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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

与次兵衛ヶ瀬 

与次兵衛ヶ瀬


 むかし、弟子待の沖、大瀬戸の海に『死の瀬』と呼ばれる暗礁がありました。この瀬は潮が満ちれば波間に隠れ、干けば現れるほどのもので、むかしから座礁騒ぎの多い所でした。

 文禄元年(1592年)七月二十二日、太閤秀吉は海外出兵のため、肥前名護屋(佐賀県)に居りましたが、母の急病を聞いて大急ぎで帰阪の途につきました。
 秀吉の御座船は日本丸といって、朱塗りに金銀をあしらい、二階建ての屋形船で、約六十メートルもある大きな船でした。

 日本丸がこの大瀬戸にさしかかった時です。どうしたことか、この海峡の航行には慣れている筈の船頭、明石与次兵衛が、その操縦を誤って御座船を死の瀬に乗り上げてしまったのです。船は大きく傾き、まさに転覆しようとしています。秀吉の家来たちは、主君を助けることも忘れて、自分の逃げ道をさがすことで、上へ下への大騒ぎになりました。

 その時、秀吉のおそばについて離れず沈着な行動をとったのが、長府の初代のお殿様で、御年わずか十四歳でした。
 長府のお殿様は、素早く秀吉を船から救い出し、暗礁の一つの岩に立って、船頭たちをはげまし、救出の命令をくだしました。
 下関のあちこちの浜辺から何十隻という船がでました。その時、一番乗りをしたのが、彦島の二代目庄屋、河野弥左衛門です。
 弥左衛門は身近に居る人びと二十人をつれて死の瀬へ向かい、岩の上で、素裸のまま、二本の大小を下帯に差して救出を舞っていた秀吉を、無事、救い出しました。
 弥左衛門はその時の功績をほめられて、秀吉から金千疋という賞金を戴き、長府のお殿様は、正四位上持従に叙せられ、羽柴の姓を貰い、さらに甲斐守と称することを許されました。
 それで終われば、すべて、めでたし、めでたし、という訳ですが、世の中というもの、なかなかそうはゆきません。

 日本丸の船頭、明石与次兵衛は、門司大里の浜で秀吉の訊問を受けました。
 与次兵衛は、こう申し立てました。
『あなたが様が頼みとしている毛利輝元公は、いまだに、事あらばという野心を抱いて居り、中国路の諸大名はことごとく毛利氏についています。今、山陽の岸に近づくことは実に危険で、だから難所とは知りながらこの瀬の外を通ろうとして、座礁いたしました』
 その時、秀吉のそばに居た従者が秀吉に耳うちしました。
『与次兵衛というのは実は仮の名で、本当は北条家の執権、松田尾張守の五男ではないでしょうか。だとすれば殿に恨みの一刀をあびせようと計ったとも考えられますが』
 その一言で、秀吉は与次兵衛の申し立てを偽証と見て、その場で打ち首にしてしまいました。


 その後、いつの頃からか、『死の瀬』のことを『与次兵衛ヶ瀬』と呼ぶようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は、いろいろな説がある。例えば『打ち首』に対して、『何のおとがめも無かったが、門司の浜で自分から切腹して果てた』というのもその一つである。
その後、寛文十年(1670年)彦島の人びとが浄財を集めて『死の瀬』に石塔を建て、『与次兵衛ヶ瀬』と名付けたという。
旧記によれば、植田惣市という人が建てたことになっているが、これが寛文十年の石塔であるかどうかは解らない。しかし、この石塔は、海峡を航行する船舶から非常に重宝がられ、いつの頃からか、通航料を置いていく船も出はじめた。
ところがこの碑も、明治四十三年、関門航路修築の際に取り除かれ、その後、大正三年以来、彦島弟子待に放置されたままであったが、いつのまにか下関唐戸桟橋近くの岸壁に移され、それからまた第四港湾建設局の構内に保管されることになった。保管といっても、いつ見てもゴロンと横にころがったままであったが、昭和二十九年、門司側が引き取って、さっさと、めかり公園に建ててしまった。
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Posted on 2020/01/18 Sat. 09:29 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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