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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

引接寺伝説 『三門の龍』 

引接寺伝説 『三門の龍』


 江戸時代末期、引接寺付近(現在の唐戸地区)は山陽道の起終点でもあったことから、大繁華街でした。
 その頃のある夜中、引接寺の石段下で通りがかりの旅人が何者かによって殺されます。番所役人が何度となく調査しても、犯人が見つからないので苦慮しているところ、次々と同じ場所で人が殺されます。奇妙なことに、殺された旅人のふところにはお金が残っており、これは強盗の仕業ではないとすると、鬼か大蛇ではないかとのうわさが広まります。

 そんな中、ある勇敢な侍が「それでは拙者がその鬼とやらを退治してやろう」と夜中に引接寺へ出かけます。
 侍は不意に襲い掛かった怪物を見事早業で切りつけ、怪物はうめき声とともに消え去りました。
 翌朝、侍が現場に行ってみると、黒々とした血筋がお寺のほうに向かって流れています。その跡をたどって行くと、ちょうど三門の下で血筋が消えていました。不思議に思った侍が上を見上げると、そこには真っ二つに割れた龍の彫刻が!
 旅人達を襲った怪物は、この三門の龍だった、というお話です。


引接寺について

 引接寺は永禄3年(1560)に一徳和尚が豊前国の黒田村より移創された寺院です。慶長3年(1598)には小早川隆景(毛利元就の三男)の霊を弔うため、息子の秀秋が現在の地に建立しました。以降、朝鮮使節使等、度々使節の宿所となっていることから、国際的にも認知度の高い寺院であり、歴史的にはもっと古いものがあったのではないかとも言われています。

 明治28年(1895)日清講和条約(いわゆる下関条約)の際、清国全権大使李鴻章一行の宿所となりました。
 本堂は昭和20年の大空襲で焼失しますが、三門は辛うじて残りました。その後平成8年9月、日清講和条約締結100周年を記念して本堂が建立されました。
 大空襲による焼失のため、わからなくなってしまったことがたくさんありますが、多くの賓客がここを宿所とされてきたことや、三門の龍の彫刻などを見て、その由緒を感じとることができます。
 引接寺にとって、先の2つの伝説はあまり喜ばしい伝説ではありませんが、江戸後期から明治の時代にかけて日本で一番有名になったお寺は?といえば、やはり引接寺ではないでしょうか。


「三門の龍」について

 そもそも「龍」は想像上の動物。大陸ではご存知のとおり「守護神」「厄払い」的な意味を持つものとして崇拝されています。
 その龍が三門に飾られてある寺院は、その格式の高さを示しているのです。
 名工、左甚五郎の作といわれていますが、検証しようにもすべてが空襲によって謎となってしまった。
 三門の龍は時には人を襲ったといううわさで人を仰天させ、そしてその中で下関の繁栄と関門海峡を行く船の航行安全を見守っているのかも知れません。


しものせき観光ホームページより
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Posted on 2020/06/30 Tue. 10:22 [edit]

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川棚温泉の青龍伝説 

川棚温泉の青龍伝説

青龍伝説

 遠い昔、とようらの地の奥深い森に囲まれた泉に、水の神様として一匹の青龍が住んでいました。青龍の住む泉はどんな日照りでも枯れることなく、青龍に与えられた清らかで豊富な水により、農作物は豊かに育ち浦々ではたくさんの魚がとれました。
 しかし、ある時この地を大地震が襲いました。大地震は一夜にして青龍の住む泉を熱湯へと変え、山を崩し、泉を埋めてしまったのです。そして青龍も住む場所を失った悲しさから病気になり死んでしまいました。
 青龍と泉を失った村では長く日照りが続き、作物は枯れ、人々は病気に苦しみました。困った村人達は、青龍を祀るための社をつくり、この土地の守り神として人々の生活を守ってくれるよう祈り続けました。
 そんなある日、村人が青龍の住む泉のあった場所に畑をつくろうとして地面を掘ると、そこから温泉が湧き出したのです。不思議なことに温泉の湯を浴びると、それまで病気で苦しんでいた人たちは元気になったといいます。


怡雲(いうん)和尚

 その後、月日はめぐり温泉が枯れてしまうと、青龍のことも人々の記憶から忘れられようとしていました。すると応永年間(1394~1427)、再びこの地を日照りと疫病が襲いました。川棚を見下ろす小高い山の中にある三恵寺の住職であった「怡雲(いうん)和尚」は、厄災に苦しむ人々を助けたい一心で仏に祈り続けました。そんなある晩、怡雲和尚の枕元に薬師如来が現れました。薬師如来は枕元で、和尚にこの土地に住む青龍の伝説と人々の病気を治した不思議な温泉の物語を告げました。
 怡雲和尚は薬師如来の霊告をもとに、忘れられていた温泉を再び掘り返す決心をし、周辺の村人の協力を得て作業に取りかかると、見事に温泉を掘り起こしました。青龍の伝説と薬師如来の霊告のとおり、その温泉の湯を浴びると人々の病気は次々に回復したといいます。再び平穏を取り戻した村人たちは、温泉がもう二度と枯れないように伝説の青龍を温泉と村の「守護神」としてお祀りすることを決め、祈りを欠かさないようつとめました。
 以来、数百年の月日が経ちますが、今も青龍の伝説は語り継がれ、青龍権現に守られた温泉は枯れることなく沸き続けているのです。


しものせき観光ホームページより
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Posted on 2020/06/29 Mon. 09:25 [edit]

category: 下関の民話

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若侍に恋をした白狐 

若侍に恋をした白狐


江戸時代の終わりごろの話です。

長府に武術にすぐれたなかなかの美男の若侍がいました。この若侍はたまたま稲荷町に立ち寄ったさい遊女と親しくなり、それからというものひまをみつけては長府から野久留米街道を通り稲荷町へ通うようになりました。
その日も夜更けて稲荷町をでて、だんのうらの立石神社を通り過ぎるころから、だれかが、後を付けて来るような気配がします。立ち止まって後を振り向いて見ると、何か白いものが、ボーっと立っています。剣術のすぐれている若侍ですが、やはりぶきみで、小走りに歩むと、その白いものもやはり、間隔をおいてついてきます。

こうしたことが毎回続くので、ある月明かりの夜、よし今夜こそ正体をみやぶってやろうと、若侍はひそかに計画をねりました。

またいつもの通り、立石稲荷神社をすぎたころから、白いものがついてきます。前田、野久留米を通り、長府の町へ入る少し手前で若侍は、急に腹が痛くなったふりをして地面にうずくまりました。
そうしてようすをうかがっていると、例の白いボーとしたものも、いっしゅん立ち止まって、それからしだいに倒れている若侍の方へ近づいてきます。
若侍がよくみると、それは、白い着物を着て女性の姿をしていました。
「いつもつけてきたのは、この女性だったのか、それにしても、こんな時間… そうか、さては、狐か狸のしわざだな…」
と、若侍は、それならば一刀のもとにきりすててやろうと、呼吸をととのえ、刀の柄を手にあてて近づくのを待ちました。

白い着物をきた女性は、そんなこととは知らずに近づいてきます。若侍はここぞとばかりに、地面にひざをつけたままの姿から、刀を抜き、切り伏せました。
「キャウン」
という悲鳴がおこり、その女性は、空中に飛び上がりました。若侍が起き上がってみましたが、もうその姿はどこにも見当たりません。しかし、その晩の月明かりで、真黒い血が点々として流れているのを見つけました。

若侍がその血の流れを追っていくと、血は野久留米から前田、だんのうらと街道に沿って流れていましたが、みもすそ川を渡って立石稲荷の前までくると急に右に曲がって鳥居の下、石段をくぐり神殿奥深く消えていました。

若侍は、そこまで来ると急に寒気がして、そのまま家に帰り、床につきましたが、寒気はなおらず十日くらい寝付きました。
しかし、体はもとに回復しても、あの白い着物を着た女性を切ったことがいつまでも目の前にちらつき、次第に元気を失い、とうとう若くして死んでしまいました。

恐らく狐のたたりだったのでしょう。
それにしても、あの切られた狐は、きっと若侍に恋をして若侍がだんのうらを通るたびにつきまとったのでしょう。


(注)
狐が人に恋をしたり、神様のおつげをしたり、あるいは人をだましたりするお話は、各地にたくさん残っています。
この「下関の伝説」の中にある、「立石稲荷の大石」の話や、「赤田代のキツネ」「キツネのくれた刀」なども、そうした狐のお話です。
内日地区などでは、今でも狐がよく人家の近くまで出てくるそうです。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/06/27 Sat. 11:13 [edit]

category: 下関の民話

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干珠満珠物語 

干珠満珠物語(かんじゅまんじゅものがたり)  下関市


  下関の長府の丘から沖の方を見ると、瀬戸内に潮の流れをよそに、二つの美しい緑の島が、なかよく並んでいるのが見える。
陸に近い方を干珠といい、沖に見える方を満珠という。
 この二つの島は、長府の忌宮神社(いみのみやじんじゃ)の飛地境内(忌宮神社が管理する土地)であるが、大昔から次のような話が伝えられている。


  それは、今から千七百年ぐらい前のこと、神宮皇后(じんぐうこうごう 仲哀天皇のお妃)が、神のお告げを受けて、三韓征伐(さんかんせいばつ その頃の朝鮮にあった新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高句麗(こうくり)の三国を討つこと)をされるときの話である。

 朝鮮に渡るには、先ず、あの荒波で有名な玄界灘(げんかいなだ)を越えていかなければならない。皇后は、この戦いは、大変苦しい戦いになると考えた。そこで、皇后は、長府に豊浦の宮をおき、軍を整え、船を集め、いくさの準備をすすめた。準備が整うと、皇后は、転地のあらゆる神々をまつり、力添えとお守りをお願いした。特に、海の神でである、龍神の無事といくさの勝利を願った。

  ちょうど満願の日のことであった。それまで風もなく、静まりかえっていた瀬戸の海が、にわかに黒雲におおわれ、強風にともなって大波が起こり、音をたててうずまき、狂いはじめた。その荒れ狂う波の中から、
「皇后さま、皇后さま。私は瀬戸に住む住吉明神の化身でございます。」
 と、呼ぶ声が、皇后の耳に聞こえてきた。
 みると、荒れ狂う大波の上に、白いひげを潮風になびかせながら、住吉明神が立っていた。そして、
「三韓は、いずれも強い国でありますゆえ、ぜひ、龍神のお助けをおかりになるのがよかろうと存じます。ついては、安曇(あずみ)の磯良(いそら)というものを召されて、これを使者として、千珠・満珠の二つの珠を龍神よりかりうけられ、そのご神徳によって、いくさを勝利に進められるがよろしかろうと存じます。」
 とお告げになられた。
 そこで、皇后は、さっそく、この海岸に住む安曇の磯良という若者をよびよせ、二つの珠を借りてこさせた。この二つの珠には、潮の満ち干を自由にすることができるふしぎな力があったのである。

 皇后が、軍を整え、船を浮かべて、いざ海に乗り出すと、海原の魚たちはぴちぴちはねて門出を祝い、追い風をうけた船はすいすいと勢いにのって進んだ。そして、皇后は、朝鮮の沖の大きな島に陣をはって、戦いにそなえた。
 いよいよ、待ち受けていた新羅の大群が、たくさんの軍船を連ねてせめてくるが、皇后は、先ず、潮千る珠を海に投げいれた。するとどうだろう、みるみるうちに、潮がひいていき、海底が現われてきた。
 新羅の軍団は、船底を海底につけて傾き、動けなくなってしまった。困り果てた新羅の兵は、とうとう船をおりて、海底を歩いて攻め寄せてきた。このようすをじっとみつめていた皇后は、敵の兵隊が、陸にあがろうとするときをみはからって、千満つ珠を、岸の近くに投げ入れた。
 すると、たちまち、どこからともなく海水が白波をたて、うちよせるようにして満ちてきて、みるみるうちにもとの海となった。あわてふためいた新羅の兵たちは、逃げ場を失い、海水を飲み込み、つぎつぎにおぼれ沈んでしまった。海底に傾いていた軍船も満ちてくる海水の勢いでひっくり返され、とうとう新羅の兵も軍船も、ぜんぶ滅びてしまったのである。

 皇后は勇み立つ兵をはげまし、軍船を整えると、いよいよ三韓へわたり、一気に敵を打ち破り、三韓の貢物(みつぎもの)を献上させ、これから先ずっと、天皇に仕えることを誓わさせた。
 こうして、皇后の軍船は、大波をけって堂々と長門の海に凱旋した。

 皇后は、戦いの勝利をたいそう喜んで、千珠・満珠の徳をたたえられ、それを、龍神にお返しになる前に、お祝いの儀式をとり行うことにした。
その日は、瀬戸内の波もおだやかで、空も青く晴れわたり、まわりの山々も鮮やかな緑色にはえていた。
 皇后の軍団は、幾組も幾組も組をつくって、壇ノ浦から長門の浦にかけて並び、旗や槍を高くかざして、にぎやかな祭りの行事がくりひろげられた。
 その先頭の一番大きい軍船から、皇后はひときわ声を高くして、
「わたくしたちが、このたびの戦で、三韓をくだして勝利をおさめ、ここにめでたく凱旋できたのは、
 みなのものの勇ましい働きによるものであることはもうすまでもない。
 しかしここに、みなのものに告げて、ともにお礼を申さなければならないことがある。それは、この海に住みたもう住吉明神のお導きによって、
龍神より借り受けたこの干珠と満珠の二つの珠のご神徳である。わたくしたちは、この珠のご神徳によって勝利をかちとったのである。いま、ここに、お礼を申すとともに、これを龍神にお返ししたいと思う。」
 と言って、静かに二つの珠を海にしずまれたのであった。

 すると、二つの珠がしずめられたあたりの海の上に、見るも鮮やかな美しい島が二つぽっかりと浮かびあがってきたのである。おどろいた兵士たちは、ただ目をまるくしてながめているばかりであった。

  このふしぎなできごとをご覧になった皇后は、いちだんと声を高められ、
「みなのもの、龍神はいま、この海に二つの島をつくりたもうた。永遠に長門の浦をしずめたまうのである。熊襲(くまそ)はすでにたいらぎ、いままた三韓は貢物を献じてきている。こうして平和の波は末永くいつまでも干珠・満珠の岸を洗うのであろう。」
 と、のべられたのである。
 これを聞いた兵士たちは、われを忘れてとびあがり、いっせいにかちどきの声をあげ、何度もさけび続けた。その声は、長門の浦にひびき、やがて関門海峡にすみずみまでひびきわたっていった。

 このようにしてできた二つの島が干珠と満珠である。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
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Posted on 2020/06/26 Fri. 10:13 [edit]

category: 下関の民話

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壇の浦に消えた宝剣 

壇の浦に消えた宝剣


永寿四年(1185)三月二十四日、源平最後の合戦、壇の浦の戦が行われましたが、ここで平家は完全に滅んでしまいました。
このとき安徳幼帝は、二位の尼にいだかれ三種の神器のうち、剣と勾玉とをお持ちになって海底深く消えていかれました。

なかでも剣は“天叢雲の剣”(あめのむらくものつるぎ)といって、いわれのある剣でしたので、その時、政治をとっておられた後白河法皇はたいへんしんぱいされ、海峡のはしからはしまでさがさせましたが、どうしても見つかりません。
そこで賀茂大明神におこもりになって、宝剣のゆくえをお願いしましたところ、七日目に大明神のおつげがありました。
そのおつげによると、ながとのくにの壇の浦にすむ、老松、若松という海女を召して調べさせよ、ということでした。そこで法皇はさっそく義経をおよびになって、このおつげをお話になり、いっときも早く、剣を探し出すようお命じになりました。

ふたたび、義経は激しい戦をくりひろげた壇の浦にもどってきて、老松、若松のいどころを探し、やかたによびよせました。
老松はそのとき三十五歳、若松は娘で十七歳、もぐりにかけてはこの近くでは二人にかなうものはないと、いわれているほどじょうずで、そのうえ、どことなく、気高い感じを人に与えました。
やがて、老松、若松は、みじたくをして海にもぐりました。太陽が沈む頃二人は浮き上がってきました。
若松は、別に剣らしいものはみなかったと義経に報告しましたが、母親の老松の方は、
「ふしぎな大岩をみつけました。その岩には人がくぐれるくらいの穴があって、私は、できるかぎり、その奥へ奥へと進んでみました。およそ一里くらい入ったところで、急に明るくなり、そのむこうに龍宮城らしき建物があり、金銀の砂をしき、その美しい光景に気が遠くなりそうでした。やがて二階構えの楼門まできたとき、どうしたことか手足がしびれだし、いまにも砂の中に引き込まれそうになりました。そこで思わず、お経を唱えると、いくぶんかしびれた手足がもとにもどり、大急ぎで浮き上がってきました。
あの楼門の中へ入るには、神仏のお力にすがるほかはありません」
と申しました。

そこで義経は、くらいの高い僧たちを集め、相談したところ、老松が身につける衣に如法経を書き写し、そのお守りで龍宮城に行かせようということになりました。
老松はふたたび海にもぐりました。そして一日一夜も浮き上がってこないので、義経をはじめ僧たちは、もう老松は死んでしまったのか…と、なげき悲しみました。
ところが翌日のお昼ごろポッカリと水面に顔をだしました。義経は心配のあまり、
「どうであったか…」
と、たずねましたが、老松は、法皇さまにおめにかかり、じきじきにお話いたします、と申しました。

やがて老松親子は京にのぼり、法皇さまの前にでて、ふしぎな話をはじめました。
「如法経のお守りで、手足もしびれず龍宮城に入りました。大日本国の帝王のお使いで、壇の浦で失った宝剣をさがしにまいりましたと門番につげると、広いお城の中をあちこちと案内され、とある庭へつれてこられました。
しばらく待つうちに、しだいに風がでてきて、大地がうなり、はげしく氷雨が降ってきました。私は恐ろしくて、今にも逃げ出そうと思いましたが、ここで逃げ出せばお役にたたずと思いじっとがまんしておりますと、やがて風もおさまり、部屋の奥からうすきみ悪い煙がたちのぼり、シュ、シュという音がしはじめました。
何事かと思って、その方に目をうつすと、小山ぐらいはありそうな大蛇が剣を口にくわえ、七、八才のこどもをかかえていました。その目は、らんらんと輝き、口は耳までさけて、真赤な舌がぶきみにのぞいていました。そしてこういいました。

この宝剣は、日本の帝のものではない。もとはといえば、龍宮城の大切な宝である。
というのは、次郎王子なるものが宝剣を持って陸にあがり、出雲の国のひの川に八つの首を持った大蛇となって住み着き、人をのみはじめた。それで、すさのおのみことが大蛇を退治し、そのお腹から、剣をとりだして姉の天照大神に差し上げた。
そのあと日本武尊に渡ったりして、いろいろ持ち主がかわったが、そのたびに大蛇になり、どうかして剣をうばいかえそうとしたが、いずれも失敗におわってしまった。
しかし、うまいぐあいに、今度は安徳天皇に姿をかえ、源平の戦をおこし、ついに宝剣を見事取り返すことができた。
わしがいま口にくわえているのは、まさに、その剣じゃ、かかえているのこどもは、安徳天皇である。
みよ、平家一門の人々はみな、龍宮城におられる。

と、大蛇が扉を開くと大臣をはじめ法師、女官たちが、じっと私を見つめていました。
そして、大蛇は最後に、

この宝剣は、二度と日本国には渡さない。永久にわしのお腹に入れておく、

というなり、赤い舌を巻いて剣を飲み込んでしまいました。
私は、それを見届けるや龍宮城をあとにして、帰ってきたのです。


老松の長い話が終わると、法皇をはじめ義経たちは、深い失望のためいきをつきました。
こうして、三種の神器のうち、剣は、壇の浦の海中深く、龍宮城の大王である大蛇のお腹におさめられたのでした。


(注)
壇の浦に沈んだ宝剣は、その後もたびたびさがされ、その回数は二十回にもおよんだといわれています。
また、宝剣が沈んで二十七年も過ぎた頃にも、夜など壇の浦の海に光り輝くものがあるという噂が流れたという話も伝わっています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/06/24 Wed. 10:01 [edit]

category: 下関の民話

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