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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

帰られなかった佛様 

帰られなかった佛様


 むかし、十二苗祖をはじめ。彦島の人びとは西楽寺の門信徒であった。しかし、今ではそのほとんどが、下関の光明寺、了円寺、教法寺と、彦島の専立寺を、それぞれの旦那寺としている。

 今から約三百年もむかしの話。

 寛永十五年(1638年)九州天草の乱で敗れた小西の残党は、海賊に身をやつして玄海を荒らしまわっていたが、ある時、彦島までも襲って来た。
 彦島は、古くから何度も海賊の根拠地されてはいたが、この時ほど大量に、そして残虐な仕打ちを受けたことはなかった。そのため、島の人びとは、相次いで下関に避難することにした。
 折悪しく、その年の春、西楽寺の十九代住職が亡くなったので、本尊である阿弥陀尊、観音様、薬師様も避難して貰おうと、下関の福昌寺(今の専念寺)に預けた。

 島の人びとが疎開して二年後、つまり寛永十七年(1640年)幕府はキリシタンを禁圧する目的から『旦那寺請制度』を設けた。それは、士農工商、すべて、どこかの寺院にその門徒であることを届け出なければならない、という制度で『宗門改め』とも言う。

 彦島から避難していた人びとは、『西楽寺の門徒』であることを誇りにしていたが、廃寺同然となっている西楽寺の名を届け出るわけにもゆかず、仕方なく、光明寺、了円寺、教法寺に、それぞれ一時的な門信徒として申し出ることにした。彦島に残っていた僅かな人びとは、無住の西楽寺に届けることも出来ず、専立寺の門信徒となった。因みに西楽寺は時宗だが、四つの寺院はいずれも浄土真宗である。

 小西党の海賊どもが長府毛利のお殿様に征伐されて、疎開先の人びとが島に戻りはじめたのは、三十五年後の延宝元年(1673年)のことであった。

 ようやく懐かしい古巣へ帰ることの出来た人びとは、早速、西楽寺の門徒に立ち戻りたいと役人に届け出た。しかし、役人は『宗門改め制度は、永代である』と言って、その願いをしりぞけてしまった。
 西楽寺を旦那寺として仰ぐことの出来なくなった十二苗祖をはじめ島の人びとは、せめて福昌寺に預かって貰っている三像だけでも帰島させて欲しいと申し出た。
 早速、阿弥陀様だけが島に帰って来られたが、残る二尊像は、福昌寺が渋って、なかなか返してくれない。おさまらないのは島の人びとだ。人びとはたびたび下関へ渡って、平家の守り本尊だから、是が非でも阿弥陀様と一緒に安置すべきだ、と接渉しつづけた。

 三十年という月日が、またたくまに過ぎた。その間、島の人びとは、かわるがわる福昌寺に出かけて二像返戻を迫った。その熱意に動かされたのか、廃寺同然の西楽寺に新しい住職を迎えるという条件を確かめて、観音様だけが彦島に帰されることになった。それが宝永元年(1704年)のことであったという。

 しかし、残る薬師如来様だけは、どうしても返してくれず、そのうちどうしたのか、福昌寺からも行方知らずとなってしまわれた。

 島の人びとは、ひどく哀しんだが『阿弥陀様は平家一門の冥福と島の平和を祈り、観音様は、光明、了円、教法三山の隆盛を見守って下さる為に帰島され、薬師様は全国各地に隠棲している一門の落人を慰めるために諸国を廻って居られる』と、末永く言い伝えることにしたという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2020/03/09 Mon. 10:27 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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