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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

彦島のけしき2 

どうも容量オーバーなのかもしれません。
画像がアップできませんので
以下のページで続けていきます。

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Posted on 2019/12/31 Tue. 12:02 [edit]

category: お知らせ

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31

こびんおおひと 

こびんおおひと


 むかし、世界旅行に出かけたおおひとが彦島をまたごうとした時、連れていたお転婆でヤンチャな一人娘が
『おなか、へったあ』
 といって座り込んでしまった。
 父親のおおひとは驚いて、
『すぐそこの海まで行きゃあ、好きなだけ魚が泳ぎよるけえ、もうちっと元気出せ』
 と、なだめすかしたが、娘はもう、テコでも動かなかった。やむなく、おおひとは、すぐ近くの浜辺でタコ、サザエ、エビ、イサキなどの海の幸を手掴みで採っては娘に食べさせた。

 だから、娘がへたばって尻もちをついた浜辺を『江尻』といい、南風泊から西山へかけての海辺には、『タコ岩』『サザエの瀬』『エビタ』『イサンダ』などという地名が残った。

 たらふく食べて、ようやく元気になった娘は『ヨイショ』と立ち上がり、そばにあった石に足をかけ『ヤッ』と玄界灘めがけて旅立って行った。
 父親のおおひとは大慌てで海に入り波をヒザでかき分けて娘のあとを追うたが、その時の波音があまりにも大きかったので、響灘と呼ばれるようになったという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
西山の波高バス停の近くに『明神』と呼ばれる祠がある。そのそばに『こびんおおひと』の足跡だと伝えられる石が残っている。
『おおひと』の地名としては、本村のほかに、西山フイキンの浜が『大人崎』で、田の首の生板の瀬に『大人岩』があり、弟子待には、『大人足跡砲台』か゜実存していたことが、『白石家文書』に記されている。
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Posted on 2019/12/08 Sun. 10:07 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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08

城下町長府のプロフィール 

城下町長府のプロフィール


 本州の西端山口県下関市にこの町があります。この城下町長府の歴史は古く、この地が「古事記」や「日本書紀」などの記録の上に登場してくるのは今から約1800年前の西暦193年、仲哀天皇・神功皇后が西国平定に際し、この地に仮皇居として豊浦宮(現、忌宮神社)を置かれてからと伝えられています。
 大化の改新(645年)以降、この地方は穴門、阿武の二つの国が合わせて長門の国となり、その国府(役所)が、ここ豊浦に置かれていたことから「長門の国の国府」がつづまって、長府と呼ばれるようになりました。次いで古代貨幣「和同開珎」の鋳銭所が、現在の長府覚苑寺あたりに置かれていました。当時、全国では武蔵をはじめ5ケ所で造られたことがわかっていますが、場所が特定出来るのはここだけです。また、聖武天皇の時代に、国の守りとして奈良に東大寺が、各国の守りとしてここ長府にも国分寺、国分尼寺が建てられました。
 壇之浦の戦いで源氏は長府満珠・干珠の島の周辺に陣を構え、平家を滅亡させます。ここから武家政治が始まり、長府には守護職が置かれましたが、南北朝対立や戦国時代の争乱期には、その中心的地位を失ってしまいました。その後、戦国時代には毛利元就に追われた大内義長が、長府功山寺で自害します。そして毛利元就自身も九州平定のために長府に本陣を構えるのです。また、戦国時代の武将として人気の高い豊臣秀吉も長府を訪れています。
 時代が移り、中国8ケ国を支配していた毛利氏は、それまで長門国他の領主であった毛利秀元(毛利元就の4男・穂田元清の子)を豊浦郡の全域を藩領として、大内氏の家臣である内藤隆春がいた長府の串崎城を再建し長州藩の支藩として長府藩をおこしたのです。(この秀元は豊臣秀吉から信頼厚く、秀元の“秀”は秀吉から与えられたものです。また、秀吉が母危篤のため佐賀から大阪城へ戻る途中、関門海峡で座礁した祭にはこの秀元が救出しました。)
 そうして、長府の城下町としての歴史が始まったのです。そして、城に近い場所には大身の武士を置き、外れるに従って軽身の家臣屋敷を配し、山陽道に沿って町人が住む形が設けられるという、城下町としては珍しい配置で中世以来の町並みの構成が重んじられた結果ではないかと言われています。残念ながら城は徳川幕府による一国一城の令により取り壊され、現在は石垣のみが残されています。
 また、長府といえば忘れてはならないのが、明治維新の中心として活躍した奇兵隊や長府報國隊の拠点として深く関わった地でもあり、高杉晋作や坂本龍馬ら多くの志士たちが、この地より日本の夜明けのために奔走しました。特に高杉晋作がわずか80人を率いて起こした功山寺挙兵は有名です。この挙兵がやがて、武士の時代を終わらすことになったのです。
 また、日露戦争で活躍した乃木大将が幼年期この地で過ごしたのです。昭和には、東洋一と言われた下関水族館が開館し、水産都市のシンボルとしてくじら館が建築されました。
 春夏秋冬、土塀(練塀)から見える四季折々の花や川沿いの草花を愛でながら、また、歴史的な町並みに往時を偲びながら、のんびり散策してはいかがでしょうか。


長府観光協会ホームページより
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Posted on 2019/12/08 Sun. 09:30 [edit]

category: 下関あれこれ

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08

巌流島と弟子待 

巌流島と弟子待


 佐々木巌流は、名を小次郎と呼び、生まれは東北の人でした。物干し竿のような長刀と『つばめ返し』で知られる剣の達人ですが、縁あって小倉の藩主に仕え、師範役をつとめられていました。

 そのころ、剣にかけては天下一と言われた宮本武蔵が、諸国遍歴の途中、たまたま小倉に立ち寄り、古くから懇意にしていた長岡佐渡の屋敷に滞在しました。

 ある日、武蔵は、名高い小次郎のことを耳にして、
『巌流佐々木小次郎と真剣勝負をしたいが、いかがなものでしょう』
 と、佐渡に話しました。佐渡は、
『それは面白い。是が非でも実現させよう。殿には、私から頼んでみよう』
 と早速、藩主にその旨を願い出ました。すると藩主も大いに喜び、
『勝負は四月十二日、場所は舟島がよかろう』
 と、即座に許しました。舟島というのは、彦島の沖合に浮かぶ小さな洲のような無人の小島で、帆掛け舟に似ているとろこから、そう呼ばれていました。

 ところが、果たし合いの許しが出た翌日、どうしたことか、突然、武蔵は小倉から姿を消してしまいました。
『見ると聞くとは大違い。二刀流の剣豪と言われた武蔵は、佐々木様の剣技に恐れをなして逃げてしまったらしい』
 そんな噂が巷に流れはじめたので、長岡佐渡はこれを無念に思って、八方手をつくし武蔵を捜しました。そしてようやく、下関の船宿、小林太兵衛の二階にひそんでいる武蔵を見つけることが出来ました。

『藩主の許可を得たというのに、なぜ、無断で雲隠れしたのか』
 こみあげて来る怒りを抑えて、佐渡は訊ねました。すると武蔵は、静かに微笑みながら言いました。
『当日、もし私が小倉から舟島に向かうとすれば、巌流は藩主殿の船に乗り、私はあなたの船に乗ることになるでしょう。そうすれば、どちらが勝っても負けても、あなた達は君臣の間柄ゆえ、気まずい思いをなさるでしょう。ですから私は、自分勝手に下関から島へ渡ることにしたのです』
 それを聞いて佐渡は安心しましたが、その話はまたたくまに小次郎の耳にも入りました。しかし、小次郎は黙ってうなずくだけでした。


 さて、慶長十七年(1612年)四月十二日、いよいよ果たし合いの日が来ました。
 小次郎は朝早く起きて、小倉の長浜という所から船に乗りました。その船が、大瀬戸横切り彦島の浜辺を這うようにして舟島に近づいた時、ふと振り替えると、三、四隻の小舟に二十数名の門弟たちが分乗して、あとを追っていました。小次郎は門弟たちを制して大声で叫びました。
『私について来てはならぬ。お前たちの助けを借りたとあっては、私の名が廃るし、また、宮本殿は、一対一の真剣勝負と伝えて来て居る。お前たちの気持ちは有りがたいが、今は、急いで小倉へ帰って呉れ』
 門弟たちは、今更、引き返すわけにもゆかず、また勝負も気にかかるので、小倉へ帰るように見せかけて、そっと彦島に上陸しました。そして、舟島の様子が手に取るように見える場所を選んで、師の勝ちっ振りを遠くから眺めることにしました。

 そんなこととは知らず小次郎は安心して、ゆっくりと舟島へ向かいました。しかし、武蔵はまだ来ていません。しばらく待っても来る気配がありませんので、長岡佐渡は下関へ使いをやりました。すると驚いたことに、武蔵は、ちょうど起きたばかりで、のんびり支度にかかるところでした。

 朝の太陽が門司の山を離れて、ギラギラとまぶしい光を波間にただよわせはじめたころ、ようやく木刀をさげた武蔵が舟島に着きました。その木刀は、武蔵が下関から小舟で舟島に着くまでの間に、折れた櫂を削って作ったものです。

 何時間も待たされた小次郎は、いつもの落ち着きを失い、パッと立ち上がって渚へ進み、刀を抜き放ちました。そして思わず、鞘を後方に捨ててしまいました。
『小次郎、敗れたり』
 武蔵は木刀をさげたまま、大声で言いました。相手を長時間待たせていらいらさせ、その上、勝負もしないうちに大声を発してひるませるという策を。武蔵は早くから考えていたのです。
『もし、お前が、わしに勝とうとするのなら、刀の鞘は捨てるべきではない』
 そう言う武蔵の声に、小次郎の怒りはつのるばかりでした。冷ややかに笑いながら、既に相手を呑んでかかっている武蔵と、日頃の冷静さを欠き、怒り心頭に発した小次郎とでは、実力の出し方が違って当然でしょう。

 武蔵が、ジリッと体を右に動かしました。それにつれて、小次郎もジリッと右に二、三歩動きました。すると、海峡の波にゆれる朝の太陽が、まぶしく小次郎の眼をうばいました。

『しまった』
 小次郎は、その時、思いました。
『すべて、武蔵の計略通りではないか』
 しかし、そう気がついた時には、もう遅かったのです。

『ヤーッ』
ギラギラと眼を射る陽光の中から、武蔵の木剣が振りおろされました。とっさに小次郎もつばめ返しで相手を打ちました。

 二人の体がかわって、武蔵の額から鉢巻きがパラッと落ちるのが見えました。
 と同時に、小次郎の意識は薄れ、そのままばったりと倒れてしまいました。武蔵の面をとる直前に、既に小次郎は脳天を打ち砕かれていたのです。それも、武蔵自身が真剣勝負と申し出ておきながら、意表をついた櫂の木剣で…。
 小次郎は、武蔵の錬りに錬った策に敗れました。


 人びとは、小次郎の死をいたみ、小さな墓を立てて、舟島のことを『巌流島』と改めました。

 そして、門弟たちが上陸して、勝負や如何にと見守っていた彦島の浜辺は、いつのころからか、『弟子待(でしまつ)』と呼ばれるようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/12/07 Sat. 10:09 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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07

功山寺 

功山寺(こうざんじ)


鎌倉時代創建、唐様(からよう)建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺(ぜんでら)様式を残しており、国宝に指定されています。
また数々の歴史の舞台となったところで、毛利元就(もとなり)に追われた大内義長(おおうちよしなが)が自刃(じじん)したり、高杉晋作が明治維新の転機となる旗揚げをしたところでもあります。
初代秀元(ひでもと)をはじめ9人の藩主達の墓が仏殿裏にあります。
大内義長のものと言われている墓は、裏の墓地の奥まったところにあります。
また、坂本龍馬の盟友、三吉慎蔵のお墓もあります。桜と紅葉の名所です。
 
四季折々の花情報
[桜] 約30本
見ごろ:例年4月上旬~中旬
[紅葉] 見ごろ:例年11月中旬~12月上旬


維新回天の挙兵

元治元年(1864)、長州藩は存亡の危機にありました。
7月の禁門の変、8月の馬関戦争惨敗。さらに追い討ちをかけるように、幕府による長州討伐計画が進んでいました。
俗論(幕府恭順)派が主導権を握る長州藩はこれを恐れ、三家老切腹、藩主の蟄居謹慎によって幕府に従う姿勢を示したのです。
このとき敢然と立ち上がったのが高杉晋作でした。
都から落ちのびていた三条実美ら五卿を前に、わずか80人を率いて挙兵した晋作は、「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と告げ、萩藩新地会所を急襲。
後に続いた者たちとクーデターを成功させ、長州を再び討幕へと導きました。
この功山寺挙兵をきっかけに、維新が大きく動きます。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」。まさに、日本の歴史を変えた瞬間でした。


国宝仏殿開扉と秘宝展

通常公開していない国宝仏殿の内部を、このたび4年ぶりに開扉し、「二十八部衆立像のうち現存する23躯」等の秘宝展が、下記の通り開催されます。
1.期間:平成24年、25年、26年の3年間
     毎年 春期(3月15日~6月15日)、秋期(9月15日~12月15日)
     時間 9時30分~17時(最終入館:16時30分)
2.仏殿拝観料 一般500円(20人以上の団体は400円)
  総合拝観料(仏殿、法堂・書院) 一般700円(20人以上の団体は600円)
  小・中学生は無料
3.見どころ
  仏殿内:千手千眼観音菩薩坐像、二十八部衆立像のうち現存する23躯など
  法殿・書院(七卿潜居の間)等:釈迦牟尼仏座像、韋駄天立像など


所在地 下関市長府川端1丁目2-3
交通 JR下関駅からバス23分(または、JR長府駅から下関駅行きバス約10分)「城下町長府」下車、徒歩10分。
料金 書院見学 大人300円、中高生100円、小学生以下は無料
営業時間 書院見学 9:00~16:30
お問合せ 功山寺 083-245-0258
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Posted on 2019/12/07 Sat. 09:21 [edit]

category: 下関あれこれ

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07

七里七浦七えびす 

七里七浦七えびす


 島は 七島
 回れば 七里
 七里 七浦 七恵比寿

 古くから『彦島謡』の一節に、こんな文句がある。

 むかし、平家全盛のころ、平清盛は、平家の祈願所を設けるために、全国に『七里七浦』の地を探させた。それは、七という数字が縁起のいい数だからで、家来たちは全国津々浦々、くまなく探しまわり、結局残ったのが、長門の彦島と安芸の宮島の二カ所になった。
 しかし、彦島は、七浦だけは揃っていたが周囲を測ってみると六里十五町五十一間(約25.3キロメートル)で、七里に少しばかり足りなかった。
 そのため、平家の祈願所は、安芸の宮島に取られてしまったが、そのくやしさを、彦島の人びとは『島は七島、七えびす』と、うたったという。


 ところで、『七えびす』というのは、次の七づくしのことだそうだ。

◎七島

 引島 彦島本島
 舟島 巌流島、船島とも書く
 舞子島 西山の泊まりの沖にあった島
 城ノ島 舞子島の西寄りの島、城ノ子嶋ともいう
 間横島 西山の獅子ケ口の沖にあったという島
 竹ノ子島 竹ノ子島
 伝馬島 福浦湾の海賊島(リンゴ山ともいう)

◎七浦

 天ノ浦 海士郷
 江合ノ浦 江ノ浦
 小福浦 福浦
 百ノ浦 荒田の南の浜 桃の浦とも書く
 宮ノ浦 彦島八幡宮前の浜(三井東圧構内)
 伊佐木浦 西山の伊佐武田の浜、伊佐野浦とも書く
 鯉ノ浦 西山の伊無田の浜 恋の浦とも書く

◎七崎

 浦辺崎 海士郷の小戸寄り
 鉾崎 ホーサキ 本村の林兼造船第二工場付近
 鎌崎 江ノ浦桟橋通りバス停付近
 鋤崎 スキザキ 彦島中学と福浦口との中間 塩谷の辺り
 硴崎 カケザキ 福浦の東隅
 佐々崎 ササザキ 荒田
 長崎 長崎町(本村七丁目)の変電所付近

◎七鬼

 鬼ヶ島 竹ノ子島の北半分
 鬼穴 西山の手トリガンス
 鬼先 西山の泊まりの浜 鬼崎とも書く
 鬼山 西山瀬戸の浜の丸山
 鬼番屋 西山丸山の眼鏡岩
 鬼ノ瀬 西山獅子ヶ口の瀬
 鬼岩 南風泊の蛸岩

◎七海賊

 海賊島 福浦湾の伝馬島 別に龍宮島ともいい現在は塩浜と陸続きになってリンゴ山
 海賊谷 塩浜の大山の麓 清水谷
 海賊泊り 塩浜の大山の北麓(福浦のカケザキにもあったという)
 海賊屋敷 福浦金比羅山の裏側
 海賊板 田の首の俎瀬
 海賊ノ瀬 田の首の鳴瀬
 海賊堤 田の首の雁谷迫の堤

◎七堤

 里堤 迫のトンダの堤(彦島有料道路の下)
 小迫堤 迫から佐々崎に通じる山中の堤
 名合浦堤 里から本村百段に通じる山中にあった用水池
 藤ヶ迫堤 老ノ山の第一高校の下にあったが今は無い
 鎌崎堤 江の浦桜町(五丁目)の地蔵坂にあった堤
 杉田堤 杉田の三菱造船アパートが建っている所にあった鯉の巣の堤
 塩谷堤 彦島中学から福浦口へ至る中ほどにあった堤

◎七瀬

 栄螺瀬 サザエノセ 西山の西海岸
 獅子ヶ口瀬 西山の突端
 俵瀬 江の裏鎌崎の沖
 沖ノ洲瀬 現在の大和町が埋め立て以前港であったころの羽根石一帯の瀬
 中州の瀬 巌流島の沖の瀬
 死の瀬 弟子待沖の与治兵衛ヶ瀬
 仏の瀬 小戸の身投げ岩付近の瀬


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2019/12/06 Fri. 10:51 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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06

うにの由来 

うにの由来

雲丹加工の由来

 水産加工都市下関を代表する名産はウニとフクである。下関でウニを食用とした歴史は古く、安岡の潮待貝塚からは、約二千年前のウニの殻がタイの骨と一緒に発見されている。
 下関のウニは瓶詰めに加工した製品が有名で、全国に知られ、その生産量は毎年約千トンに及び、売上高は37億円(昭和50年)に達しているが、このウニ加工製造の元祖は六連島である。
 六連島は安政元年(1858)頃から、戸数六十戸程度を維持してきた島で、周囲は好漁場の海に囲まれているが、地形が肥沃な大地に恵まれ、農業に適していたため、漁業を見捨てて農業に生きてきた。しかし、農閑期には副業的な磯漁業として、ウニをはじめ、アワビ、サザエの貝類や海草の採取は毎年続けてきたのである。
 特にウニは、文化・文政(1804-1829)の頃から採取し販売してきたもので、塩漬けによる加工は、文久年間(1861-1862)に庄屋の久七が考案したと伝えられている。
 明治20年(1887)になって、六連島西教寺九世の蓬山和尚(1821-1898)が塩漬けウニに、新たに焼酎を振りかけて長期保存法を編み出し、城戸久七に教え、さらにアルコール漬けに改良した。
 こうしてアルコール漬けによる完全な長期保存が確保されてから売り上げも急速に伸び、六連島ウニ販売の代表者城戸久七こと「雲丹久」の名は一躍有名になり、その優れた製品により明治36年7月には、第五回内国勧業博覧会に、明治40年12月には連合水産共進会においてそれぞれ入賞した。
 その後、明治末期にいたり、六連島の雲丹は大資本の下関の業者と買占契約を結び、六連島ウニから下関ウニへと飛躍発展した。
 大正5年当時、下関におけるウニの生産額は約5万円にすぎなかったが、その後、当業者の努力により、逐年増加していった、昭和4年は生産高73トン、生産額15万6千円となっている。
 下関ウニはほとんどが土産品として市内で販売されたが、主たる輸送先は国内はもとより、青島、台湾、大連などでこれら輸送用のものはすべて瓶詰めのウニであった。
 第二次大戦の勃発により一時姿を消したが、戦後はいち早く復活し、設備の充実、製法の改良など近代的製造工程により、品質の向上を目指して競っている。

(下関市史)


創業80年の重み-下関名産ウニ

 明治初期、英国人が灯台守として六連島に居住。灯台設置に伴い外国船の出入りが増加し始めると、船舶の水先案内人たちも六連島を基地として常駐するようになる。外国人がしばしば、院家(西教寺の蓬山和尚)を訪ね、歓談に興じていたある日、杯に注ごうとした酒が誤って小鉢にこぼれた。
 院家は黙って小鉢のウニを口に含んだ。途端に「これだー」と思った。ウニがこれほど美味であったとは・・・まろやかな風味が口に広がったのであった。
 ボトルを手にしてみると、アムステルダム・オランダの刻字があるアルコール度45度のジンであった。さっそく、島一番のウニ業者城戸久七に話し、試作させた。城戸久七はさらに研究を重ねて独特の秘法を生み出した。
 城戸久七に弟子入りし、31才で秘伝法皆伝を授かった上田甚五郎が創業したのが「うに甚」である。

(山口新聞)
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Posted on 2019/12/06 Fri. 09:55 [edit]

category: 下関あれこれ

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06

引島は彦島 

引島は彦島


 むかし、下関と門司の間は陸続きで、その下に小さな穴が開いていた。外海と内海の潮は、その穴を行き来して流れていた。
 ある時、神巧皇后が大軍をひきいて、三韓との戦にお出かけになろうとすると、下関と門司の間の山が、突然、海に落ち込んで水路が出来た。落ちた山は、急流に押されて西へ流れ、一つの島になった。
 ちようどそのさまが、山を引き分けて海峡を作ることにより生まれたように見えたので、その島を『引島(ひきしま)』と名づけた。


 また、こんな説もある。

 むかし、彦島と伊崎とは陸続きであった。
 外海と内海の潮の流れは、大瀬戸の海峡を通っていたが、いつのまにか、伊崎の山の下を浸食して小さな穴を作ってしまった。
 その穴は急潮のため、少しずつ大きくなり、やがて、ついに山を海中に陥没させてしまった。
 だから、胃までも空から見ると、伊崎の岬が彦島の太郎ヶ鼻を引っぱっているような感じを与える。『引島』という地名はそこから来ている。


 さて、引島は、ひくしま、と呼ばれたり、ひきしま、とか、ひけしま、と呼ばれたりしたが、読む人によってその読み方が違っていた。
 そこで神代の昔、彦炎出見尊(ほりでのみこと・海彦山彦の話)が天から降られて兄神の釣り針をを魚に取られ、それを探すために海士となって海に潜り、竜宮へ行かれたという神話の地が、この島であるというわけで、『引島』を『彦島』と改めた。

 しかし、その後も、彦島は、ある時は引島と呼ばれ、ある時は彦島と、その呼称は一定しなかった。

 これではいけない。というわけで、寛永十年(1633年)長府藩主、毛利秀元公が、むかしの名前の『引島』に戻してしまわれた。
 それからというものは永い間、この島は引島と呼ばれた。


 時は移り、天下泰平の世の中に、黒船がやって来て、開国を迫るようになると、日本全国が騒然としはじめた。
 この島の近くも、『海防策』とやらで、あちこちに砲台が築かれ、人びとは攘夷実行に突き進んで行った。
 その文久三年(1863年)の春、長府藩主はきっぱりお命じになった。
「引島は、関門海峡の門戸に当たる。そこに引くという名は武事に忌む。依って、本日より、引島を彦島と改めるよう」
 それは、三月七日であったという。その日から、この島は正式に彦島と呼ばれるようになった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2019/12/05 Thu. 09:25 [edit]

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05

お亀銀杏 

お亀銀杏(亀山八幡宮)

「イチョウ」の大木を背にして、昔は島であった亀山八幡宮の一帯を埋め立てるときに、人柱となった遊女 「お亀」を祀った小さな祠(お亀大明神)があり、池には多くの亀が飼われています。

 神社地は古くは島でしたが、江戸時代の始め頃、街の発展のために陸続きにする埋め立て工事が、毛利藩によっておこされまりました。
 しかし海峡の潮の流れは速く、ひと岩沈めればひと岩を流す急流であり、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで一向に進みませんでした。
 町では「これはきっと神様のお怒りに触れたためだだ」と噂が広まり、とうとう困った役人は人柱を立てることを決め、さっそく海峡の流れを鎮めるため、「人身御供」としての人柱募集の高札」を立てました。

 当時、この辺りには、稲荷町(現・赤間町。当時江戸の吉原・京の島原につぐ三大遊廓の一つ)の「お亀」という疱瘡を病み顔に「アバタ」のある遊女がいました。
 町かどに立った人柱募集の高札を見て「お亀」は、このまま生きて身を汚すより、「こんな私でも町の人たちのお役に立つなら ば」と決心して申し出ました。

 月明かりの夜です。「お亀」は白衣に身をつつみ、合掌して一歩一歩どす黒い海へ消えていくその姿は、仏様を思わせる気高さがあって人々は、その後姿にいつまでも念仏を唱え続けました。

「 お亀」が人柱となって海底に消えた翌日から、人々は急いで準備にとりかかり「お亀」の尊い犠牲を無にするなと急ピッチで工事を進め埋めたて工事は速い潮に悩まされる事もなく、見る見るうちに完成したと言います。

 人々は「お亀」の功績をたたえ、亀山八幡宮にイチョウの木を植えて「お亀イチョウ」と名づけました。
 生長して毎年秋に無数の実を結ぶイチョウには、何故かたくさんの斑点があり、「お亀」さんの顔の「アバタ」が残ったものと伝えられ「お亀ギンナン」と呼ばれていました。
 この実は明治の頃に天然痘が流行した時は、多くの人に疫病除けのお守りとして求められたということです。

『お亀イチョウ」は昭和20年(1945)の空襲により、焼失しましたが、「お亀」さんの遺志を継ぐかのように焼け残った株から新しい芽 が出て、今では何事も無かったかのように豊かに生い茂っています。
 その名残である古株の跡は、今も残されています。

「お亀イチョウ」は、秋にはたくさんの実を落し、不思議にも「お亀」さんの「アバタ」のような無数の斑点があることから、「お亀ギンナン」と呼ばれ、明治の頃には、疱瘡除けのお守りとし、今では無病息災、延命長寿のご利益があるとして、境内で売られています。

 神社では5月に五穀豊穣を祈る五穀祭が行われます。その時に氏子中では、「八丁浜エラヤッチャ」と合いの手を入れながら、八丁浜の囃しに合わせ杓文字を叩きシャギリ踊る、八丁浜(ハッチャハマ。八丁浜踊り、八丁浜シャギリともいう)が行われます。
 いつしか博多にお株を奪われてしまいましたが、杓文字を打ち鳴らしがら「ぼんち可愛いやねんねしな」と唄って踊る踊りは、この下関が発祥の地と言われています。

「八丁浜」とは「お亀」さんの犠牲によって埋め立てられた浜地の広いことを言い、「エラヤッチャ」とは、「お亀」さんは立派な奴だの意味です。

 江戸時代、毛利藩は派手な歌舞音曲や酒宴などを禁じていましたが、八丁浜の期間中は各所に「賑わい勝手」の高札が立てられどんなに騒いでも咎められることはありませんでした。
「八丁浜総踊り」に先立ち、「お亀明神」前で「お亀明神顕彰祭」が行われています。

 戦後この行事は衰退しましたが、昭和60年(1985)市民祭として開催されることになり、現在しものせき海峡まつりにあわせ賑やかに復活し継承されています。
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Posted on 2019/12/05 Thu. 08:50 [edit]

category: 下関あれこれ

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左眼が細い 

左眼が細い


 今から八百年も昔の話。

 ある秋風の身に沁む夕刻、里の西南の海から、一筋の光が立ちのぼっているのを漁師が見つけた。漁師は早速、島の人びとに知らせ、人びとは河野通次にも報告した。
 大急ぎで駆けつけた通次は、矛を片手に海中に飛び込み、光を指して泳いだ。そして、その中ほどに矛を突きさすと、八幡尊像があがって来た。尊像の背面には、河野八幡、と刻まれていたが、いたわしいことに、矛は尊像の左眼を貫いていた。

 さっそく通次は舞子島に祠を建て、光格殿と名付けて島の守り本尊にしたが、そり以来、彦島の十二苗祖と呼ばれる人びとは、代々、現在に至るまで左眼が細いといわれている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
『サイ上り神事』が明鏡であるのに対し、こちらは『八幡尊像』となって居り、しかも『河野八幡』と彫られてあったという所が、どうも出来すぎている。
 また『左眼が細い』という話の他に、『右眼が二重瞼であるのに対し左眼は一重である』と伝える説もあるようだ。
『硯海の楽土』という本によれば、明鏡を引き揚げたのは矛という記録と網であったという記録とがあるという。
 しかし、『サイ上り神事』や、『左眼が細い』などの伝説を尤もらしくさせる為には、やはり『網』でなく、『矛』でなければならないだろう。
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Posted on 2019/12/04 Wed. 10:16 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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