11 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 01

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

七里七浦七えびす 

七里七浦七えびす


 島は 七島
 回れば 七里
 七里 七浦 七恵比寿

 古くから『彦島謡』の一節に、こんな文句がある。

 むかし、平家全盛のころ、平清盛は、平家の祈願所を設けるために、全国に『七里七浦』の地を探させた。それは、七という数字が縁起のいい数だからで、家来たちは全国津々浦々、くまなく探しまわり、結局残ったのが、長門の彦島と安芸の宮島の二カ所になった。
 しかし、彦島は、七浦だけは揃っていたが周囲を測ってみると六里十五町五十一間(約25.3キロメートル)で、七里に少しばかり足りなかった。
 そのため、平家の祈願所は、安芸の宮島に取られてしまったが、そのくやしさを、彦島の人びとは『島は七島、七えびす』と、うたったという。


 ところで、『七えびす』というのは、次の七づくしのことだそうだ。

◎七島

 引島 彦島本島
 舟島 巌流島、船島とも書く
 舞子島 西山の泊まりの沖にあった島
 城ノ島 舞子島の西寄りの島、城ノ子嶋ともいう
 間横島 西山の獅子ケ口の沖にあったという島
 竹ノ子島 竹ノ子島
 伝馬島 福浦湾の海賊島(リンゴ山ともいう)

◎七浦

 天ノ浦 海士郷
 江合ノ浦 江ノ浦
 小福浦 福浦
 百ノ浦 荒田の南の浜 桃の浦とも書く
 宮ノ浦 彦島八幡宮前の浜(三井東圧構内)
 伊佐木浦 西山の伊佐武田の浜、伊佐野浦とも書く
 鯉ノ浦 西山の伊無田の浜 恋の浦とも書く

◎七崎

 浦辺崎 海士郷の小戸寄り
 鉾崎 ホーサキ 本村の林兼造船第二工場付近
 鎌崎 江ノ浦桟橋通りバス停付近
 鋤崎 スキザキ 彦島中学と福浦口との中間 塩谷の辺り
 硴崎 カケザキ 福浦の東隅
 佐々崎 ササザキ 荒田
 長崎 長崎町(本村七丁目)の変電所付近

◎七鬼

 鬼ヶ島 竹ノ子島の北半分
 鬼穴 西山の手トリガンス
 鬼先 西山の泊まりの浜 鬼崎とも書く
 鬼山 西山瀬戸の浜の丸山
 鬼番屋 西山丸山の眼鏡岩
 鬼ノ瀬 西山獅子ヶ口の瀬
 鬼岩 南風泊の蛸岩

◎七海賊

 海賊島 福浦湾の伝馬島 別に龍宮島ともいい現在は塩浜と陸続きになってリンゴ山
 海賊谷 塩浜の大山の麓 清水谷
 海賊泊り 塩浜の大山の北麓(福浦のカケザキにもあったという)
 海賊屋敷 福浦金比羅山の裏側
 海賊板 田の首の俎瀬
 海賊ノ瀬 田の首の鳴瀬
 海賊堤 田の首の雁谷迫の堤

◎七堤

 里堤 迫のトンダの堤(彦島有料道路の下)
 小迫堤 迫から佐々崎に通じる山中の堤
 名合浦堤 里から本村百段に通じる山中にあった用水池
 藤ヶ迫堤 老ノ山の第一高校の下にあったが今は無い
 鎌崎堤 江の浦桜町(五丁目)の地蔵坂にあった堤
 杉田堤 杉田の三菱造船アパートが建っている所にあった鯉の巣の堤
 塩谷堤 彦島中学から福浦口へ至る中ほどにあった堤

◎七瀬

 栄螺瀬 サザエノセ 西山の西海岸
 獅子ヶ口瀬 西山の突端
 俵瀬 江の裏鎌崎の沖
 沖ノ洲瀬 現在の大和町が埋め立て以前港であったころの羽根石一帯の瀬
 中州の瀬 巌流島の沖の瀬
 死の瀬 弟子待沖の与治兵衛ヶ瀬
 仏の瀬 小戸の身投げ岩付近の瀬


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
関連記事

Posted on 2019/12/06 Fri. 10:51 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

06

うにの由来 

うにの由来

雲丹加工の由来

 水産加工都市下関を代表する名産はウニとフクである。下関でウニを食用とした歴史は古く、安岡の潮待貝塚からは、約二千年前のウニの殻がタイの骨と一緒に発見されている。
 下関のウニは瓶詰めに加工した製品が有名で、全国に知られ、その生産量は毎年約千トンに及び、売上高は37億円(昭和50年)に達しているが、このウニ加工製造の元祖は六連島である。
 六連島は安政元年(1858)頃から、戸数六十戸程度を維持してきた島で、周囲は好漁場の海に囲まれているが、地形が肥沃な大地に恵まれ、農業に適していたため、漁業を見捨てて農業に生きてきた。しかし、農閑期には副業的な磯漁業として、ウニをはじめ、アワビ、サザエの貝類や海草の採取は毎年続けてきたのである。
 特にウニは、文化・文政(1804-1829)の頃から採取し販売してきたもので、塩漬けによる加工は、文久年間(1861-1862)に庄屋の久七が考案したと伝えられている。
 明治20年(1887)になって、六連島西教寺九世の蓬山和尚(1821-1898)が塩漬けウニに、新たに焼酎を振りかけて長期保存法を編み出し、城戸久七に教え、さらにアルコール漬けに改良した。
 こうしてアルコール漬けによる完全な長期保存が確保されてから売り上げも急速に伸び、六連島ウニ販売の代表者城戸久七こと「雲丹久」の名は一躍有名になり、その優れた製品により明治36年7月には、第五回内国勧業博覧会に、明治40年12月には連合水産共進会においてそれぞれ入賞した。
 その後、明治末期にいたり、六連島の雲丹は大資本の下関の業者と買占契約を結び、六連島ウニから下関ウニへと飛躍発展した。
 大正5年当時、下関におけるウニの生産額は約5万円にすぎなかったが、その後、当業者の努力により、逐年増加していった、昭和4年は生産高73トン、生産額15万6千円となっている。
 下関ウニはほとんどが土産品として市内で販売されたが、主たる輸送先は国内はもとより、青島、台湾、大連などでこれら輸送用のものはすべて瓶詰めのウニであった。
 第二次大戦の勃発により一時姿を消したが、戦後はいち早く復活し、設備の充実、製法の改良など近代的製造工程により、品質の向上を目指して競っている。

(下関市史)


創業80年の重み-下関名産ウニ

 明治初期、英国人が灯台守として六連島に居住。灯台設置に伴い外国船の出入りが増加し始めると、船舶の水先案内人たちも六連島を基地として常駐するようになる。外国人がしばしば、院家(西教寺の蓬山和尚)を訪ね、歓談に興じていたある日、杯に注ごうとした酒が誤って小鉢にこぼれた。
 院家は黙って小鉢のウニを口に含んだ。途端に「これだー」と思った。ウニがこれほど美味であったとは・・・まろやかな風味が口に広がったのであった。
 ボトルを手にしてみると、アムステルダム・オランダの刻字があるアルコール度45度のジンであった。さっそく、島一番のウニ業者城戸久七に話し、試作させた。城戸久七はさらに研究を重ねて独特の秘法を生み出した。
 城戸久七に弟子入りし、31才で秘伝法皆伝を授かった上田甚五郎が創業したのが「うに甚」である。

(山口新聞)
関連記事

Posted on 2019/12/06 Fri. 09:55 [edit]

category: 下関あれこれ

TB: --    CM: 0

06