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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

みもすそ川 

みもすそ川


長門本平家物語の巻十八の“先帝二位殿入海給事”によると…

二位の尼が、八才になられる幼い安徳天皇をしっかりと胸に抱き、三種の神器のうちの宝剣を腰に、勾玉をを脇にはさんで一歩、二歩、歩まれると、幼帝は、
「いまからどこへ参るのか」
とおたずねになりました。すると二位の尼は、
「わが君さま、いまからやさしい仏さまがたくさんいらっしゃる弥陀の浄土へおつれいたしましょう」
と申し、決死の覚悟を決め、いよいよ身を投げようとされるとき、

  今ぞしる身もすそ川の御ながれ
   波の下にもみやこありとは

と最後の歌を残されて海底深く沈まれていかれました。

この残された歌から、むかしの人たちは、安徳天皇と二位の尼が身を沈められたところは“みもすそ川”であったと言い伝えてきました。しかし、実際には“みもすそ川”は小川であり、とても身を投げることのできる川ではありません。
みもすそ川についてのもう一つの説は天皇の血統が一筋に長く続いていることをさすのだというのです。

ところで、この川で遊女が衣類をせんたくすると“あか”がよく落ちるといわれました。うわさをきいた馬関の町屋のものがせんたくものを抱えてきましたが、さっぱり“あか”は落ちなかったということです。
つまり遊女は平家の官女が身を落とした姿であり、とうぜん遊女のせんたくするものだけに効き目があったのでしょう。


(注)
みもすそ川は、古い本に“御裳濯川”と書いてありますが、いつのころからか“御裳川”と書くようになりました。
大正十五年八月に架けられた木橋「御裳橋」がありましたが、いたみがひどく、また道路の拡張工事などで、昭和十六年三月補修されました。
なお、二位の尼は平清盛の妻ですから、安徳天皇は二位の尼にとって孫にあたります。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/05/21 Thu. 11:53 [edit]

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21

平家のいっぱい水 

平家のいっぱい水


四国屋島の戦いにひきつづいて、源氏、平氏さいごの一戦がだんのうらでくりひろげられました。

寿永四年三月二十四日、源氏側は九郎判官義経を総大将に武将たちを乗せた舟、およそ千艘は、満珠干珠の沖合いに、平家側は新中納言平知盛を総大将におよそ八百艘が彦島に陣取り、両軍は静かに舟をすすめます。

いよいよ最後の決戦です。
源氏の白旗、平家の赤旗はしだいに近づいてきます。
やがて海峡の真中にきたとき、ちょうど午前十時、両軍の舟からいっせいに矢が飛び交いました。
矢に当たって海に落ちるもの、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とすもの、敵、味方入り交じっての激戦です。

このころん.から潮の流れは平家側に有利になり、次第に源氏側は押され気味で、損害は大きくなりました。
しかし、源氏側には、ちゃんと計画がたててありました。
それは海峡の流れが、いまは源氏側に不利ですが、やがて逆に流れ出し、このときに一気に戦いの結着をつけようとしていたのです。
激戦は続いていました。海に落ちたものは、重たい兜を着ているので、泳ぐこともできず海の底へ沈んでいきました。

そうして戦っているうちに、潮の流れが変りはじめました。
源氏側はこのときとばかりに、ほら貝を吹き、かねを鳴らし、
「いまこそ、平家をたおせ。進め、進め」
と勇気をふるいおこし、勢いをもりかえして、平家の舟を追いかけました。

平家は、ここで源氏に負けると、もう逃げるところがありませんので、負けてはなるものかと最後の力をだして戦いましたが、流れが変ったので、舟を進めることができず、とうとう、源氏に負けてしまいました。

平家側のあるものは捕らえられ、または海に沈み、またあるものは傷を受けてようやく岸にたどりついたものもありました。
そのうちの一人、平家の武将は、肩と足に矢を受けて海に落ちましたが、岸に近いところだったので、命がけで泳ぎ、ようやく岸にたどりつきました。
そこは前田から少し御裳川に寄ったところで、その武将は、のどがからからに渇ききっていました。
ふと見ると、山すそから海岸線におりたところにわずかな水溜りがありました。
武将は痛む体を引きずって水場に近づき、手のひらにすくい水を飲みました。
武将にとっては命の水だったのでした。
夢中になって、また手のひらにすくい二度目に口にしたところ、思わずむせて吐き出してしまいました。
真水は塩水に変っていたのでした。


(注)
前田造船所の横に平家の一杯水という板柱がたっています。

このお話ににたもので「官女の水」というのがあります。
だんのうらの戦いに敗れた官女の一人は、連れにはぐれてしまい、迷いに迷って金比羅付近に身を隠すことができました。
しかしこの戦いで戦死した夫のことや、いままでの楽しい生活のことを思うと、ひとりでに涙がでて、毎晩のように泣き続けました。
そして一滴の水ものどに通らず、みるみるうちに痩せ、ついに涙がかれきった時、淋しく死んでいきました。
その後誰かが、官女の淋しい死を思ってお墓をたててやりました。
もちろん官女の名前もわかりませんので、お墓といっても大きな石を置いただけでしたが、どうしたことか、この石の前に水溜りができました。
その水は、湧き水でも、流れ水でもありません。
人々はこれを「官女の水」といっていましたが、ひょっとすると官女の流した涙かもしれません。

それから誰いうとなく、この水を目につけると必ず眼病が治るという噂がたち、おまいりする人もありました。
しかし、その石は道を広げる工事のさい、取り壊されて今はありません。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/05/19 Tue. 10:18 [edit]

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19

引接寺の龍 

引接寺の龍


江戸時代の終わりごろの話です。

引接寺の山門を下って出たところは、外浜の浜で、ここは当時山陽道の終着駅として本土から九州へいたる重要な土地でありました。
したがって船番所もあり、旅館もたくさん軒をならべていました。

ある年のことです。
夜中の二時ごろ、引接寺の石段下で通りがかりの旅人が、何者かのために殺されてしまいました。
番所の役人がやっきになって犯人を捜しましたが、とうとう見つかりません。
殺された旅人のふところにはお金が残っており、ものとりの仕業ではないとすると、鬼か大蛇の仕業だという噂がたち、近所の人は危害を恐れて、日暮れともなれば雨戸をしっかりと閉めてしまうありさまです。

それから何度となく同じ時間、同じ場所で人が殺され、土地の人を恐怖のどん底におとしいれました。

そうしたあるとき、船着場の旅館に泊まっていた侍が、女中からその話を聞かされました。
侍は、みるからに強そうな男で、その話を聞くと
「それはおもしろそうじゃのう。よし、拙者がひとつ退治してやろうかのぅ…」
「おやめくだされ、めっそうもない。いくらあなたが強くても、相手は正体もわからぬ怪物…、殺されにいくだけですよ」
「まあそう心配するな」
と侍は、女中から着物を借り、夜中の一時過ぎから怪物退治にでかけました。

いつも怪物が現れるという、午前二時の丑の刻が迫ってきました。
大胆なその侍は、わざと怪物に目立つように女中から借りた着物を頭からかぶり、石段下の広場に立ちました。
やがて生ぬるい風がどこからともなく吹き、シャー、シャーという音がしてきました。
そすがの侍も少し緊張して、刀の柄に手をかけ、いつでも抜けるかまえをとりました。

そのときです。
パッと黒い大きなものが侍めがけて襲ってきました。
侍はとっさに腰をひねると、目にもとまらぬ早業で刀を抜き、怪物めがけて切りつけました。
確かに手ごたえがあったとみえ、熱気の中にものすごいうめき声が聞こえました。
侍はさらに二振り目をおろそうとしましたが、しかしその時にはすでに怪物の姿は見えませんでした。

あくる朝早く、侍がお寺の下の広場に来てみると、黒々と流れている血筋が、お寺の方に向かって石段をはいあがっています。
その血の跡をたどっていくと、ちょうど山門の下で消えて…

不思議に思って、ふと山門の天井を見上げると、そこに彫り込んである龍の胴体が真っ二つに割れているではありませんか…。

毎夜人を殺していた怪物は、実はこの龍であったということが、これではっきりわかりました。


(注)
戦災で引接寺は焼けましたが、山門だけは今でも昔のままの姿で残っています。
そして龍は真っ二つになった胴体を山門の天井に巻きつけています。
昔からこの龍は、喉が渇くとよく用水に飲みに出るといわれたくらい、彫刻は非常に立派で、一部の人はこの彫刻を江戸時代の名工左甚五郎の作といっていますが本当のことはわかりません。
その真っ二つになった切り口も、実は二つの木を継ぎ合わせたものですが、あまりに立派な龍の彫刻なので、このような伝説ができたのでしょう。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/05/18 Mon. 09:13 [edit]

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18

宗の御前 

宗の御前


竹崎町の光東寺の石段を上り山門をくぐって左側に石仏があります。
青黒くさびた様に見える九十センチばかりの円筒の石仏で、一般に「オチモヤサン」といわれています。

このお寺の古いことを記した書き物によりますと、いまから約七百数十年前の建長のころ、宗助という漁師がこの竹崎の浦に住んでいました。
宗助夫婦には、それは可愛い男の子が生まれましたが、お乳が不足がちで生まれながらにひ弱く、宗助夫婦は心配して夜も寝られません。
とうとう心配のあまり、近くの光東寺の薬師如来に、お乳がよく出るようにと願をかけました。

二十一日間お参りしたその満願の日、一心に祈っている宗助の耳に、
「豊前柳ヵ浦の松の根元に石仏があるから、それにお願いすれば必ず願いごとがかなう」
とのおつげがあった。

それを聞いた宗助は、さっそく遠く柳ヶ浦にかけつけ、おつげの場所にいってみると、まさしくその場所にあやしく光を放つ石仏がありました。
喜んだ宗助は、それを大事にかかえて下関に帰り、光東寺に納めて一心不乱に祈願をこめたところ、不思議に乳が吹くように出始め、その後子どもはすくすくと育ちました。

宗助は非常に喜び、この石仏のことを自分の名前の「助」をはぶいて「宗の御前」と呼びました。
それから乳の出ない人は、米のとぎ汁、出すぎて困る人は乳をしぼって石仏に供え、祈願したといいます。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/05/15 Fri. 09:15 [edit]

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15

青山の馬姫 

青山の馬姫


勝山にある青山は、むかし篠と蓬におおわれた草山でした。

村人たちは、毎年冬の終わりに野焼きをしますが、こうすると春になって若草が元気よく伸びだし、またたくまに山全体を緑でつつむようになります。
そして、この若草を牛や馬の飼料にするため、形山村の若者たちは、毎朝早くから草刈に登りました。

そして、お昼のにぎりめいを食べ終わると、やわらかい草の上に寝そべり、村のおもしろい話や、そこから見える豊前や門司の町の様子などを楽しそうに話しました。
しかし一人だけ、みんなから離れて、まだにぎりめしをほうばっている若者がいました。
この若者はよその国から流れてきて、下男として働いている茂作という男でした。
茂作は体が大きく働き者でしたが、気が小さく動作がのろいので、いつもみんなから馬鹿にされ“モッソリ”というあだ名で呼ばれていました。

ある日の朝、まだ空に星が消えないころに目を覚ました茂作は、馬小屋から孫太郎を引き出して青山に登りました。
もちろん、誰も来ていません。さっそく茂作は草刈をはじめました。
やがて茂作の背から、真っ赤なお日様がのぼりはじめるころ、馬の背には、もうほとんどいっぱいに草が積まれていました。
それからしばらくして、茂作は自分の背にもいっぱいの草を背負い、山をおりはじめたのです。

ちょうどその時です。
村では評判の美しくて気立ての良いお登代が目の前に立っていました。
お登代は、働き者の茂作に密かに思いを寄せていましたから、今朝早く山へ登っていく茂作を見て、登代はみんなより先に山に登ってきたのです。
「茂作さん、おはよう…」
と、あいさつをしましたが、茂作は日ごろ村人に道に出会っても、ものを言うことができない“ヨソ者”それに、だれもいない山中のことで、驚きと恥ずかしさで、何も言わず大急ぎで孫太郎にムチをあて山をおりはじめました。
しかし孫太郎は、背負った草の重さと急な山道ではどうすることもできず、足を踏み外して崖から落ち、かわいそうに死んでしまいました。

茂作は呆然としていました。
大事な馬を殺しては主人からどんな仕打ちをうけるか知れません。
孫太郎が落ちた崖に座って、ぼんやり考え込んでいました。登代も茂作のそばに座り、何度もなぐさめますが、茂作にはいっこう聞こえるふうではありません。
やがて下のほうから登ってくる若者たちの姿に気がつかなければ、茂作はいつまでもぼんやりそこに座っていました。

若者たちの賑やかな声が近づいてきました。
茂作は、ハッとして大急ぎで山をおりはじめました。若者たちは、駆け下りていく茂作を見て、
「おーう、モッソリ。なにを急いでいるのだ。もちっと、モッソリ、モッソリ歩かんかい」
と、冷やかしました。
しかし、若者たちは、そこにお登代の姿を見つけて急にだまってしまいました。
それは、お登代の美しい目に、涙がいまにもこぼれそうにあふれていたからです。

茂作は、だれにも知られずに村を去りました。

お登代も“ヨソ者”の茂作が好きだったことが、村人たちの噂にのぼることを恐れ、青山から身を投げて死んでしまいました。

そのお登代の霊は、馬に生まれ変わり“青山の馬姫”として、村人たちは不思議な馬を見るようになりました。
ところが“青山の馬姫”のいななきを、ほかの馬が聞いてなくと、必ずその馬は死んでしまいます。
そこで村の人は、青山の馬姫のいななきを、自分の馬に聞かすまいと、馬の耳にたくさんの鈴をつけて野にでるようになったということです。


(注)
茂作の引いていた足を踏み外した岩は、今は馬不越(うまこえず)の岩と語りつたえられています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/05/14 Thu. 10:31 [edit]

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