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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

身投げ岩 

身投げ岩


 大阪の豪商の一人娘、お米は評判の美人でした。お米には、行く末をちぎった男が居ましたが、ある日、男は他に恋人をつくり、手に手をとって大阪を逃げてしまいました。
 それを聞いたお米は親の止めるのも聞かず男のあとを追って家を飛び出しました。そして、諸国を尋ね歩いた末、彦島にやって来ましたが、求める姿はどこにも見当たりませんでした。

 心身共に疲れ果てたお米は、小戸の大岩に腰をかけて、逆巻く小瀬戸の潮を見つめていましたが、思いあまって、そこから身を投じてしまいました。

 その後、どこかでお米の噂を伝え聞いた若者が彦島を尋ねてきて、お米の最期をことこまかく聞き歩きました。そのあげく、自分の前非を悔いたのか、ある日、同じ岩の上から身を投げてお米のあとを追いました。


 それ以来、七日毎の命日の夜には、大きな青い火が二つ、小戸の空を追いつ追われつ飛んでは海に落ちて消えるようになりました。

そこで、島びとは西楽寺の和尚にお願いして読経して貰ったところ、その夜から二つの火は見られなくなりました。


 島びとは二人の供養のため、岩の上に石塔を建てて、いつまでも花を絶やさなかったと伝えられています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
お米は『発狂して』身を投げたという説もある。
この話には西楽寺住職が出て来るので、前項の『身投げ石』よりも、かなり新しい年代のことであろう。
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Posted on 2019/12/02 Mon. 11:36 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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下関の人物 河野 タカ 

河野 タカ こうの たか(1891-1980)


明治24年、現在の下関市彦島本村町で生まれました。
彦島実践女学校を卒業。大正6年に東京武田高等女学校専攻科へ入学。その後、大妻高等女学校高等科手芸科に入学し、同9年、卒業と同時に母校の東京武田高等女学校裁縫教師として就職し、教員生活の第一歩を踏み出しています。
同14年、かねて念願していた女子専門教育を実現させるため下関に帰り、次の年、上田中大正通りに河野高等技芸院を創設。同17年、桜山町に新校舎用地を購入。新校舎の実現は六年後のことでした。
戦後は、教育制度も大きくかわり、学制改革により新制中学校が発足すると、同22年、下関河野学園中学校を創設。続いて、新学制による下関河野学園高等学校を開校し、校長を勤めています。
同25年には、幼児教育の重要性を認識し、市内唯一の私立幼稚園下関河野学園幼稚園を開設、さらに、同37年、下関女子短期大学家政科を創設し学長に就任。
幼稚園・中学・高校・短大と一貫教育の場をつくりました。80歳を過ぎ、なお教壇に立ち、生涯を女子教育にささげました。
同55年ななくなりました。享年88歳でした。


「下関の人物」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/12/02 Mon. 11:13 [edit]

category: 下関あれこれ

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