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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

租借(そしゃく) 

租借(そしゃく)


 むかし、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ、四つの連合艦隊が、馬関海峡を襲うたことがある。
 その前の年、長州さまが、攘夷じゃ、攘夷じゃ、と外国船を砲撃したもんじゃけ、その報復で、やって来たんじゃ。
 元治元年(1864年)八月五日のことで艦隊は軍艦十六隻と、商船一隻、それが二手に分かれ壇ノ浦、前田と長府のお城山を目がけて砲撃した。
 そして、半日もせんうちに前田に上陸を果たして、長州さまは、さんざんな目に遭われてしもうた。
 その上、七日には、彦島を襲撃して弟子待と山床の二砲台を占領したけえ、もう攘夷も何もあつたもんじゃない。とうとう、「講和を結ぼう」ちゅうことになった。

 この時の正使が高杉さまで、家老、宍戸刑馬と変名して、いかにも藩の重臣ちゅうような格好で艦隊に乗り込んで行かれた。副使の渡辺内蔵太には小具足をつけさせ、高杉さまは陣羽織に立烏帽子という芝居がかったいでたちじゃったちゅうから面白い。
 日本人にとっちゃあ、有史以来はじめての敗け戦じゃったが、そんなことはおくびにも出さず、堂々と胸を張って和議に臨んだ高杉さまちゅうお人は、やっぱり天下の傑物と言えるじゃろう。

 さて、休戦の和議は、八日、十日、そして十四日と三回にわたり持たれたが、高杉さまは八日と十四日の二回に出席された。
 そして、四カ国の戦勝者に少しも臆せず、堂々とわたり合って五項目の条約に調印はしたが、賠償金三百万ドルを幕府に支払わせてしまう、ちゅうように、長州さまには一文も損失の無いよう話を進められたから、さすがじゃ。

 この時、イギリス提督クーパーが、さりげない口調で、こう切り出した。

「馬関海峡の西に浮かぶ彦島を租借したい」

 ところが、高杉さまをはじめ、伊藤公、井上公も、「租借」ちゅうのが、何のことやら解らん。そこで、いろいろ質問してみると、彦島を占領する意図のようでもあり、また、無償で貸してほしいちゅうようでもあるので、高杉さまが、真っ赤になって怒った。

「なにっ、租借だと。怪しからん。実に怪しからん。日本の国を何と心得て居る」

 艦内に鳴り響く高杉さまの大音声にクーパー提督は青い目をクリクリ動かしたが、そんな表情には見むきもせんで、つづけて、

「彦島は毛利藩領とはなっているが、大名の領土というものは、天子の土地をお預かりしているだけで、勝手に処置することなど出来よう筈がない。それを、貸せとか、分譲せよとか実に怪しからん」

 と怒鳴り散らし、揚げ句の果てには日本の生い立ちについて、とうとうと述べたちゅうことじゃ。

「そもそも我が日本の国は高天原朝廷七代にまします国常立命にはじまり…」

 タカマガハラ、クニトコタチノミコト、イザナギ、イザナミの二柱、アメノウキハシ、アメノサカホコ…、こんなむつかしい神々の名前が次から次へと出て来るもんじゃけえ通訳の伊藤公とアーネスト・サトウが面食ろうてしまわれた。
 そこでイギリスのクーパー提督も苦笑いして、租借の件は取り下げたんじゃが、もしあの時、高杉さまが正使でなかったら、彦島は香港の対岸にある九竜市のように、イギリスの植民地にされてしもうたことじゃろう。

 何しろ高杉さまは、その前に上海に渡ってイギリス人の横暴振りを見ており、アヘンを売り込んで戦費を作り、香港、広東、上海、南京と侵略して行った常套手段も心得ちょったので、租借、と聞いただけで、怒り心頭に発したことじゃったろう。

 考えても見い。

 この海峡のど真ん中に、九十九年間もの永い間、イギリスの植民地が生まれちょったら、今の日本は有り得んじゃろう。
 高杉さまの大勇断は、彦島だけじゃあのうて、日本にとっても大恩人ちゅうことが出来るいゃのう。

 ほんに、えんにょうごっぽう有りがたいお人じゃ、高杉さまは。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
 高杉さまというのは、高杉晋作。井上公は井上馨、伊藤公は伊藤博文。
 この租借の話については、一般には高杉晋作が、断固これを蹴った、と言われてるが、地元では、その他に「伊藤さんが、高杉さんに進言して彦島占領を頑強に拒んだ」という説と、「井上公が進言して…」という説などがある。

 もともとこの話は、講和条約から四十数年を経て、伊藤博文が関門を通過する船の上で、彦島を眺めながら懐かしそうに語ったことから知られはじめたことになっている。
 その為「彦島租借」について疑いを持っている人びとも少なくない。
 例えば、高杉晋作伝の集大成「東行高杉晋作」でさえ、「あえて伊藤の言を取り上げて事実とするならば」と書いている。
 しかし、伊藤発言の前年に発行された「硯海の楽土」という本にも、この租借については「割譲」という言葉で書かれてあり、また中原邦平という人は「東行先生略伝」に「フランス人の書いた日本海岸の役という本に」租借の件が出ていると記している。
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Posted on 2020/02/04 Tue. 10:52 [edit]

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台場ヶ鼻 

台場ヶ鼻


 夷狄が来た。
 一カ国だけじゃ適わんと見たか、アメリカ、イギリス、フランス、オランダと、四つの国が誘い合うてやって来た。

 こうなりゃあ、長州さまだけにおすがりしちょく訳にゃあいかん。
 百姓も漁師も、みんな率先してお手伝いすることにしたけぇ、彦島の農兵隊は、みるみるうちに大人数になった。
 多い時にゃ、五百人は居ったそうじゃが、弟子待の萩野隊を助けて、よう活躍したちゅうことが、昔から伝えられちょる。

 夷狄が来たなぁ元治元年(1864年)の八月のことやが、亀山、壇ノ浦、前田、城山の、あちこちの砲台が外艦めがけて、どんどんばりばり撃ちはじめた。
 彦島も負けちゃあ居れん。
 山床鼻、弟子待、石ヶ原なんかの砲台も、関に呼応して、やんくも撃って撃ちまくった。おとなしかったのは、西山やら竹ノ子島の連中で、何せ、外艦が見えん所に居るけえ、どねえもこねえもならん。
 遠くで鳴る大砲の音を聞きながら、腕を鳴らして、やきもきしちょったらしい。

 それは長いような短いような何とも知れん一日で、ようようお天道さまが西の海に沈みかけたころ、竹ノ子島六ノ台の遠見が、どひょうしもない大声をあげた。
『オーイ、獅子ノ瀬に人が流されよるぞー』
 その声に藩兵やら農兵やらが台場にあがってみると、まこと、獅子ヶ口から獅子ノ瀬へ急流に押されて人間らしいものが流されちょる。
『誰か助けに行けえ』
『よし、わしが…』
 元気な若者が六人、台場をかけおりて、ドブン、ドブンと海に飛び込うだ。泳ぎにかけちゃあ、達者な者ばかりじゃ。見る間に六人で、その人間を浜に引きあげたが、
『オーイ、こりゃあ佛様じゃあ』
『もう土左衛門になっちょるわい』
『どうも、毛唐らしいぞ』
『佛は紅毛じゃーい』
 六人は口々に、台場に向かって大声に叫んだけえ、みんな浜に降りてみると、まこと、佛は日本人じゃあない。
 何とも奇妙な着物を着て、髪は赤いし、鼻は天狗のように高いし、河豚のシラコのようにブヨブヨと白い。
『長州さまの大砲に当たったんじゅろうか』
 ちゅうて、いろいろ調べたが、どこにも傷らしいものは無い。
 結局、このまま放っちょくわけにもいかんので、台場の脇にねんごろに埋めてユズの苗木を植えたちゅうことじゃ。

 ところが、戦争が終わって講和談判の時、オランダの水兵が行方不明になったちゅう話が出て、ごっぽうこじれたらしいと、そんな噂が流れた。
 竹ノ子島の藩兵やら農兵やらは、早速、話し合うて、
『今後、如何なることがあろうとも、獅子ノ瀬の佛については、一切口外しない』
 と誓い、一書をしたためて血判までしたちゅう話。

 竹ノ子島の六ノ台とはのう、今じゃ、台場ヶ鼻ちゅうて、燈台みたいな潮流信号所が建っちょるあそこのことじゃ。
 信号所の井戸のねき(そば)に大きなユズの木があったが、さて、今でもあるかのう。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
攘夷戦でオランダの水夫が行方不明になった話は事実であるが、それが、この外人の漂流死体と同じであるかどうかわからない。
ところで、竹ノ子島の燈台は、何十年前から電光表示板に変わっているが、旧燈台の初点火は明治四十二年八月のことで、砲台址に建てられた為、正しくは『台場ヶ鼻通航潮流信号所』と命名されている。この『台場ヶ鼻』という地名は地元よりも、むしろ釣り天狗たちの間では、かなり広く知られているようである。
信号所の井戸、それは現在でも残っていて、手押しポンプが取り付けられている。小さな屋根を頂いた手押しポンプは、信号所敷地のほぼど真ん中にあり、灯台も官舎も、それを囲む形で建てられていたが、近年、かなり様子が変わってしまった。
しかし、百年も経つようなユズの大木は、どこにも見られない。
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Posted on 2020/02/04 Tue. 10:22 [edit]

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