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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

佛の瀬 

佛の瀬


 昭和の初めのころまで、小戸の身投げ岩から海士郷寄りのゆるい坂道をくだり切った浜辺に位牌の形をした岩が建っていました。
 この岩のことを彦島の人びとは、むかしから『ほとけ岩』と呼んで、いつも花を絶やさなかったといいます。

 むかし、壇ノ浦合戦のあと、平家の落人は、小門の王城山や彦島などに隠れ、平家の再興をはかっていました。
 しかし、やがてその望みも絶たれてしまいましたので、ある者は漁師となり、ある者は百姓になり、またある者は海賊に身をやつしてゆきました。

 その中に一人だけ、かつての栄華の夢が忘れられず、武人の誇りを守り通そうとする男が居ました。その武士は、百姓、漁師などに身を落としてゆく一門を見つめながら、日夜、悶々として生きていましたが、ついに自分の生きる道をはかなんで、小瀬戸の流れに身を投げてしまいました。

 浦びとたちは、その武士の死をいたみ、大きな墓石を建てて、霊を慰めました。すると小瀬戸の急流に押されたのか、大小いくつもの岩石が墓石のまわりに寄せ集められて、いつのまにか大きな岩礁が出来ました。
 そこで誰いうことなく、墓石のことを『ほとけ岩』と呼び、その周囲の岩礁を『佛の瀬』と呼ぶようになりました。

 ところが、不思議なことが起こりはじめました。というのは、そこを通る漁船から、少しでも白いものが見えたりすると、急に潮流が渦巻いて荒れ狂うようになったのです。
 だから漁師たちは、船に赤い旗を立てて小瀬戸の海峡を航行するようになりました。

 今、船に色とりどりの旗と共に、大漁旗などを立てる風習は、この赤旗のなごりだそうです。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2020/02/29 Sat. 10:36 [edit]

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島が動く 

島が動く


 むかし、竹ノ子島は、二つに分かれて、一方の島には鬼がようけ(たくさん)居ったので、『鬼ヶ島』と呼ばれていた。これは、そのころの話。

『オーイ、大変だぁ』
 鬼どもが集まって酒を飲んでおると、赤鬼が、大声でわめきながら青うなって飛び込んできた。
『どうした、どうした』
『何事が起こったんじゃい』
 鬼どもはゾロゾロ寄って来て、青い顔をしてブルブルふるえ、物も言えん赤鬼を取り囲んで座った。
『出てみい。むこうの島が、こっちいやって来よる』
『バカッ、落ち着けいや』
『むこうの島から、一体、誰が来よるんじゃ』
『いや、違うっちゃ。島が、島がのう、島が動いて、こっちい来るんや。危ないけえ早よう逃げよう』
『こいつ、気がおかしゅうなりおったぞ。ほっちょけ、ほっちょけ』

 鬼どもはゲラゲラ笑いながら、腰をあげて外に出て行ったが、ひょいと砂浜のむこうを見て、ぶったまげた。
 南側の大きいほうの島が、ジワーッ、ジワーッと、こっちに近づいて来よったからだ。それだけじゃない。鬼どもが住んでおるこっちの島も、コソリッ、コソリッと動いちゃあ向こうに近づきつつある。眼を広げてよう見ると、むこうの島は、波までけたてて、速度を早めたらしいので、さあ大変。

 赤鬼も青鬼も、みんな青うなって、青鬼の奴なんざあ紺屋の紺つぼに落ち込んだように青うなって、ころげて逃げた。
 どいつもこいつも我さきにと浜の舟に飛び乗って、慌てた奴らがゴチャゴチャに漕ぎはじめた。平常から悪いことばかりして居る鬼どもは天罰てきめん。
 北へ逃げた奴は『螺ノ瀬』にぶつかって全滅、南へ漕いだ舟は『獅子ヶ口の瀬』に呑まれて、みんなオダブツ。

 それまでは、鬼の居る『鬼ヶ島』と、人間の住む『竹ノ子島』の間は、だいぶ離れておったが、この二つの島はその日から一つになって、それでも、まだこまぁい(小さい)竹ノ子島が出来た。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2020/02/28 Fri. 08:35 [edit]

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小瀬戸の海ぼうず 

小瀬戸の海ぼうず


 関門海峡は、むかし二つに分かれておって、それぞれ、大瀬戸、小瀬戸と呼ばれたものじゃ。

 そのころ、小瀬戸の潮のながれは日本一はやかった。だが、どんなに早ようても、一日に何回かは、かならず流れが止まる。そのときを見はかろうて、漁師たちは舟をだした。


 ある、霧のふかい朝のこと。
 小瀬戸に近い浜辺の漁師が舟をだそうとすると、波うちぎわに大入道がすわっておった。
『うわあっ』
 漁師はびっくりして、ころげるように逃げかえった。そして、家の戸をぴたっと閉めて、しばらくがたがたとふるえておったが、おちついて考えてみると、大入道のようすが、どっかおかしかったことに気がついた。なんだか、もがき苦しんでおったようにも思える。
『もしも病気なら、よもや食いつきはすまい』

 漁師は、ひとりごとを言いながら浜辺にとってかえし、こわごわと大入道をのぞきこんだ。
『いったい、どうしたんじゃ。どこか、気分でもわるいんか』
『うん。頭のうしろに、なにやら刺さっちょるらしい。ゆんべから、痛うてやれん。すまんが、抜いてくれんか』
 大入道の声は、思うたよりも、ずっとずっとやさしかった。
『おまえさんがあんまり大きゅうて、わしにはなんも見えんが、背中にのぼってもええかいの』
『うん、ええけ』

 漁師が、おそるおそる大入道の背中によじのぼってみると、もり(さかなをつきさす鉄製の道具)が、頭に突き刺さっておった。
『これじゃあ、痛いはずじゃ。誰ぞの流したもりが、刺さったんじゃろう』
 力を込めて引き抜いてやると、大入道は、
『うーん』
とひと声うなって、気絶してしもうた。漁師は大急ぎで家にかえり、いろんな薬をもってきて、頭の手あてをしてやったんじゃと。

 しばらくたって大入道は、ようやく気がついた。そして、うれしそうに顔をあげて、ゆっくりと、こう言うた。
『わしは、この小瀬戸に住む海ぼうずで、むかしから、潮の流れを止める役目をつとめちょるが、傷がなおるまでは、それもできんじゃろう。ほいやけ、きょうから四、五日のあいだは、だれも舟を出さんよう、浜の衆に伝えてくれ』
 言いおわると大入道は、すうっと海に消えてしもうた。

 漁師は家にかえって、村の衆にそのことを伝えたが、誰も信じるものはなかった。それどころか、
『なにを寝ぼけたことを言いよる。潮は、むかしから、決まった時間にとまることになっちょるわい。それ、もうすぐ、その潮どきじゃ』
 と言うて、次々に舟をだして、漁にでかけたそうな。

 ところが、いつもの時間になっても、きょうに限って潮の流れは、いっこうに止まらん。どの舟も、どの舟も、日本一はやい小瀬戸の潮の流れに巻きこまれて、またたくまに海に沈んでしもうた。
 四、五日たつと、大入道の傷がなおったとみえて、いつものように、潮が止まりはじめた。だが浜の人たちは、
『舟が沈んだのは海ぼうずのせいじゃ。こんなおそろしいとこには居れん』
 と言うて、よその土地へ逃げていった。

 たったひとり残された漁師は、ときどき浜辺に遊びにくる大入道を話し相手にして、いつまでも、楽しく暮らしたという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2020/02/27 Thu. 12:47 [edit]

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お夏ダコ 

お夏ダコ


 西山に、お夏という娘が居た。娘の家は漁師だが、大変貧乏で、その上、両親がとかく病気がちで寝込むことが多かった。お夏は自分の手一つで家計を支え、朝早くから海に出て働かなければならなかった。

 ある寒い日のこと、お夏がいつものように海岸でワカメをとっていると、岩の肌に異様なものがからんでいた。それは、人間よりも大きなタコだった。お夏は、ギョッとしたが、こんな立派なタコを両親に見せると、どんなに喜んでもらえるかわからないと思い、さっそく、抜き足さし足で岩に近づくや、手早に鎌でその足を一本だけ切りとり、うしろも見ずに家に帰った。

 あまり大きな足なので、むろん両親にも食べさせたが、残りはぜんぶ近所の人に分け与えた。ほほが落ちるほどおいしかったので、みんなに喜ばれた。

 そのあくる日、お夏がまた海岸に出てみると、昨日の大ダコが傷あともなまなましく、同じ岩にからみついていた。お夏は今日もまた一本だけ足を切り取って帰り、みんなを喜ばせようと思った。忍び足で、ジリ、ジリッと岩のそばに近づいた。
 ところが、やにわにおどり上がったタコは、お夏にかぶさるように襲いかかった。お夏は逃げるまが無く、ついに七本の大きな足で、がんじがらめに巻きつかれてしまった。そして海の中へズルズルと吸い込まれていき、その明くる日も、また明くる日も、ついに大ダコは現れず、お夏のなきがらも見つからなかった。

 それからというもの、この海岸では、どんな小さなタコも『お夏ダコ』と呼び、ここの漁師たちは、そのたたりを恐れてか、この付近のタコを決して口にしなくなった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2020/02/26 Wed. 10:18 [edit]

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桃崎稲荷大明神 

桃崎稲荷大明神


 かつてこのあたりは小瀬戸の風景の中でも最も美しい場所と言われており、対岸には高級料亭が軒を並べ、漁船に篝火をともし、捕れたての魚を客に振る舞う船遊び(小門の夜焚)も盛んでしたが、大正から昭和にかけて現在の大和町付近の大規模な埋め立てが行われ、潮の流れが変わってしまい、今はもうその面影もありません。
 その一角にあるこの身投げ岩は緑の木立を背景にいくつもの巨岩が屹立している場所で、地形的には老の山の山かげにあり、入り組んだ細い路地の奥なので通行人もほとんどなく、身投げ岩の存在は一般にはあまり知られていません。

 12世紀後半の源平の時代、ここ彦島は平清盛の息子、平知盛の所領地でした。当時平家は木曽義仲によって京都を追われ、瀬戸内や九州各地を流浪する身となっていました。寿永4年(1185)2月、屋島の合戦で敗れた平宗盛を総大将とする平家一門は、平知盛が平定した瀬戸内や、九州の平家方を頼りにして体制の立て直しを計ろうとして、瀬戸内の西側の守りの要衝である彦島にやってきました。

 彦島は平知盛の築いた彦島城を中心とした平家の要塞となっており、一門を追って西下してくる源義経を迎え撃つ準備が着々と進められました。そして、寿永4年3月、源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いが起きるわけですが、この戦いに平家方はここ彦島の福良(現在の福浦港)を最期の出船の港とし、海峡の潮の流れを知り尽くした猛将平知盛の指揮のもと天皇の御座所を持つ巨大な唐船をはじめとした多くの船で次々に海峡に出ていきました。
 安徳天皇に付き添った祖母二位の尼(時子)や母建札門院(徳子)をはじめとする女性達も多くが一門と共に船出しましたが、平宗盛は女性には自分たちと共に戦に出ることを強制せず、希望する者は一門から離れて島に残ることを許しましたので多くの女性が島に残って戦いの行方を島影で息を殺して見守っていました。

 壇ノ浦の合戦は、当初は潮の流れを借りた平家方が優勢でしたが、四国や九州から参戦していた郎党の相次ぐ離反や、当時の舟戦のルールを破って、平家方の船の船頭を次々に射殺して船の自由を奪う作戦に出た源義経の奇策によって、朝から始まった戦は夕刻には平家の敗色が濃くなっていました。

 運命を悟った平家一門が男と言わず女と言わず次々に壇ノ浦に入水して源平の最期の合戦は源氏方の勝利で終わりました。
 このとき、安徳天皇は祖母二位の尼に抱かれて入水し、天皇の象徴である三種の神器のうちのひとつである宝剣も失われました。

 戦が終わり、源義経を総大将とする源氏軍は串崎(現在の長府外浦)、赤間関(現在の唐戸付近)、彦島に次々に上陸しました。「新平家物語」によると義経は彦島に、梶原景時は串崎に上陸して仮の住まいをしつらえたとされています。源氏軍は京都を出て以来の、瀬戸内の凶作による食糧難や、義経得意の不眠不休の強行軍のために、軍のモラルは非常に低下しており、上陸した兵士の多くは半ば暴徒と化して、民家の倉や田畑を荒らし回りました。

 平宗盛に暇乞いをした京都の女官や雑仕女(ぞうしめ)たちは、島内の平家一門の住居跡や漁師の家にかくまわれるなどして潜んでいましたが、彼女たちは、ここまで日夜、戦に明け暮れてきた暴徒達の格好の標的となり、源氏の兵士達は許されざる陵辱の限りを尽くしました。多くの女性は乱暴を受けた後に殺され、また、誇り高き平家の女性達は命だけは助けられてもその多くは自ら命を絶ちました。

 ここ身投げ岩近辺は彦島の中では壇ノ浦からはもっとも遠く離れた地であり、義経が占領した御座所(彦島城)からも遠く離れた寂しい漁村でしたので、特に多くの女性達が隠れていました。したがって、被害にあった女性ももっとも多く、彼女たちはある者は源氏の兵の手から逃れるため、ある者は受けた辱めに耐え切れず、次々にこの身投げ岩の断崖から当時日本でもっとも流れの速い海峡だったこの小瀬戸に身を躍らせたのでした。

 彦島で細々と漁師を営んでいた男達は、島の人々を非常に大切に扱った知盛のお役に立てるなら・・・と、平家の軍船の舵取りや水先案内人として一門に同行しました。
 それまでの水上戦の常識であれば、彼らのような現地で雇われた水夫達は、たとえ平家が滅ぶとも、命だけは助けられるのが当然でしたが、義経の奇策によって、源平の争いにはなんら関係のない彼らまでもが皆殺しにされ、また、島に残った女性達もその源氏の兵士達の傍若無人な振る舞いによって多くが命を落としました。

 現在の島には源氏にまつわる史蹟は何一つ語り継がれておらず、源平の合戦から800年がたった今でも、この地は強烈な「平家贔屓(びいき)」の地として、平家の哀話が大切に語り継がれています。
 平宗盛が早々に放棄して逃げたため、源氏軍の滞留がなく、彦島ほどの被害を受けなかった屋島(香川県)には源氏に関する史蹟が数多く残されて、今では観光資源として扱われているのとは非常に対照的です。
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Posted on 2020/02/25 Tue. 10:25 [edit]

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