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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

巌流島と弟子待 

巌流島と弟子待


 佐々木巌流は、名を小次郎と呼び、生まれは東北の人でした。物干し竿のような長刀と『つばめ返し』で知られる剣の達人ですが、縁あって小倉の藩主に仕え、師範役をつとめられていました。

 そのころ、剣にかけては天下一と言われた宮本武蔵が、諸国遍歴の途中、たまたま小倉に立ち寄り、古くから懇意にしていた長岡佐渡の屋敷に滞在しました。

 ある日、武蔵は、名高い小次郎のことを耳にして、
『巌流佐々木小次郎と真剣勝負をしたいが、いかがなものでしょう』
 と、佐渡に話しました。佐渡は、
『それは面白い。是が非でも実現させよう。殿には、私から頼んでみよう』
 と早速、藩主にその旨を願い出ました。すると藩主も大いに喜び、
『勝負は四月十二日、場所は舟島がよかろう』
 と、即座に許しました。舟島というのは、彦島の沖合に浮かぶ小さな洲のような無人の小島で、帆掛け舟に似ているとろこから、そう呼ばれていました。

 ところが、果たし合いの許しが出た翌日、どうしたことか、突然、武蔵は小倉から姿を消してしまいました。
『見ると聞くとは大違い。二刀流の剣豪と言われた武蔵は、佐々木様の剣技に恐れをなして逃げてしまったらしい』
 そんな噂が巷に流れはじめたので、長岡佐渡はこれを無念に思って、八方手をつくし武蔵を捜しました。そしてようやく、下関の船宿、小林太兵衛の二階にひそんでいる武蔵を見つけることが出来ました。

『藩主の許可を得たというのに、なぜ、無断で雲隠れしたのか』
 こみあげて来る怒りを抑えて、佐渡は訊ねました。すると武蔵は、静かに微笑みながら言いました。
『当日、もし私が小倉から舟島に向かうとすれば、巌流は藩主殿の船に乗り、私はあなたの船に乗ることになるでしょう。そうすれば、どちらが勝っても負けても、あなた達は君臣の間柄ゆえ、気まずい思いをなさるでしょう。ですから私は、自分勝手に下関から島へ渡ることにしたのです』
 それを聞いて佐渡は安心しましたが、その話はまたたくまに小次郎の耳にも入りました。しかし、小次郎は黙ってうなずくだけでした。


 さて、慶長十七年(1612年)四月十二日、いよいよ果たし合いの日が来ました。
 小次郎は朝早く起きて、小倉の長浜という所から船に乗りました。その船が、大瀬戸横切り彦島の浜辺を這うようにして舟島に近づいた時、ふと振り替えると、三、四隻の小舟に二十数名の門弟たちが分乗して、あとを追っていました。小次郎は門弟たちを制して大声で叫びました。
『私について来てはならぬ。お前たちの助けを借りたとあっては、私の名が廃るし、また、宮本殿は、一対一の真剣勝負と伝えて来て居る。お前たちの気持ちは有りがたいが、今は、急いで小倉へ帰って呉れ』
 門弟たちは、今更、引き返すわけにもゆかず、また勝負も気にかかるので、小倉へ帰るように見せかけて、そっと彦島に上陸しました。そして、舟島の様子が手に取るように見える場所を選んで、師の勝ちっ振りを遠くから眺めることにしました。

 そんなこととは知らず小次郎は安心して、ゆっくりと舟島へ向かいました。しかし、武蔵はまだ来ていません。しばらく待っても来る気配がありませんので、長岡佐渡は下関へ使いをやりました。すると驚いたことに、武蔵は、ちょうど起きたばかりで、のんびり支度にかかるところでした。

 朝の太陽が門司の山を離れて、ギラギラとまぶしい光を波間にただよわせはじめたころ、ようやく木刀をさげた武蔵が舟島に着きました。その木刀は、武蔵が下関から小舟で舟島に着くまでの間に、折れた櫂を削って作ったものです。

 何時間も待たされた小次郎は、いつもの落ち着きを失い、パッと立ち上がって渚へ進み、刀を抜き放ちました。そして思わず、鞘を後方に捨ててしまいました。
『小次郎、敗れたり』
 武蔵は木刀をさげたまま、大声で言いました。相手を長時間待たせていらいらさせ、その上、勝負もしないうちに大声を発してひるませるという策を。武蔵は早くから考えていたのです。
『もし、お前が、わしに勝とうとするのなら、刀の鞘は捨てるべきではない』
 そう言う武蔵の声に、小次郎の怒りはつのるばかりでした。冷ややかに笑いながら、既に相手を呑んでかかっている武蔵と、日頃の冷静さを欠き、怒り心頭に発した小次郎とでは、実力の出し方が違って当然でしょう。

 武蔵が、ジリッと体を右に動かしました。それにつれて、小次郎もジリッと右に二、三歩動きました。すると、海峡の波にゆれる朝の太陽が、まぶしく小次郎の眼をうばいました。

『しまった』
 小次郎は、その時、思いました。
『すべて、武蔵の計略通りではないか』
 しかし、そう気がついた時には、もう遅かったのです。

『ヤーッ』
ギラギラと眼を射る陽光の中から、武蔵の木剣が振りおろされました。とっさに小次郎もつばめ返しで相手を打ちました。

 二人の体がかわって、武蔵の額から鉢巻きがパラッと落ちるのが見えました。
 と同時に、小次郎の意識は薄れ、そのままばったりと倒れてしまいました。武蔵の面をとる直前に、既に小次郎は脳天を打ち砕かれていたのです。それも、武蔵自身が真剣勝負と申し出ておきながら、意表をついた櫂の木剣で…。
 小次郎は、武蔵の錬りに錬った策に敗れました。


 人びとは、小次郎の死をいたみ、小さな墓を立てて、舟島のことを『巌流島』と改めました。

 そして、門弟たちが上陸して、勝負や如何にと見守っていた彦島の浜辺は、いつのころからか、『弟子待(でしまつ)』と呼ばれるようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/12/07 Sat. 10:09 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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功山寺 

功山寺(こうざんじ)


鎌倉時代創建、唐様(からよう)建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺(ぜんでら)様式を残しており、国宝に指定されています。
また数々の歴史の舞台となったところで、毛利元就(もとなり)に追われた大内義長(おおうちよしなが)が自刃(じじん)したり、高杉晋作が明治維新の転機となる旗揚げをしたところでもあります。
初代秀元(ひでもと)をはじめ9人の藩主達の墓が仏殿裏にあります。
大内義長のものと言われている墓は、裏の墓地の奥まったところにあります。
また、坂本龍馬の盟友、三吉慎蔵のお墓もあります。桜と紅葉の名所です。
 
四季折々の花情報
[桜] 約30本
見ごろ:例年4月上旬~中旬
[紅葉] 見ごろ:例年11月中旬~12月上旬


維新回天の挙兵

元治元年(1864)、長州藩は存亡の危機にありました。
7月の禁門の変、8月の馬関戦争惨敗。さらに追い討ちをかけるように、幕府による長州討伐計画が進んでいました。
俗論(幕府恭順)派が主導権を握る長州藩はこれを恐れ、三家老切腹、藩主の蟄居謹慎によって幕府に従う姿勢を示したのです。
このとき敢然と立ち上がったのが高杉晋作でした。
都から落ちのびていた三条実美ら五卿を前に、わずか80人を率いて挙兵した晋作は、「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と告げ、萩藩新地会所を急襲。
後に続いた者たちとクーデターを成功させ、長州を再び討幕へと導きました。
この功山寺挙兵をきっかけに、維新が大きく動きます。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」。まさに、日本の歴史を変えた瞬間でした。


国宝仏殿開扉と秘宝展

通常公開していない国宝仏殿の内部を、このたび4年ぶりに開扉し、「二十八部衆立像のうち現存する23躯」等の秘宝展が、下記の通り開催されます。
1.期間:平成24年、25年、26年の3年間
     毎年 春期(3月15日~6月15日)、秋期(9月15日~12月15日)
     時間 9時30分~17時(最終入館:16時30分)
2.仏殿拝観料 一般500円(20人以上の団体は400円)
  総合拝観料(仏殿、法堂・書院) 一般700円(20人以上の団体は600円)
  小・中学生は無料
3.見どころ
  仏殿内:千手千眼観音菩薩坐像、二十八部衆立像のうち現存する23躯など
  法殿・書院(七卿潜居の間)等:釈迦牟尼仏座像、韋駄天立像など


所在地 下関市長府川端1丁目2-3
交通 JR下関駅からバス23分(または、JR長府駅から下関駅行きバス約10分)「城下町長府」下車、徒歩10分。
料金 書院見学 大人300円、中高生100円、小学生以下は無料
営業時間 書院見学 9:00~16:30
お問合せ 功山寺 083-245-0258
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Posted on 2019/12/07 Sat. 09:21 [edit]

category: 下関あれこれ

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