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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

沈んだ王国 

沈んだ王国


下関市の町並みを抜け、国道191号線を10キロほど北上すると安岡の地。
西側は響灘に面した美しい松林と砂浜が続く。
この沖合い2キロの海中に、久留見瀬と呼ばれる小さな瀬がある。
いつも海面の下で見えないが、干潮になると平らな岩が頭を出す。
かつて大きな島国だったのが沈んだのだという。


いまから何千年も昔のこと、この島を玄海王という王様が支配していた。
王は城の一角に高い望楼を築くことを思い立ち、島中の若者をかり出した。
島に結婚して間もない若夫婦がいた。
妻の久留見は、毎日城のほうをにがめながら、人夫として連れ出された夫の帰りを待った。
やがて望楼は雲をつくばかりの高さに完成した。
しかし、夫は帰ってこなかった。
久留見は城に行ってみたが門の中に入れてくれない。
城門の前で夫の名を呼び続けて泣き伏す久留見に、一人の老人が「夫は望楼の人柱になった」と教えた。
悲しみにくれる久留見の美しい顔を望楼から見た玄海王は、家来に連れてこさせ、自分の妻になるよう命じた。
久留見は「私の夫を王様と同じような手厚い礼で葬ってくださるなら」と承諾した。
王はさっそく盛大な葬儀をし、久留見も涙をこめて参列した。
式が終わると久留見はスキをみて逃げ出し、望楼にのぼった。
びっくりしてあとを追う王らの前で久留見は青い海に身をひるがえした。

それ以後、この島は一寸刻みに沈みはじめ、玄海王も立派な宮殿も海底に没してしまった。
ただ山頂だけが、いまも波に見えかくれする瀬となり、久留見の悲しい物語をとどめている。


下関郷土会が出した「下関の伝説」などに収録されている。
久留見は来留見とも書く。
ただ、「地元の漁師でさえ、そんな話は知らず、民俗採取の際にも聞かなかった」と下関市安岡資料室の吉村次郎さん。
安岡資料室は近くの綾羅木遺跡などの出土品をまとめ、整理研究している。
考古学的な立場から吉村さんは、伝説は「まゆつばもの」としながら「久留見の瀬は百年ほど前には島で、松の木が残っていたという。北西の季節風で岩が風化され、なくなったのだろう」と話す。
その自然現象を「島が沈んだ」として、伝説が生まれたのだろうが、「土地に残る遺物や不思議な自然現象に神秘を感じて、一つの話にまとめるのは楽しい」というのは下関市綾羅木の郷土作家瀬戸口久子さん。
久留見瀬には、ほかに安岡の悪代官が島に渡って密議をこらしたなどの話もあるという。
綾羅木の古代遺跡を背景に、波間にひそむ久留見瀬のほのかな姿に王国の面影をみるのはそれほど困難ではなかった。


防長紀行第三巻 民話の里 マツノ書店刊より
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Posted on 2020/05/29 Fri. 11:14 [edit]

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29

磨墨と生づき 

磨墨と生づき(するすみといけづき)下関市豊浦


 ある日のことだ。
 一頭の馬が、御崎山(みさきやま:下関吉母)の牧(牧場)をきもくるわんばかりにかけまわっていた。
 かわいい子馬が見えなくなったのだ。
 あちらの山、こちらの山と、母馬はかけまわった。けれども、いくらさがしても見つからなかった。

 日は、まもなく海にしずもうとしていた。
 母馬は、牧じゅうをさがしまわったあと、淵が谷(ふちがたに)の滝つぼまでやってきた。ふと、その滝つぼをのぞいた。
 子馬がいた。
 母馬は、それが滝つぼにうつった自分のすがただとはしらない。母馬は、うれしさのあまり、滝つぼの子馬めがけて身をおどらせた。

 子馬は、遊びつかれて、母馬のいるところへ帰ってきた。

 しかし、母馬のすがたはなかった。
 ヒヒーン。
 子馬は、母馬をもとめていなないた。それからというもの、母馬をさがしもとめる子馬のいななきが御崎山の牧にたえることがなかった。
 なかまの子馬がさそっても、いつもひとりで母馬をさがしもとめてはいなないていた。

 ある日、子馬は、岬のはしに立って、母馬をよんだ。
 すると、海のむこうの蓋井島(ふたおいじま)から、なつかしい母馬のいななきが聞こえてきた。
 それがこだまとはしらない。
 子馬は、高いがけから海にとびこんだ。
 そして、荒波にもまれながら、蓋井島めざして泳いだ。

 やっと泳ぎついた島。

 しかし、そこに、母馬のすがたはなかった。
 うちひしがれた子馬は、牧に向かって、ひと声高くいなないた。
 すると、こんどは御崎山の方から母馬の声が返ってきた。
 子馬は、つかれもわすれて、また海へとびこんだ。

 御崎山と蓋井島の間を何回となく行き来しているうちに、いつしか子馬はくろがねのようなたくましい馬に育っていった。
 この馬が、のちに源頼朝(みなもとのよりとも)の愛馬となった名馬磨墨(するすみ)であったといわれている。


 一方、生づきという馬がいた。
 この生づきは、ふしぎなことに、磨墨が母馬をさがしもとめてわたったという蓋井島で生まれ育った。
 生づきは、生まれて半年もたたぬうちに母馬に死にわかれた。
 まだおさない子馬は、母馬をしたって、なきくらしていた。

 ある朝のこと、飼い主は、生づきの毛なみが、しずくがたれるほどぬれているのに気づいた。どうしたことだろうかとふしぎに思って気をつけていると、次の朝も、その次の朝も、やはりびっしょりぬれている。
 とうとう飼い主は、ねずの番で、しのわけを見とどけることにした。

 月の美しい夜だった。

 月に向かって、子馬が大きくいなないた。
 と、広い海をこえて、吉母のあたりからいななきがかえってきた。子馬は、やにわにさくをこえて、海べに向かってかけた。海べへ出ると、そのまま海へとびこんで、声のした方へめざして泳ぎだした。
 子馬のすがたは、やがて海のむこうに見えなくなった。

 しばらくすると、こんどは、本土の方から生づきのいななく声が聞こえた。

 やがて、波しぶきをあげながら、生づきがもどってきた。
「さては、こだまを母馬の声と思って、ああしていつも、海をわたっていたのか。」
 母馬を思う子馬の心にうたれた飼い主は、だいじにだいじに子馬を育てた。
 海できたえただけあって、生づきは、かんのするどい、すばらしい馬に成長した。

 こうして、生づきも東国の馬商人に買いとられ、やがて頼朝の愛馬となったということである。

 のちに宇治川の合戦(1184年)で、梶原源太景季(ふじわらのげんたかげすえ)の乗った磨墨と、佐々木四郎高綱(ささきのしろうたかつな)の乗った生づきとが、宇治川で先陣争いをしたという話は、あまりにも有名である。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
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Posted on 2020/05/27 Wed. 10:41 [edit]

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27

片目の虻 

片目の虻


豊浦町黒井と内日とにまたがって620メートルの鬼が城という山があります。

むかし、むかし、この山に大江山の酒呑童子の一の子分といわれる霞隠鬼が逃げ込んできました。
この山の頂上に石で城を築き、洞窟を造りました。鬼は、この洞窟を鬼の穴と名前をつけ、しだいに里におりては、食物をかっぱらったり、牛や鶏を殺しては、穴に運びいれました。
食べ物が無くなると、また里におりては悪いことをするので、村人たちは、五人一組で夜回りを始めましたが、なにしろ相手はすばしこく、せっかく見つけても取り逃がすばかりです。
といって、村人たちで、鬼が城を攻める勇気もありません。村人たちの中には、とうとう恐ろしくなって引っ越すものもでてきました。

鬼の方も、だんだん悪いことになれて、昼間から里に姿を現すようになりました。
ある日、鬼が大歳神社のそばを通りかかり、宮司の家を覗き見したところ、そこに宮司の娘、登葉が針仕事をしていました。
さあ鬼は、この登葉に一目ぼれしてしまいました。
それもそのはずです。登葉は、村でも評判の美しい娘でしたから。

それからというもの、毎晩のように鬼は里に出て、登葉の部屋をのぞき、登葉を一目見たときは、おとなしくして鬼の穴に戻り、登葉がいないときは、村中を荒らしまわって帰りました。
村人たちもしだいに鬼の習性を知って、
「登葉さんには気の毒だが、村のためを思って、いっそのこと鬼のお嫁さんになってはくれまいかのう」
と、かげで話し合うようになりました。

こうした村人たちの声が登葉と父親の耳にも入りました。
そこで親子は、ある計画をたてました。
「登葉や、うかうかしていると、村人たちは無理やりにでも、お前を鬼の嫁にしてしまうぞ、それよりも先に鬼のやつがお前をさらいにくるかもしれん。どちらにしても、鬼をどうにかして退治するほかに助かる道はない」
「それならお父さん、私は今晩一番きれいな着物をきて、念入りにお化粧します。鬼がのぞきにきたとき、おりをみて矢で射殺してください」

夜がきました。丸いお月様が鬼が城の上にポッカリ浮かんでいます。
月の光をあびて、登葉は、また一段と美しく見えましたが、心の中は、恐ろしくて恐ろしくてたまりませんでした。
しだいに鬼の足音が近づいてきます。父親は、弓に矢をつがえて部屋のすみで様子をうかがっていますが、足がガクガクしてきて、落ち着かなくなってきました。
もし失敗して鬼を怒らせば、自分は殺され、登葉はきっとさらわれるにちがいありません。

やがて、格子のすき間から大きな眼がのぞきました。
さいわい鬼は、登葉の美しい姿に見とれて父親が矢をつがえて待っていることに気がついていないようでした。
父親は、大きく呼吸をすると、鬼の眼に狙いを定め、パッと矢を放つと確かに手ごたえがあったとみえて、鬼はギャーといって地面をのたうち回りました。

あくる日、こわごわのぞいてみますと、血が点々と鬼が城の山頂までつづき、鬼の穴で片目に矢が突き刺さったままで死んでいる鬼をみつけました。


それいらい、この土地の虻(あぶ…ハエより少し大きい昆虫)は、不思議なことにみな片目で、村の人たちは、片目を射られて死んだ鬼が、虻に化身したのだろうと噂しました。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/05/26 Tue. 10:20 [edit]

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26

平家の一杯水 

平家の一杯水


 源平最後の合戦、壇ノ浦の戦いが行われたのは寿永四年(1185)三月のこと。
 それより先、平家総帥の平宗盛は、一ノ谷(兵庫県)・屋島(香川県)での合戦で相次いで源氏軍に敗退。
 瀬戸内海の西端に位置する長門国彦島(現在の下関市彦島)に陣を敷いていた平知盛の元まで落ち延び、起死回生を賭けた地が、関門海峡だった。

 彦島の平家水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成する。
 平家軍は500艘(『吾妻鏡』)で、松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平家一門100余艘(『平家物語』)の編成であった。
 宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。

『平家物語』によれば、知盛は通常は安徳天皇や平家本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて、鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。
 源氏軍が現れたという知らせが入るや、平知盛は門司にしつらえた仮御所から数え年8歳の安徳天皇や平家全員を船に乗せ、海峡へ。戦船は両軍合わせておよそ千数百隻。

 海峡の赤間関で源平が失合(やあわせ=開戦)することになった日時を、『平家物語』は元暦(げんりゃく)二年(1185)三月二十四日とし、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平家軍が彦島を出撃して、平家は新中納言平知盛を総大将に、およそ五百余艘が赤間関の対岸、豊前国田ノ浦に陣取り、源氏は九郎判官義経を大将に、武将たちを乗せた舟、およそ八百余艘は、満珠・干珠の沖合いに、 

 午の刻(12時ごろ)(『玉葉』による。)、戦いが始まった。両軍とも、できるだけ潮流に左右されずに操船できる時間帯を選んだのであろう。
 両軍は静かに船を進め源氏の白旗、平家の赤旗は、しだいに近づく。 やがて源平両軍の船は、その距離三十余町をへだてて相対し、平家の大将平知盛は大音声をはりあげて全軍を激励した。
 両軍の舟から一斉に矢が飛びかい矢にあたって海に落ちる者、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とす者、白旗、赤旗入り乱れての激戦。

 範頼軍は三万余騎(『源平盛衰記』による。)をもって陸地に布陣して平家の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。
『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町、三町も射かけたという。

 関門海峡は潮の流れの変化が激しく、平家軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗って平家方は序盤は鎌倉方が静まり返るほど矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。
 義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平家軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。

 ここで不利を悟った義経が敵船の水手(かこ)や梶取(漕ぎ手)を射るよう命じた。
 この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行い防御装備の貧弱な水手・梶取たちが犠牲となり、平家方の船は身動きが取れなくなった。
 戦いは初めこそ、潮流に乗った平家が互角以上に戦い優勢だったが、射尽すと逆に水上からは義経軍に、陸上からは範頼軍に射かけられるままとなった。

 やがて潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこの流れに乗ってこの時とばかり、ホラ貝を吹き、鐘を鳴らし、勇気を奮い起こし、勢いを盛り返して反撃にてて、平家軍を押しまくる。
 平家軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平家一門は次々と海上へ身を投じた。

 『平家物語』には平家一門の最後の様子が描かれている。

 知盛は建礼門院や二位ノ尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。
 これを聞いた二位ノ尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位ノ尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。

『吾妻鏡』によると二位ノ尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。
 武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。

 剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。

 教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。

 義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。
 教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平家随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最後だ。

 知盛は「見るべき事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟(ちきょうだい)の伊賀 平内左衛門家長とともに入水した。
 敗戦を覚悟した平家一門は次々と海へ身を投げていった。これは、範頼軍の九州制圧、義経軍の四国制圧、鎌倉方による瀬戸内海制海権の奪取という包囲・孤立化の完成に伴う必然的結末であった。
 漕ぎ手 を失った平家の船は進退の自由を失い、混乱しつつ壇之浦に追いつめられて、申の刻(16時ごろ)(『玉葉』による。)平家一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わった。

 栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。
 この戦いにより、平氏(伊勢平氏の平清盛一族)は二十五年にわたる平氏政権の幕を閉じた。
 勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させる。


 平家のある者は傷を受けながらも、ようやく岸にたどり着いた者もいた。
 そのうちの一人肩と足に矢を受けて海に落ち、深手を負いながらも命がけで岸 に泳ぎ着いた平家の武将は、ふと前の方を見ると山すその渚にわずかな水溜まりがあった。
 武将はのどの渇きを癒そうと、痛むからだを引きずってやっとの思いで水溜まりに近づき、手のひらにすくい、その水を一口飲んでみると、それはおいしい真水だった。
 夢中になってもう一口と、また手のひらにすくい、再び水を口にしたところ、思わず吐き出してしまった。真水は海水にかわっていたのです。

 後世の人はこれを「平家の一杯水」と呼び今に伝える。

 碑の近くの渚に湧き出る清水(火の山からの伏流水)には祠が立てられ、いまも元旦の若水として赤間神宮の神前に供えられます。
 「更に東駆前田に入れば埋没数十年に及びしを本市技師が苦心発掘せし平家一杯水あり。」 と、下関市史(市制施行ー終戦)の観光、昭和時代に記されている。
 国道9号線沿い、海峡グルメ しずか本館の西側に「平家の一杯水」という石碑が建立されています。
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Posted on 2020/05/25 Mon. 10:59 [edit]

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平家がに 

平家がに


源平合戦にまつわる伝説はたくさんあります。
これもその一つ。

壇の浦の漁師たちは、魚を釣るとき、かならず船板に正座して釣糸をたれます。
いつのころから、誰がはじめたのかわかりません。漁師たちは、正座しているほうが、釣りの勘がよくはたらくといいます。
また、こうしていれば、なんとなく心も落ち着くといいます。

もう一つは、平家の落人がこの壇の浦に住み着いて漁師をはじめましたが、以前宮中に住んでいたころの作法が身について、正座するようになったともいいます。

この海峡では、平家がにがとれます。中型のカニで、甲の長さ3センチ、脚をのばすと約15センチぐらいになります。
そして背の甲に、人の面ににた隆起があります。が、これが平家の武士たちのうらみの形相そっくりなので、平家がにといっています。

また海に消えていった官女の生まれ変わった姿といわれる10センチぐらいの美しいタイのことを小平家(こべけ)といって、毎年七、八月ごろになると、金色のうろこに白い斑点のあるこのタイが海峡にあらわれます。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/05/22 Fri. 10:03 [edit]

category: 下関の民話

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