西瓜を盗んだのか」と、問いただしましたが、子どもは、
「自分はこんなかっこうをしていますが、さむらいの子です。決して人のものを盗むようなことはしません」と、きっぱりいいきりました。
しかし、村人たちは、いかにさむらいといっても、よそから流れてきたものだ、西瓜どろぼうは、その子に決まっている、とあくまでどろぼうにしてしまいました。

浪人は、村人たちの悪口をしばらく聞いていましたが、とつぜん刀を抜き、わが子を横だきにするや、村人たちに向かい
「それならば、この子のお腹を見せてしんぜる」
とわが子を殺し、お腹を切り開いてみせたところ、西瓜の種は一粒もなく、わずかに「ぐみ」の種子が五粒ほどでてきました。

村人たちはまっさおになり、自分たちが悪かったと深くわびましたが、死んだ浪人の子どもが生き返ってくるはずがありません。村人たちは、今度は浪人が怒って自分たちを切り殺すのではないかと、ぶるぶるふるえていましたが、浪人は、
「これで息子の正しかったことがおわかりになったでしょう」と、いっただけで別に怒りもしませんでした。
しばらくして村人たちが帰ったあと、浪人は我が子のなきがらにむかい、
「さぞ、くやしかったにちがいない、ゆるしてくれ」
と、合掌し、やがて自分もまた切腹して、息子のあとを追いました。

毎年、夏になるとぐみの木に真赤な実がつきますが、ふしぎなことに、それからというもの、一枝のなかにかならずといっていいほど、五粒のうれないままの青いぐみが残るようになったということです。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/07/27 Mon. 10:02 [edit]

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