11 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 01

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

親クジラの願い 

親クジラの願い


下関彦島田ノ首町。
1000メートルそこそこの海峡をはさんで、対岸の門司側にも工場の煙突や倉庫群。
すぐ目の前を一日千隻もの大小のタンカー、貨物船が右へ左へひっきりなしに通る。
このにぎやかな海を、戦前までクジラの群れが泳いでいた。

日本沿岸からザトウクジラ、セミクジラなどの小型クジラが姿を消したのは昭和になってから。
幕末から明治にかけては、紀伊半島沖、壱岐、対馬、五島と並んで瀬戸内海はクジラの好漁場だった。

関門海峡を通って波静かな瀬戸内海へ出入りするクジラは、たいてい子連れだったという。
田ノ首町に伝わる「親クジラの願い」も、子連れクジラにまつわるあわれな話だ。


明治40年ごろ、彦島田の首に貧しい漁師がいた。
五つになる男の子があったが、生まれつき体が弱く、病気がちだった。

ある夜、漁師はまくらもとの気配で目がさめた。
部屋の中に真っ黒く大きなものが立ちふさがっている。
よく見るとクジラだった。
驚く漁師にクジラは
「私たち夫婦クジラは、明日の昼ごろ、一人息子の子クジラを連れてこの海峡を通ります。
しかし子クジラは病気です。
どうか息子だけは見逃してやって下さい」
クジラは哀れみをこうように弱々しく頼み終わるとスーッと消えた。

夜が明けた。
漁師はさっそく浜の仲間を集めてこの不思議な出来事を話した。
半信半疑の仲間たちも、クジラが本当にとれれば、いい収入になる。
みんな銛や太綱を用意して待った。

クジラは前夜の話のとおりに親子三頭でやってきた。
たちまち海峡は修羅場になった。
大波をたてて暴れる親クジラ、飛び交う銛。
そのときどうしたはずみか一本の銛が、両親に守られていた子クジラの胴にグサリと命中してしまった。
海を血で真っ赤に染めながら、のたうち回る子クジラ。

突然、父クジラが今までに倍して暴れ始めた。
激しくはね、漁師たちの小舟を次々と大きな尾びれでたたいた。
船はこわれ、漁師たちは海へ投げ出された。
もはやクジラ捕りどころではない。
みんな命からがら泳いで逃げた。

モリ傷を負った子クジラが、その後どうなったかだれも知らない。
そして“夢”を見た漁師が疲れ果てた体を引きずってわが家へ帰り着くと、その少し前に息子が息を引きとっていた。
ちょうど、モリが子クジラに突き刺さったころ高熱を出し、もがきながら死んだという。
(冨田義弘著「彦島の民話」から)


当時、沿岸捕鯨の漁民が最も喜んだ獲物は、子連れのセミクジラだった。
セミクジラは肉がうまく、油も多かった。
しかも子連れの場合、動きの鈍い子クジラを先に仕留めれば、母クジラは決してそのそばを離れず、たやすく二頭とれたからだという。

貧しい漁師が、うまく親クジラをとっていたら、まっ先に病弱な息子に薬を買い、医者を呼んだにちがいない。
クジラに通じる親の情がこの民話を生んだのだろうか。
全く同じ話が、かつて沿岸捕鯨で栄えた各地の浦にいまも伝えられているという。


防長紀行第三巻 民話の里 マツノ書店刊より
関連記事

Posted on 2019/12/20 Fri. 10:11 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

20

お夏ダコ 

お夏ダコ


 西山に、お夏という娘が居た。娘の家は漁師だが、大変貧乏で、その上、両親がとかく病気がちで寝込むことが多かった。お夏は自分の手一つで家計を支え、朝早くから海に出て働かなければならなかった。

 ある寒い日のこと、お夏がいつものように海岸でワカメをとっていると、岩の肌に異様なものがからんでいた。それは、人間よりも大きなタコだった。お夏は、ギョッとしたが、こんな立派なタコを両親に見せると、どんなに喜んでもらえるかわからないと思い、さっそく、抜き足さし足で岩に近づくや、手早に鎌でその足を一本だけ切りとり、うしろも見ずに家に帰った。

 あまり大きな足なので、むろん両親にも食べさせたが、残りはぜんぶ近所の人に分け与えた。ほほが落ちるほどおいしかったので、みんなに喜ばれた。

 そのあくる日、お夏がまた海岸に出てみると、昨日の大ダコが傷あともなまなましく、同じ岩にからみついていた。お夏は今日もまた一本だけ足を切り取って帰り、みんなを喜ばせようと思った。忍び足で、ジリ、ジリッと岩のそばに近づいた。
 ところが、やにわにおどり上がったタコは、お夏にかぶさるように襲いかかった。お夏は逃げるまが無く、ついに七本の大きな足で、がんじがらめに巻きつかれてしまった。そして海の中へズルズルと吸い込まれていき、その明くる日も、また明くる日も、ついに大ダコは現れず、お夏のなきがらも見つからなかった。

 それからというもの、この海岸では、どんな小さなタコも『お夏ダコ』と呼び、ここの漁師たちは、そのたたりを恐れてか、この付近のタコを決して口にしなくなった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は、佐藤治氏著『ながとの民話』から写した。
下関図書館刊行の『下関の伝説』にも『お夏ダコ』の話が書かれている。
このほうは、お夏が、二、三日おきに足を切り取っていって、最期の一本でお夏の命が奪われたとなっている。
伝説としては、凄味があって面白い。
関連記事

Posted on 2019/12/19 Thu. 10:21 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

19

子鯨の話 

子鯨の話


 田ノ首の浜に、貧しい漁師が住んでおった。漁師には、男の子が一人あったが、生まれつき病弱で、いつも床についたままじゃった。

 ある夜のこと、昼の疲れにぐっすり寝込んだ漁師の枕辺に、何か大きな真っ黒いものが立ちふさがった。
 ふと目をさましてみると、それは大きな鯨じゃった。びっくりした漁師は、思わず声を立てた、
『何しに来た』
 すると鯨は、いかにも哀れみを乞うように、弱々しくこう言うた。
『私たち夫婦は、明日の昼ごろ、一人むすこを連れてこの海峡を通ります。しかし、むすこは病気でとても弱っていますので、どうか、むすこだけは見逃してやってください。よろしく頼みますよ』
 そう言い終えると、鯨の姿はスーッと消えてしもうた。

 夜が明けた。漁師はさっそく、浜の漁師たちを集めて、昨夜の不思議な出来事を話し、
『今から、みんなで鯨をとりに行こう』
 と、相談した。そいやけど、漁師たちは、
『そんな馬鹿げた話があるものか』
 と、相手にせんじゃった。でも、よう考えてみると、昔から、鯨一頭とれば七浦が栄える、と言われたほどの収入があるので、
『だまされたと思うて、沖へ出てみよう』
 ということになり、みんなで鯨とりの準備にとりかかった。あれこれ仰山、もりやロープを用意して、人びとは海を見つめて待った。

 やがて、昼少し過ぎたころ、小倉の沖合いに、大瀬戸に向かって来る鯨を発見した。
 一頭、そのあとにまた一頭、そしてその間にはさまって小さな鯨が一頭…。
 それはちょうど、親が子どもの手をしっかりと引いちょるように見えた。

『鯨じゃあ、鯨が来るぞ』
 待ちかねておった漁師たちは、いっせいに舟を出し、沖にむかって漕ぎはじめた。
 舟が鯨に近づくと、鯨波が津波のようなうねりをあげて押し寄せ、小舟はまるで木の葉のように揺れ動いた。
 そいでも漁師たちは、必死になって鯨に近づき、無茶苦茶にもりを投げつけた。もりは、親鯨にさえもなかなか命中せん。

 ところが、どうしたはずみか、その中の一本が、撃っちゃあいけん筈の子鯨の胴に突きささった。子鯨は、海を血に染めながら、のたうちまわった。母鯨は急いで子鯨のそばに寄り、心配そうに離れようともせんじゃった。
 一方、父鯨のほうは、激昂して暴れまわり、尾びれで次々に小舟を海に沈めはじめた。
 漁師たちはみな海に放り出され、もはや、鯨をとるどころじゃあない。命からがら岸にむかって泳ぎはじめた。
 傷を受けた子鯨が、その後どうなったかは全くわからん。

 そいやけど、貧しい漁師が痛む体を引きずって我が家へ帰ってみると、いとしい一人むすこが死んでおった。
 それはちょうど、もりが子鯨に命中した時間に、むすこが高熱を出して、もがき死んだちゅうことじゃて。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


 
(注)
この話は『下関の伝説』や、『ながとの民話』などにも収録されている。
題名としては『くじらの話』『子くじらの話』『鯨の願い』などとなっており、これによく似た話が『大津郡誌』にも載っていると、佐藤治氏は書いている。佐藤氏によれば、関門海峡を鯨が通過したことは、明治にはいってから現在まで二度あった。子鯨の話は、そのうちの一度で、明治四十年のことだそうである。
それはさておき、先年も、関門海峡を三頭の鯨が通って大騒ぎした。山口新聞によれば、昭和四十八年六月一日午前十時四十五分ごろ、完成間近であった関門橋の下を、十三メートルか十五メートルくらいの鯨が通ったというのである。
この噂は、またたくまに広がり、海岸べりは物凄い人だかりとなったが、鯨はゆうゆうと泳いで海峡を東へのぼって消えたそうである。
同紙にはその証拠写真まで掲載されていたが、『子鯨の話』と同じく、三頭の鯨であるところが、何か因縁めいている。
関連記事

Posted on 2019/12/18 Wed. 09:18 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

18

金の弦(きんのつる) 

金の弦(きんのつる)


 彦島の南端、田の首には『カネガツル』という岬があるが、少し東よりの弟子待がわにも『金の弦岬』と呼ばれる岩山がある。

 むかし、この岩山に一本の桂の木が枝を伸ばしていた。春になれば紅色の花を咲かせたが、その実は不思議にも金色に輝いていた。
 浦びとは、この桂の木を、月からの贈り物に違いないと喜び、木の回りに、しめ縄を張ってお供え物を欠かさなかった。
 ところが、ある年の秋、この付近を襲った台風が、桂の木を根こそぎ抜いて海に流してしまった。
 浦びとたちは、嘆き悲しんだが、
『わしらの信仰が足りなかったから』
 と、同じ場所に、もう一本の桂の木を植えて、以前にもまして、日夜おがんだ。

 あくる年の春、三日月がだんだん円くなりかけたある夜のことである。桂の苗木が金色に輝いているのを一人の浦びとが見つけて、みんなを呼び集めた。
 あの浜この村から多くの人びとが集まって来た時は、桂の苗木はぐんぐん大きく伸びはじめていた。
 あれよあれよと浦びとたちが驚きの声をあげている間に、桂は三日月のように半円を描きはじめ、やがて、スポンと音がして、根が抜けた。それから、そのままゆっくりと宙を舞い、浦びとたち一人一人の肩にそっとふれて、ゆっくりと空高く昇っていった。

 それからというもの、浦びとたちは三度び桂の木を植えないことを話し合い、岩山にしめ縄だけを張って『金の弓弦の岬』と呼び信仰をおこたらなかった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
関連記事

Posted on 2019/12/17 Tue. 12:02 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

17

金の鶴 

金の鶴


 田の首の泥田には、毎年、冬になると鶴がやって来た。
 ある年、その中に一羽だけ、金色に輝く鶴が居た。村びとたちは驚いてワイワイ集まって来たが、よく見ると羽が折れていて、歩くのがやっとらしい。
『これは可哀そうだ。掴まえて手当てをしてやろう』 
 と、近寄ろうとすると、鶴たちは金の鶴を囲み、羽をバタバタ広げて寄せ付けない。
 こんなことが毎日つづいたので、鶴たちはエサを捕りに行くことも出来ず、一羽、二羽と飢え死んでいった。
 村びとたちは、ようやくそれに気がついて、しばらくは鶴に近寄らないことにした。
 鶴たちは安心して、またもとのように四方へ飛び立ってはエサを捕り、金の鶴のところへ運びはじめた。
 しかし、正月が来て、寒もさめたというのに、金の鶴の羽は折れたままで、見るも痛々しい。
『何とかしてやりたいものだ』
 と、村びとたちは集まってラチのあかない話ばかりし合っていた。
 ある夜のこと、鶴たちが寝静まったころ、一人の老人が、そっと忍び寄って、金の鶴を掴まえた。村びとたちは大喜びで手分けをして、ドジョウを捕ってきたり、羽の手当てをしたりして、毎日、田畠に出かけるのも忘れた。
 その甲斐あって、春が近づいたある日、金の鶴は飛び立つことが出来るまでになった。そして鶴たちは、金の鶴をかばうようにして田の首を飛び立った。
 大勢の鶴が名残りを惜しんで、田の首の空をグルーッと一回りした時であった。沖を通る船から弓矢が放たれて、金の鶴の首を射ち抜いた。金の鶴は、まっさかさまに落ちて岩礁に消えた。
 あくる年から、心待ちにする人びとの前に、とうとう鶴は姿を見せなくなった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
『よそ者が鶴を撃った』という話はつい最近まで、田の首あたりで聞くことが出来たという。
鶴は『たづ』とも呼び、『田鶴の首』が転じて『田の首』となったという説がある。
また、散木集に、たつの居る亀の首より漕ぎ出て心細くも眺めつるかな
と歌われていて『亀の首』が『田の首』のことであるという説もある。
関連記事

Posted on 2019/12/16 Mon. 11:46 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

16

金の蔓 

金の蔓


 むかし、田ノ首の岬の上に、大きな金の蔓が生えていて、朝夕さんぜんと輝いていた。

 里びとはもちろんのこと、ここらを航海する舟びとも、この不思議な現象に心うたれて、誰も取る者はいなかったが、ある日のこと、欲の深いマドロスが、ひそかにこの金の蔓を根元から引き抜き、船に積んで出航した。

 すると、たちまち大風が起こり、船はそのすぐ近くにある鳴瀬の暗礁に打ち上げ、木っ端微塵に砕けて、マドロスたちは、一人残らず激流にのまれて死んだ。

 そのため、この不思議な金の蔓は、永久に姿を消したが『金のツル岬』と呼ばれて、名前だけは残された。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は『馬関覚え帳』に西白道氏書いているものである。
ここでは、ツルが『蔓』となっており、マドロスが出てくるので、明治以降の新しい話であろう。
関連記事

Posted on 2019/12/15 Sun. 16:12 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

15

鬼の墓 

鬼の墓


 舞子島の西側に、大きな眼鏡岩がそびえ立っておる。
 むかし、この海岸は多くの鬼どもの根城であった。鬼どもは朝に夕に、眼鏡岩にのぼっては沖を通る船を監視しておった。そして、荷物をたくさん積んだ船が通りかかると、小舟を漕ぎ出して、さんざん掠奪をくり返した。

 そのやり方が、あまりにあくどいので、ある日、テントウ様がお怒りになり、鬼どもをこらしめることになった。
 その夜、鬼どもが総勢集まって円陣を組み、酒盛りをしておると、一天俄かにかき曇り大嵐となった。その上、雷までが頭のすぐ上をころげ回った。
 鬼どもは大慌てでわれさきにと逃げはじめたが、時はすでにおそく、次つぎに落雷して、ことごとく死んでしもうた。
 ところが、死骸となった鬼どもの表情は、ほとんどが赤ん坊のように柔和にあどけなく美しかった。

 それをみたテントウ様は、
『鬼も、死ねば天に還るか』
 と、つぶやかれて、眼鏡岩のそばに鬼の死体を集めて、ねんごろに葬られた。
 しかし、その数は思っていたよりもはるかに多く、とうとう大きな山になってしまった。テントウ様は、死体の山に土をかけ、その冥福をお祈りになった。

 やがて、この浦にものどかな春がやってきて、人びとは鬼の墓のことを『丸山』と呼び、眼鏡岩の近くの岩屋を『鬼穴』と呼ぶようになった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
舞子島近くの海岸線は、約三千万年前の浸蝕がそのまま残されていて、奇岩怪礁の地であるが、この付近は、今でも『鬼崎』と呼ばれ、『テトリガンス』を『鬼穴』と呼んでいる。
眼鏡岩や『丸山』は、通称、ドックの浜に、現在もそのままの形で残っている。
関連記事

Posted on 2019/12/14 Sat. 10:20 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

14

島が動く 

島が動く


 むかし、竹ノ子島は、二つに分かれて、一方の島には鬼がようけ(たくさん)居ったので、『鬼ヶ島』と呼ばれていた。これは、そのころの話。

『オーイ、大変だぁ』
 鬼どもが集まって酒を飲んでおると、赤鬼が、大声でわめきながら青うなって飛び込んできた。
『どうした、どうした』
『何事が起こったんじゃい』
 鬼どもはゾロゾロ寄って来て、青い顔をしてブルブルふるえ、物も言えん赤鬼を取り囲んで座った。
『出てみい。むこうの島が、こっちいやって来よる』
『バカッ、落ち着けいや』
『むこうの島から、一体、誰が来よるんじゃ』
『いや、違うっちゃ。島が、島がのう、島が動いて、こっちい来るんや。危ないけえ早よう逃げよう』
『こいつ、気がおかしゅうなりおったぞ。ほっちょけ、ほっちょけ』

 鬼どもはゲラゲラ笑いながら、腰をあげて外に出て行ったが、ひょいと砂浜のむこうを見て、ぶったまげた。
 南側の大きいほうの島が、ジワーッ、ジワーッと、こっちに近づいて来よったからだ。それだけじゃない。鬼どもが住んでおるこっちの島も、コソリッ、コソリッと動いちゃあ向こうに近づきつつある。眼を広げてよう見ると、むこうの島は、波までけたてて、速度を早めたらしいので、さあ大変。

 赤鬼も青鬼も、みんな青うなって、青鬼の奴なんざあ紺屋の紺つぼに落ち込んだように青うなって、ころげて逃げた。
 どいつもこいつも我さきにと浜の舟に飛び乗って、慌てた奴らがゴチャゴチャに漕ぎはじめた。平常から悪いことばかりして居る鬼どもは天罰てきめん。
 北へ逃げた奴は『螺ノ瀬』にぶつかって全滅、南へ漕いだ舟は『獅子ヶ口の瀬』に呑まれて、みんなオダブツ。

 それまでは、鬼の居る『鬼ヶ島』と、人間の住む『竹ノ子島』の間は、だいぶ離れておったが、この二つの島はその日から一つになって、それでも、まだこまぁい(小さい)竹ノ子島が出来た。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
竹ノ子島付近には、鬼の伝説が多く残されている。
鬼といえば、何となく凄みのある話を想像させるが、この辺りで聞く『鬼』は一様にとぼけた味があって面白い。
『獅子ヶ口』『栄螺瀬』『蛸岩』など、鬼にまつわる伝説は多いが、年々、忘れられてゆくのがたまらなくつらい。
関連記事

Posted on 2019/12/13 Fri. 10:59 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

13

六連の大鐘 

六連の大鐘


むかし、六連島の西教寺には、重さ三十二貫(480キロ)もある大きな釣鐘がありました。
鐘はふつう時間を知らせるために鳴らしますが、ここのは、それ以外に舟が安全に進むように羅針盤と危険を知らせる警鐘の役目をもっており、特別な大きな釣鐘を作ったのでした。

それほど六連島のあたりは、漁船、そのほかの舟の行き来がはげしく、また遭難も多かったのです。
とくに六連島を含んだ馬島、藍島、白島一帯は、霧の名所で、この霧に閉じ込められて方向を間違える漁師はたくさんいました。
そうしたときには、必ず島の人はこの鐘を乱打して方向を知らせてやりました。


こんなことがありました。

夜釣りにでた漁師が舟の上でウトウトしていますと、目の前に大きな怪物が現れました。
はっきり目をすえてみると、それは大入道で、人間が四、五人はいれそうな目をギョロギョロさせ、口は耳まで裂け、いまにも舟におおいかぶさろうとしていました。
とたんに漁師は目を回してしまいましたが、それからしばらくして、正気にもどってみると、あの大入道の姿はなく、深い夜霧の中から鐘の音がかすかに聞こえてきていました。

島の人たちは、この怪物を海坊主といっていますが、海坊主のいたずらは、このほかにもまだあります。

真っ暗い闇の中に舟を走らせていると、目の前にこちらを向いて矢のように走ってくる舟があります。
危ない、ととっさに舵を変えてみたが、どうしても舵が動きません。
向こうの舟は、ますます速力をまして近づいてくる。
あせればあせるほど、こちらの舟は吸いつけられるように向こうの舟の真正面に進みます。
アッ、衝突。
気を失った漁師が目をさましてみると、さきほどまで猛スピードで突っ込んできた舟の姿はなく、また自分の舟も壊れていませんでした。

このほか、空から「水をくれ、水をくれ」と叫んで、舟を追いかけてくることもあるし、海の底から何か大きな網でグイグイと舟を引っ張り込むこともあります。


ある霧の深い夜の出来事です。

一人の漁師がいつものように夜釣りにでていますと、自分の舟が同じ場所をくるくると輪をえがいて回りはじめました。
風もあまりなく、波もおだやかなときなので、漁師は不思議に思って、船べりから身を乗り出して海中を見ると、海坊主が舟の底をくるくる回している。
と見る間に、目もくらむほどの早さに変り、漁師は今にも海に放り出されそうになりました。
もう助からない、いまはこれまでと、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と夢中でお経を唱えました。
そのとき漁師の頭の中に、かすかに“ガーン、ガーン”と鐘の音が響いてきました。
と見る間に、舟の回転はだんだんゆるくなりましたが、それでも漁師はまだ目を明けずに「南無阿弥陀仏」と唱え続けました。
鐘の音はしだいに近くなり、そのうちピッタリと舟が止まりました。
漁師は恐る恐る目を開いてみますと、目の前に六連の島がポッカリと朝霧の中に浮いていたということです。


こうして、六連あたりの漁師は、よく“あやかし”に襲われますが、そのたびに六連西教寺の釣鐘は、この“あやかし”退治にご利益があったといいます。


(注)
あやかしとは、船の難破しようとするときに出るという海上の怪物。
六連島へは、いま竹崎町から船が通っていますが、約30分で着きます。
竹崎町から距離にして約6キロメートル、島の周囲3.5キロメートル、世帯数56、人口253人です。

この島の名は、古い本によると日本書紀に「没利島」と記されています。
伝説によりますと、いまから約三百五十年前、この島にある西教寺を最初に開いた人で、麻生与三衛門高房ほか、五人がはじめてこの島に渡り、ここに住みつくようになりましたが、島の土地を分けるために縄でこの島を六等分したことから六連島と呼ぶようになったといいます。

また別の説によると、この六連島一帯には、この島を中心に馬島・藍島・白島など、六つの島が連なっているので六連島の名がついたといわれています。

ところで、この六連島のことは別名で蟹島といっています。
この島を空から見ると蟹の形をしているから、そう呼ばれたのでしょう。
またある人にいわせると、大昔、下関の火の山が大爆発したとき、吹き上げられた熔岩が西に流れ、椋野、幡生から海に入り、玄海に向かいましたが、たまたまそこに蟹の大群がいて、その熔岩を鋏み止めたといいます。
そうしてできた島だから蟹島と呼んだといいます。

いまでも島の北側の海岸に「蟹の瀬」というところがあり、森の中に「蟹の目」という地名が残っています。
島の古老の話では、むかしは六連島の人は絶対蟹を食べなかったといいます。


『下関の民話』下関教育委員会編
関連記事

Posted on 2019/12/12 Thu. 10:04 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

12

六連のあやかし 

六連のあやかし


 下関の離島、六連島は、その周辺に浮かぶ、馬島、藍ノ島、白島などをふくめて霧の名所として名高く、それだけ舟の遭難もまた多かった。
 だから漁師たちは、昔から、この付近には『海坊主が出る』とか、『あやかしにやられる』とか言ったものだった。そして、霧の深い時など、ことさら舟を出すことを恐れていた。


 こんな話がある。

 夜釣りに出た漁師が、ウトウト眠りかけていると、目の前に大きな怪物があらわれた。
 それは、四斗樽くらいの目をギョロ、ギョロさせ、口は耳まで裂けた大入道で、今にもこの小舟をひと呑みにしようとしている。それを見て漁師は、とたんに眼をまわした。

 しばらくして正気に戻ってみると、あたりには、何の姿も見えなかったという。
 これを海坊主というのであろう。


 また、ある時こんなことがあった。

 ある霧の深い夜であった。一人の漁師がいつものように夜釣りに出ていると、突然、自分の舟が同じ場所をクルクルと輪をかいて回りはじめた。それは、目のくらむほどの早さで、漁師は、今にも舟から海に放り出されそうであった。
 漁師は生きた心地もなく、ただ目をつむったまま、『南無阿弥陀仏』『南無阿弥陀仏』と夢中で唱えた。
 すると舟の回転はだんだんゆるみ、しばらくしてピタリと止まった。
 これが、いわゆる『あやかし』に襲われたというのであろう。


 まだ、ある。

 漁師が、真っ暗い闇の中を走らせていると、目の前に、こちらを向いて矢のように走ってくる舟があった。
『危ない!』
 と、とっさにかじをかえてみたが、どうしてもかわらない。向こうの舟はますます速力を増してばく進して来る。あせればあせる程、こちらの舟は吸いつけられるように、向こうの舟の真っ正面に向かって進む。
 アッ、衝突!
 失神した漁師がふと正気に戻ってみると、そこには、さきほどの舟の姿も見えないし、自分の舟は何も異常なかったという。


 またある時には、何者かが、空から『水をくれ、水をくれ』と叫んで、舟を追っかけて来ることもあったし、海の底から何か大きな網でグイグイと舟を引っぱり込まれそうになったこともあったというが、これらはすべて『あやかし』という魔物の仕業であろうか。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は『ながとの民話』に書かれている。
『馬関覚え帳』や『下関の伝説』によれば、六連島西教寺の鐘が鳴ったとたんに、海坊主や、あやかしは消えてしまった、と書いてある。
ところで、六連島という名の起こりについては、
『むかし、麻生与三衛門尉高房ら六人が蟹島にやって来て住みつき、島を六等分して、「六人が末永く、手を連ねて生きてゆこう」と誓い合ったことから六連島と名付けられた』という説がある。『手を連ねて』というのは、『手を取り合って』つまり協力の意である。
関連記事

Posted on 2019/12/11 Wed. 10:14 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

11