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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

最後の庄屋 

最後の庄屋


 彦島の庄屋は、むかしから代々、河野家が継いでおったが、いつのころからか、どうしたいきさつがあったのか、それが和田家に変った。

 庄屋の屋敷は専立寺に隣接して、それはそれは広壮なものであった。

 明治・大正から昭和の初めにかけて、彦島の庄屋は和田耕作という男で、実際には庄屋という役職も既に無くなっておったが、人びとは『庄屋の耕作』と呼んだ。
 耕作は、生まれつきの大風呂敷で、なまけ者であった。
 若い頃から決まった職には就かず、いつもぶらぶら遊んでばかりで、親が残してくれた財産を次々に食いつぶしてゆく始末。
 田や畠、それに山林などもどんどん減っていったが、耕作はのほほんと遊び歩いた。そして好き放題にホラを吹きまくった。

 耕作が二十歳の頃のこと、村の若い衆を集めてこう言うた。
『ワシャあ、彦島と関の間を埋めて地続きにしようと思う。明日から東京にのぼって内務省の役人にワシの計画を話して許可を取ってくる。何千円かかっても、何万円かかっても、ワシはやるぞ』
 若い衆たちは、また耕作のホラがはじまった、と笑いながら帰っていったが、その翌年、内務省が『小瀬戸海峡埋め立て計画』を発表したもんで、誰も驚いた。

 またある時、
『彦島に大会社を誘致しようと思うて、今は忙しゅうてならん。昨日も、渋沢栄一と会うてその話をして来たばかりじゃが、どうやらまとまりそうな空気になったよ』
 と、ふれ歩いた。誰も信用しなかったが、半年もしないうちに、大阪硫曹と大日本人造肥料という二つの会社が、福浦湾を視察して工場設立の準備にかかったので、
『庄屋は私財を投げうって彦島の為につくしてくれよる。今まで、ノウタレと陰口を叩いてきたが、ほんに悪いことを言うたものじゃ』
 と、ささやきおうた。

 すると耕作は余計に調子に乗って、
『乃木将軍とワシは懇意でのぅ、この前も東京で会うた時にゃあ、肩を叩き合うて語り明かしたものじゃあ』
 と、口からでまかせにしゃべって歩いた。少しずつ耕作を信用しかけておった人びとも、これにはあきれて、誰も相手にしなくなってしもうた。すると耕作は、むきになって、
『嘘じゃない。そのうち将軍が関に来られたら、皆なの前で訓話して貰うように連絡をとっちょくよ。その時になって、あっと驚くな』

 それから何年かたって、明治四十年一月元旦、乃木将軍が長府に里帰りされた。すると耕作は、その前、約一ヶ月、どこへともなく姿を消しておったが、ひょっこり戻ってきて、
『将軍の件じゃが、ワシャあ、一生懸命頼んだんじゃが、将軍もなかなかお忙しそうで、どうにも時間がとれん。そこで小学生だけを集めて長府で話をしようということになった。志磨小学校(現・本村小学校)からも代表が行けるけえ、それで堪忍してくれえや』と人びとに了解を求めて回った。
 将軍の訓話は一月五日、長府の豊浦小学校校庭で行われ、耕作の言う通り、彦島からも代表が出かけて聞くことができた。

 それからというもの、耕作は有頂天にかって、ホラの吹き通しであったが、明治大帝がお亡くなりになり、乃木将軍の殉死が伝えられると、その日から、また姿を消してしもうた。

 二年か三年、耕作は家をあけたまま、どこへ行ったのか、その消息さえもわからなかったが、ある日、ひょっこり戻ってきてそのまま寝込んだ。
 病気の様子でもなく、毎日ごろごろ寝転んでばかりじゃったが、人びとが訪ねて行ってもあまりしゃべろうとせず、まるで人が変ったようであったという。

 大正八年、長府に乃木神社が出来ると、耕作は五日ごとに長府まで歩いて行ってその拝殿にぬかずいた。
 相変わらず、決まった仕事にはつかず、色町などで遊び呆けておったが、以前とは違うて、何故か耕作はホラを吹かなくなった。

 また、何年かが過ぎていった。

 ある日、村の人が下関から戻って来て、
『庄屋は大したもんじゃのう。乃木さんに大鳥居を寄進したちゅうじゃないか』
 と、ふれまわった。
『そんな馬鹿な。もしそれが本当なら、庄屋は何年も前から鳥居の話を大げさにしゃべり歩いちょる筈じゃ』
 人びとは殆ど信用せんやったが、下関あたりでは、その噂でもちきりちゅうことを聞いて、何人かで長府まで確かめに行くことにした。

 行ってみると、まことまこと、乃木神社の正面参宮道路の入り口に花崗岩の大鳥居が建っておって、『和田耕作』と奉納者名が彫られてあり、その上、献歌まで刻まれてあった。
『立派な石鳥居を寄進なすって、あれは、相当、お金をかけたものでしょうな』
 人びとは島に帰って耕作に訊ねたが、耕作は何も答えず、ただ笑ろうておるばかりであった。

 大風呂敷が、風呂敷を広げなくなると、人びとは却って寂しゅうなり、時には気味悪がって、庄屋屋敷へは、あまり立ち寄らなくなってしもうた。

 その後、耕作は売る田地が無くなり、家財まで売り払い、昭和のある日、保険金目当てに、庄屋屋敷に火を放ってしもうた。
 耕作夫婦は捕らえられ、子どもがおらんやったことから、さしもの大庄屋も、その日を最後として、完全に没落消滅する破目になった。

 何百年と続いた彦島の庄屋は、その広大な田地森林、屋敷、財産すべて、最後の庄屋、和田耕作一代で食いつぶされ、使い果たされ、そして子孫まで失のうて、見事に絶えてしもうたんじゃとい。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
和田耕作の逸話は実に多い。
しかし、それを明かすのは、まだ時間的に早すぎるようである。
内務省埋め立て工事、福浦湾の工場誘致などは、和田耕作の功績でも何でもない。
ニュースにうとい離島の人びとを、持ち前の早耳を利用して面白がっていたにすぎない。
乃木将軍訓話の際にも、小学生を集めるという噂を聞いて慌てて戻って来て自分の手柄のように話したのであろう。
だからこそ、将軍殉死の後は、前非を悔いて、人が変ったようになってしまったに違いないのだ。
縁もゆかりもない和田耕作が、乃木神社に石鳥居を寄進したのは、その刻字によれば、大正十二年九月十二日となっていて、鳥居に刻まれた歌は次の一首。

枝も木も みきも残らず朽ちぬれど
 かをりは高し 乃木の一木

  和田耕作
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Posted on 2020/01/31 Fri. 12:13 [edit]

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眼龍島 

眼龍島


 彦島江ノ浦沖の巌流島は、武蔵、小次郎の決闘の地として知られているが、ほかに『眼龍島』とも呼ばれ、次のような話がある。

 むかし、長門の国に、眼龍という杖術の名人が居た。杖術とは、剣の代わりに樫の丸木杖を使う武道の一つだ。
 丁度その頃、九州豊前にも、弁という太刀使いが居て、俺は天下一の剣士だ、と自慢し、ことあるごとに海を渡って来ては、眼龍の門弟たちに嫌がらせをしていた。
 そんなことが度重なって、とうとう堪忍袋の緒を切った眼龍は、弁に使いをおくり、杖術が強いか、太刀が勝るか、一度決着をつけよう、と申し込んだ。
 場所は、長門と豊前の真ん中に横たわる舟島だ。

 さて、いよいよ決闘の日が来た。

 眼龍は、長門赤間ヶ関の浜から小舟で舟島に渡った。その時、多くの弟子たちが、師と共に島に渡りたい、と申し出たが、眼龍は、
『一対一の勝負ゆえ、それには及ばぬ』と断った。
 弟子たちは仕方なく、対岸の彦島に渡って、舟島の様子を見守ることにした。そこが、今の弟子待町という所だ。

 たった一人で渡った眼龍に対して、豊前の弁は、もともと卑怯な男で、多くの弟子に囲まれて待っていた。
 いかに杖術の名人といえども、その多人数に、眼龍ひとりが、かなう筈はない。
 それでも臆せず、眼龍は正々堂々闘って敗れた。

 この試合の噂は次々にひろがり、心ある人びとの手によって、舟島に眼龍の墓が建てられ、そのうち誰いうとなく、舟島のことを眼龍島と呼ぶようになった。

 ところで試合に勝った弁は、卑劣な振舞いから、多くの弟子たちに逃げられ、道場も閉めざるを得なくなり、豊前小倉の延命寺の浜辺で、何者かに殺されてしまった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は、現在でも少数ながら信じて疑わない古老が居る。
ここで面白いことは、他の話がすべて、下関から舟で渡ったのが武蔵となっているのに対し、眼龍が長門の住人であったことから、その立場を逆にしていることである。
世間では殆ど知られていない眼龍の話が、毛利家文書の『旧山陽道行程記』にも書かれてあるという。
この話などは『平家びいき』『小次郎びいき』で知られるこの地方の人びとの心情がよく出ているように思われる。
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Posted on 2020/01/30 Thu. 10:42 [edit]

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舟島怪談 貝のうらみ 

舟島怪談 貝のうらみ


 むかし、舟島に若者がたった一人で住んでいました。若者は、島のまわりで仰山とれる貝を売って、その日その日を暮らしていました。このあたりでは、浅利、蛤、馬刀貝はもちろんのこと、一尺四方もある帆立貝や、面白い形をしたコウボ貝にツウボ貝なども鍬を打ち込んだだけで、ざくざく採れました。

 ある夏の夕凪ぎのひどい夜でした。

 じっとり汗ばむ寝苦しさに悶々としていると、トントンと裏戸を叩く者が居ます。
『こんな夜更けに、一体誰だろう』
 眼をこすりながら出てみると、十七、八の美しい娘が立っていました。
『夜分おそく、すみません。でも、ちょっとお話があるんですけど、入れていただけませんでしょうか』
 娘はうつむいて言いました。若者は、その美しさに魅せられて、何を言われたのかも解らず、しばらくぽかーんとしていましたが、ふと我に返って奥に通しました。

『一体…… 今頃…… あなたは…… 来たんでしょ……いや、どこから来たんでしょうか』
 若者は、しどろもどろに訊ねました。しかし、娘は、畳に三つ指をついたまま、黙って答えません。何を話して良いか判らず、若者は戸惑って、おろおろするばかりでした。
 例年にない蒸し暑さのせいだけでなく、ひたいにも背中にも、じわーっと汗が吹き出してきます。二人は黙ったまま、しんしんと更けてゆく夜の音を感じていました。

 と、娘が、はずかしそうに顔をあげ、小さな声で、それでもはっきりとこう言いました。
『私を、あなたのお嫁にして下さい』
 仰天する、というのは、この時の若者の驚き振りを言うのでしょう。彼は、目の前の、夜目にも白く美しい娘の顔をぼんやり見つめながら、口をもぐもぐとさせるばかりでした。
 闇のむこうで、娘はにっこり笑いました。そして、頬を紅潮させながら、そっと寄りかかってきました。娘の甘い香りが二人をあたたかく包んで、若者は病人のように力なく手をのばして、その肩を抱きました。

 それからのことは覚えていません。何か恐ろしいような、嬉しいような、そんないぶかりの中に、天にも昇るような喜びがあったような気がします。
 そして、いつのまにか、若者は眠っていました。

 あくる朝、ふと眼をさますと、昨夜の娘はどこにも居ません。家の中も、いつもと変ったところはなく、
『ゆっぱり、あれは夢だったのか』
 と、がっかりしました。でも、まぶしい朝の光を仰ぐと、若者は急に元気を取り戻し、いつものように漁に出かけました。

 夜になりました。若者は早くやすんで、昨夜の夢のつづきを見ようと、寝床に入りました。寝苦しい夜で、汗ばむ体をもとあましながら、何度も寝返りを打ちました。それでも、昼間の疲れがどっと出てきて、いつのまにかウトウトしかけていました。
 何か音がしたような気がして、若者は眼をさましました。耳をすましていると、裏戸を小さくトントンと叩く者が居ます。心をはずませ外に出てみると、昨夜の娘が眼を伏せて立っていました。
『ああ、あなたは… 夢ではなかったんですね』
 若者は娘の手をとり、喜びを満面に溢れさせて、奥に引き入れました。

 そんなことが毎晩つづき、夜の明けないうちに、娘はどこへともなく帰って行きます。娘が一体、どこからやって来るのか、そしてその名前さえも若者は知らないままでした。
 それに気がついたのは、お盆が過ぎて秋風の立ち始めたころです。ある夜、若者は、いつものような甘い語らいのあとで、娘の素性を訊ねました。
 すると娘は、はじかれたように後ずさり、若者の顔をじっと見つめて、しばらくは黙ったままでした。やがて娘は、か細い声で言いました。
『私が、どこから来て、どこへ帰ってゆくのか、何も聞かないでください。それを話してしまえば、私はもう、ここへは来られなくなります。それが悲しくて…』
 そう言って娘は泣きくずれました。何度もしゃくりふげるその肩をやさしく撫でながら若者は、娘をいとしく思いはじめていました。

 それからというもの、若者は何も訊ねず、ひたすら夜を待ち、楽しいひとときを過ごすことに没頭しました。

 秋が過ぎ、厳しい冬になりました。もう近頃では漁に出ることもなく、昼間は夜のつづきの夢を見て、若者はのらりくらりと生きるようになっていました。その上、娘に精を吸い取られてしまったのか、次第にやせ細ってゆくようでした。

 みぞれの降るある夜、若者はとうとう体をこわして寝込んでしまう羽目になりました。それでも娘はトントンと裏戸を叩き、すーっと入って来て、若者の枕辺に座りました。そして、いつものように眼をふせたまま、そっとにじり寄って来るのです。
『今夜は、もう駄目だ。しばらく、そっとしておいてくれ。そのうちまた元気を取り戻すから』
 さすがの若者も力無く、そう言って眼をつぶりました。

 すると娘は、にっこり笑って勝ち誇ったように口を開きました。
『今だから申しましょう。私は、この浜に住むツウボ貝です。私には末を契ったコウボ貝が居ました。いつも私たちは、仲良く波乗りをしたり、砂にもぐったり、潮のかけっこをしたりして楽しく暮らしていました。ところが、夏が近づいたあの日、そう、あの霧雨の降る夕方です。あなたは私の大事なひとを鍬で叩き殺してしまいました。私は、その仇を討つために…』
 そこまで言って、娘は、また笑いました。しかし、その笑顔は、口元だけが少し動く程度の、ぞっとするような冷たさがあったといいます。そして、声までが老婆のようにしわがれて低く、若者のはらわたをえぐるように響きました。
『私は、その仇を討つために、夜毎、あなたのもとに通って来たのです。あなたは、日に日に、やせおとろえてきました。でも、まだ当分は死にません。このまま動くことも出来ず、死ぬことも出来ず、しばらくの間、苦しみを味わうことです。それでもまだ私の恨みは晴れませんが、私も、もう力つきてしまいました。だから…』
 酒に酔ってでもいるように、娘はゆっくり立ち上がりました。その眼には二筋の涙が、暗がりの中にもはっきりと見えたそうです。
『だから、海へ戻って、いとしい方のそばへ参ります』
 そう言い終えると、すーっと娘の姿はかき消えました。

 それから何ヶ月もの永い間、若者は寝たままで生きつづけました。
『ツウボ貝も、コウボ貝も、俺は、あんまり採りすぎた。知らなんだ、知らなんだ。ツウボ貝も、コウボ貝も…』
 朝も、昼も、夜も、毎日毎日、若者は、そんなウワゴトを言いつづけ、そして飢え死んだということです。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
コウボ貝というのは、通称ミル貝のことである。
巌流島の沖合いから田ノ首を経て福浦湾まで、今でも海底の粘土質の中から多く採れるが、これは捕獲を禁止されている。
先年も、ミル貝を乱獲して売り捌いた男が密漁容疑で捕らえられたという記事が新聞に出ていた。
ツウボ貝というのは、瀬戸貝、あるいは貽貝と呼ばれ、地元では夫婦子貝とも呼んでいる。
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Posted on 2020/01/29 Wed. 10:04 [edit]

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舟島怪談 消える血のり 

舟島怪談 消える血のり


 おらが心と巌流島は
  他に気がない待つばかり

 と、俗謡に唄わ すれるこの島が、『ほかに木がない、松ばかり』であったころは、まだ多くの松ノ木を青々と繁らせていました。

 ある年の、春浅い日のことです。近くの漁師が、舟島の沖合いで魚を釣っていると、
『オーイ』
 松林の中から呼び声が聞こえてきました。漁師は、あたりを見回しましたが、自分のほかには舟も人影もありません。しかし、呼び声は何度も繰り返されて聞こえてきます。
 漁師は不思議に思いながら、声のするほうへ舟を漕ぎ寄せ、舟島にあがってみました。
 すると一本の松の大木に、色白の若者が寄りかかるような形で死んでいました。よく見るとその額は、ぱっくりと割られています。
 驚いた漁師は、それでも気丈な男で、若者の死体を舟に乗せ、あわてふためいて浦に帰りました。ところが、さて死体をおろそうと菰を取ってみると、いつのまにか消えてしまったのか死体がありません。しかし、舟板にはベッタリ血のりがついていました。
 漁師は、舟が大波にゆられた時にでも、海に落としてしまったのだろうかと、いぶかりながら陸にあがり、仲間を集めて戻ってみますと、今度は、そこに付いていた血のりさえも、いつのまにか、かき消されてあとかたもありません。

 浦の漁師たちは、毎年、春が近くなると、必ず誰かがそんな経験をもっていましたので、
『ああ、また今年もか』
 と、恐れおののいて、その翌年からは、冬が去りはじめたころ、舟島からどんな呼び声が聞こえてきても、決して島に近づかなかったといわれています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2020/01/28 Tue. 10:03 [edit]

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舟島怪談 石の塔 

舟島怪談 石の塔


 むかし、彦島の農家の人たちは、どの家も舟を持っていて、畠の肥料にする海藻を採りに北九州の若松方面まで出かけていました。
 その海藻採りのことを『藻切り』あるいは『藻刈り』と言っていましたが、その藻切りに出かける前の日の夕刻、人びとは舟島の石の塔を眺めてから、行くかどうかを決めたといいます。
 それは、石の塔が、鎌崎の鼻から見える日と見えない日があったからです。
 人びとは、春から夏へかけて石の塔が見えれば、翌朝は雨か嵐になり、ぼんやり霞んでいたり、さっぱり見えなければ、あくる日は快晴なので藻切りの準備に取りかかりました。
 そしてまた、秋から冬にかけては、石の塔が見えれば、翌朝は晴れで、見えなければ時化るといってミノを出したと伝えられています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話について、ある古老は『石塔が赤く燃えていれば、春は時化、秋は好天で凪ぎ、というて、藻切り舟は大正の終わり頃まではあった』と、話してくれた。
一種の気象俚諺であるが、言外に小次郎の哀れさが感じられる話である。
石の塔というのはおそらく、その墓をさしているのであろう。
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Posted on 2020/01/27 Mon. 10:53 [edit]

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