彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
鬼の墓
鬼の墓
舞子島の西側に、大きな眼鏡岩がそびえ立っておる。
むかし、この海岸は多くの鬼どもの根城であった。鬼どもは朝に夕に、眼鏡岩にのぼっては沖を通る船を監視しておった。そして、荷物をたくさん積んだ船が通りかかると、小舟を漕ぎ出して、さんざん掠奪をくり返した。
そのやり方が、あまりにあくどいので、ある日、テントウ様がお怒りになり、鬼どもをこらしめることになった。
その夜、鬼どもが総勢集まって円陣を組み、酒盛りをしておると、一天俄かにかき曇り大嵐となった。その上、雷までが頭のすぐ上をころげ回った。
鬼どもは大慌てでわれさきにと逃げはじめたが、時はすでにおそく、次つぎに落雷して、ことごとく死んでしもうた。
ところが、死骸となった鬼どもの表情は、ほとんどが赤ん坊のように柔和にあどけなく美しかった。
それをみたテントウ様は、
『鬼も、死ねば天に還るか』
と、つぶやかれて、眼鏡岩のそばに鬼の死体を集めて、ねんごろに葬られた。
しかし、その数は思っていたよりもはるかに多く、とうとう大きな山になってしまった。テントウ様は、死体の山に土をかけ、その冥福をお祈りになった。
やがて、この浦にものどかな春がやってきて、人びとは鬼の墓のことを『丸山』と呼び、眼鏡岩の近くの岩屋を『鬼穴』と呼ぶようになった。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
舞子島近くの海岸線は、約三千万年前の浸蝕がそのまま残されていて、奇岩怪礁の地であるが、この付近は、今でも『鬼崎』と呼ばれ、『テトリガンス』を『鬼穴』と呼んでいる。
眼鏡岩や『丸山』は、通称、ドックの浜に、現在もそのままの形で残っている。
舞子島の西側に、大きな眼鏡岩がそびえ立っておる。
むかし、この海岸は多くの鬼どもの根城であった。鬼どもは朝に夕に、眼鏡岩にのぼっては沖を通る船を監視しておった。そして、荷物をたくさん積んだ船が通りかかると、小舟を漕ぎ出して、さんざん掠奪をくり返した。
そのやり方が、あまりにあくどいので、ある日、テントウ様がお怒りになり、鬼どもをこらしめることになった。
その夜、鬼どもが総勢集まって円陣を組み、酒盛りをしておると、一天俄かにかき曇り大嵐となった。その上、雷までが頭のすぐ上をころげ回った。
鬼どもは大慌てでわれさきにと逃げはじめたが、時はすでにおそく、次つぎに落雷して、ことごとく死んでしもうた。
ところが、死骸となった鬼どもの表情は、ほとんどが赤ん坊のように柔和にあどけなく美しかった。
それをみたテントウ様は、
『鬼も、死ねば天に還るか』
と、つぶやかれて、眼鏡岩のそばに鬼の死体を集めて、ねんごろに葬られた。
しかし、その数は思っていたよりもはるかに多く、とうとう大きな山になってしまった。テントウ様は、死体の山に土をかけ、その冥福をお祈りになった。
やがて、この浦にものどかな春がやってきて、人びとは鬼の墓のことを『丸山』と呼び、眼鏡岩の近くの岩屋を『鬼穴』と呼ぶようになった。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
舞子島近くの海岸線は、約三千万年前の浸蝕がそのまま残されていて、奇岩怪礁の地であるが、この付近は、今でも『鬼崎』と呼ばれ、『テトリガンス』を『鬼穴』と呼んでいる。
眼鏡岩や『丸山』は、通称、ドックの浜に、現在もそのままの形で残っている。
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Posted on 2019/12/25 Wed. 09:45 [edit]
category: ひこしま昔ばなし
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25
おおひと
おおひと
むかし、彦島では、本村町のことを地下(じげ)と呼んでました。
もともと『地下』というのは、宮中に仕える人以外の家格で、一般には農民や庶民のことを指しています。それが転じて山口県では、自分の住んでいるところ、つまり地元という意味で使われています。
彦島だけが、地下を地元でなく、島の中心を指して呼んでいた訳です。
島では、古くから子どもたちの間で、こんな歌が唄いつがれていました。
大江屋敷の おおひとは
けんのう飛びで どこ行った
和尚さんに聞いたれば
和尚さんは知っちゃあない
タイヨさんに聞いたれば
タイヨさんも知っちゃあない
どーこー行った どこ行った
地下の山を けんのうで
大江山を 飛び越えた
けんのう飛び、というのは片足跳びのことで、タイヨさんは『太夫』つまり、お宮の神主のことです。また、『知っちゃあない』は、『知っては居られない』という敬悟だそうです。
このわらべ唄については、面白い話があります。
むかしむかし、大むかし、天をつくような大男が、旅の途中も馬関と門司に足をかけ、海峡の潮水で顔を洗いました。
その時、クシュンと手鼻をきった所が、今の岬之町で、丸めた鼻くそをポイと捨てたら六連島が出来、プッと吐き出した歯くそは小六連島になりました。
それでさっぱりした大男は、鼻唄まじりに何やら唄いながら、彦島に右足をおろし、大股ぎで海の向こうへ消えていきました。その時の大きな波音はいつまでもこの近くの海に残って、響灘と名付けられました。
大男が去っていく時、踏みつけた右足は、小高い山を砕いて谷をつくり、そこは今でも『大江の谷』と呼ばれています。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
むかし、彦島では、本村町のことを地下(じげ)と呼んでました。
もともと『地下』というのは、宮中に仕える人以外の家格で、一般には農民や庶民のことを指しています。それが転じて山口県では、自分の住んでいるところ、つまり地元という意味で使われています。
彦島だけが、地下を地元でなく、島の中心を指して呼んでいた訳です。
島では、古くから子どもたちの間で、こんな歌が唄いつがれていました。
大江屋敷の おおひとは
けんのう飛びで どこ行った
和尚さんに聞いたれば
和尚さんは知っちゃあない
タイヨさんに聞いたれば
タイヨさんも知っちゃあない
どーこー行った どこ行った
地下の山を けんのうで
大江山を 飛び越えた
けんのう飛び、というのは片足跳びのことで、タイヨさんは『太夫』つまり、お宮の神主のことです。また、『知っちゃあない』は、『知っては居られない』という敬悟だそうです。
このわらべ唄については、面白い話があります。
むかしむかし、大むかし、天をつくような大男が、旅の途中も馬関と門司に足をかけ、海峡の潮水で顔を洗いました。
その時、クシュンと手鼻をきった所が、今の岬之町で、丸めた鼻くそをポイと捨てたら六連島が出来、プッと吐き出した歯くそは小六連島になりました。
それでさっぱりした大男は、鼻唄まじりに何やら唄いながら、彦島に右足をおろし、大股ぎで海の向こうへ消えていきました。その時の大きな波音はいつまでもこの近くの海に残って、響灘と名付けられました。
大男が去っていく時、踏みつけた右足は、小高い山を砕いて谷をつくり、そこは今でも『大江の谷』と呼ばれています。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2019/12/24 Tue. 10:26 [edit]
category: ひこしま昔ばなし
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七本足のタコ
七本足のタコ
西山と竹ノ子島の間に、獅子ヶ口ちゅう大きい怪岩が、口をあけて不気味なかっこうでそそり立っちょる。
むかし、この磯辺に、お夏ていう気丈な女が住んじょった。どだい力も強うて、大食いじゃったが、ある日、磯でワカメを刈りよると、人間ほどもある大ダコが、岩の上で生意気に昼寝をしちょるのが見えた。
『こいつは、うまそうや』
と、大食漢のお夏はそろっと近づいて、その足を一本、鎌で切り取り、持ち帰った。そして夕食の膳にそえて、たらふく食うた。
四、五日たって、また同じ岩で昼寝をしちょる大ダコを見つけたお夏は、ごっぽう喜んでその足の一本を切ろうとした。ところが、大ダコは待ち構えちょったように、七本の足をお夏に巻きつけて、ズルズルと海へ引きずり込んでしもうた。
その後も、七本足の大ダコは、時々出て来ては、岩の上で昼寝をしちょったが、浦の漁師らは、誰も恐れて近寄ろうとはせんじゃったといや。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
これも一般には『お夏ダコ』として伝えられている話である。
ところで、お夏は、話す人によって、女であったり、娘であったり、老婆であったり、それぞれ違っているようである。
西山と竹ノ子島の間に、獅子ヶ口ちゅう大きい怪岩が、口をあけて不気味なかっこうでそそり立っちょる。
むかし、この磯辺に、お夏ていう気丈な女が住んじょった。どだい力も強うて、大食いじゃったが、ある日、磯でワカメを刈りよると、人間ほどもある大ダコが、岩の上で生意気に昼寝をしちょるのが見えた。
『こいつは、うまそうや』
と、大食漢のお夏はそろっと近づいて、その足を一本、鎌で切り取り、持ち帰った。そして夕食の膳にそえて、たらふく食うた。
四、五日たって、また同じ岩で昼寝をしちょる大ダコを見つけたお夏は、ごっぽう喜んでその足の一本を切ろうとした。ところが、大ダコは待ち構えちょったように、七本の足をお夏に巻きつけて、ズルズルと海へ引きずり込んでしもうた。
その後も、七本足の大ダコは、時々出て来ては、岩の上で昼寝をしちょったが、浦の漁師らは、誰も恐れて近寄ろうとはせんじゃったといや。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
これも一般には『お夏ダコ』として伝えられている話である。
ところで、お夏は、話す人によって、女であったり、娘であったり、老婆であったり、それぞれ違っているようである。
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Posted on 2019/12/23 Mon. 10:35 [edit]
category: ひこしま昔ばなし
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佛の瀬
佛の瀬
昭和の初めのころまで、小戸の身投げ岩から海士郷寄りのゆるい坂道をくだり切った浜辺に位牌の形をした岩が建っていました。
この岩のことを彦島の人びとは、むかしから『ほとけ岩』と呼んで、いつも花を絶やさなかったといいます。
むかし、壇ノ浦合戦のあと、平家の落人は、小門の王城山や彦島などに隠れ、平家の再興をはかっていました。
しかし、やがてその望みも絶たれてしまいましたので、ある者は漁師となり、ある者は百姓になり、またある者は海賊に身をやつしてゆきました。
その中に一人だけ、かつての栄華の夢が忘れられず、武人の誇りを守り通そうとする男が居ました。その武士は、百姓、漁師などに身を落としてゆく一門を見つめながら、日夜、悶々として生きていましたが、ついに自分の生きる道をはかなんで、小瀬戸の流れに身を投げてしまいました。
浦びとたちは、その武士の死をいたみ、大きな墓石を建てて、霊を慰めました。すると小瀬戸の急流に押されたのか、大小いくつもの岩石が墓石のまわりに寄せ集められて、いつのまにか大きな岩礁が出来ました。
そこで誰いうことなく、墓石のことを『ほとけ岩』と呼び、その周囲の岩礁を『佛の瀬』と呼ぶようになりました。
ところが、不思議なことが起こりはじめました。というのは、そこを通る漁船から、少しでも白いものが見えたりすると、急に潮流が渦巻いて荒れ狂うようになったのです。
だから漁師たちは、船に赤い旗を立てて小瀬戸の海峡を航行するようになりました。
今、船に色とりどりの旗と共に、大漁旗などを立てる風習は、この赤旗のなごりだそうです。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
この佛の瀬は、下関漁港修築の際に取り除かれ、現在はその影をとどめない。
ここでは『佛岩』の伝説とかなり違ったものになっているが、いずれにしても、永い間、庶民の間に、平家の哀しさが語り継がれたことだけは間違いないようだ。
昭和の初めのころまで、小戸の身投げ岩から海士郷寄りのゆるい坂道をくだり切った浜辺に位牌の形をした岩が建っていました。
この岩のことを彦島の人びとは、むかしから『ほとけ岩』と呼んで、いつも花を絶やさなかったといいます。
むかし、壇ノ浦合戦のあと、平家の落人は、小門の王城山や彦島などに隠れ、平家の再興をはかっていました。
しかし、やがてその望みも絶たれてしまいましたので、ある者は漁師となり、ある者は百姓になり、またある者は海賊に身をやつしてゆきました。
その中に一人だけ、かつての栄華の夢が忘れられず、武人の誇りを守り通そうとする男が居ました。その武士は、百姓、漁師などに身を落としてゆく一門を見つめながら、日夜、悶々として生きていましたが、ついに自分の生きる道をはかなんで、小瀬戸の流れに身を投げてしまいました。
浦びとたちは、その武士の死をいたみ、大きな墓石を建てて、霊を慰めました。すると小瀬戸の急流に押されたのか、大小いくつもの岩石が墓石のまわりに寄せ集められて、いつのまにか大きな岩礁が出来ました。
そこで誰いうことなく、墓石のことを『ほとけ岩』と呼び、その周囲の岩礁を『佛の瀬』と呼ぶようになりました。
ところが、不思議なことが起こりはじめました。というのは、そこを通る漁船から、少しでも白いものが見えたりすると、急に潮流が渦巻いて荒れ狂うようになったのです。
だから漁師たちは、船に赤い旗を立てて小瀬戸の海峡を航行するようになりました。
今、船に色とりどりの旗と共に、大漁旗などを立てる風習は、この赤旗のなごりだそうです。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
この佛の瀬は、下関漁港修築の際に取り除かれ、現在はその影をとどめない。
ここでは『佛岩』の伝説とかなり違ったものになっているが、いずれにしても、永い間、庶民の間に、平家の哀しさが語り継がれたことだけは間違いないようだ。
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Posted on 2019/12/22 Sun. 10:55 [edit]
category: ひこしま昔ばなし
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22
身投げ岩
身投げ岩
大阪の豪商の一人娘、お米は評判の美人でした。お米には、行く末をちぎった男が居ましたが、ある日、男は他に恋人をつくり、手に手をとって大阪を逃げてしまいました。
それを聞いたお米は親の止めるのも聞かず男のあとを追って家を飛び出しました。そして、諸国を尋ね歩いた末、彦島にやって来ましたが、求める姿はどこにも見当たりませんでした。
心身共に疲れ果てたお米は、小戸の大岩に腰をかけて、逆巻く小瀬戸の潮を見つめていましたが、思いあまって、そこから身を投じてしまいました。
その後、どこかでお米の噂を伝え聞いた若者が彦島を尋ねてきて、お米の最期をことこまかく聞き歩きました。そのあげく、自分の前非を悔いたのか、ある日、同じ岩の上から身を投げてお米のあとを追いました。
それ以来、七日毎の命日の夜には、大きな青い火が二つ、小戸の空を追いつ追われつ飛んでは海に落ちて消えるようになりました。
そこで、島びとは西楽寺の和尚にお願いして読経して貰ったところ、その夜から二つの火は見られなくなりました。
島びとは二人の供養のため、岩の上に石塔を建てて、いつまでも花を絶やさなかったと伝えられています。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
大阪の豪商の一人娘、お米は評判の美人でした。お米には、行く末をちぎった男が居ましたが、ある日、男は他に恋人をつくり、手に手をとって大阪を逃げてしまいました。
それを聞いたお米は親の止めるのも聞かず男のあとを追って家を飛び出しました。そして、諸国を尋ね歩いた末、彦島にやって来ましたが、求める姿はどこにも見当たりませんでした。
心身共に疲れ果てたお米は、小戸の大岩に腰をかけて、逆巻く小瀬戸の潮を見つめていましたが、思いあまって、そこから身を投じてしまいました。
その後、どこかでお米の噂を伝え聞いた若者が彦島を尋ねてきて、お米の最期をことこまかく聞き歩きました。そのあげく、自分の前非を悔いたのか、ある日、同じ岩の上から身を投げてお米のあとを追いました。
それ以来、七日毎の命日の夜には、大きな青い火が二つ、小戸の空を追いつ追われつ飛んでは海に落ちて消えるようになりました。
そこで、島びとは西楽寺の和尚にお願いして読経して貰ったところ、その夜から二つの火は見られなくなりました。
島びとは二人の供養のため、岩の上に石塔を建てて、いつまでも花を絶やさなかったと伝えられています。
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- 親クジラの願い (2019/12/20)
Posted on 2019/12/21 Sat. 09:34 [edit]
category: ひこしま昔ばなし
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21