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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

潮の花散る【筋ヶ浜】 

潮の花散る【筋ヶ浜】


彦島と伊崎は指呼の間にあり、小瀬戸を漁船が行きかっています。

伊崎の家並みの先には造船工場が数社あり、仰ぎ見るとクレーンが、左右へ忙しく動いていました。

工場の外れで道も途切れ、やがて「彦島大橋」があり、海辺へ下って行くと、北浦の山並、六連島、北九州、彦島の竹ノ子島などが望まれ、風景が一変します。

響灘に面した海辺には、真砂を背景に、大波が千々に散り、潮の花を一瞬の間咲かせては消えていきます。

筋ヶ浜には、昭和40年に運転を開始した公共下水道の終末処理場があり、旧市内地区約二万二千世帯の下水を処理し、衛生的な生活を進めるために、24時間運転をしています。

このほか「食肉センター」があり、年間約2000頭の牛と、豚約8000頭などが処理され、毎年7月には畜霊祭が執り行われます。

金比羅公園下あたりの海辺では、明治のころまで凧揚げが盛んで、揚がっているタコの糸を切って落とす「かけ合い」が行われる日は、応援のために店を閉め、芸者をくり込ませて、三味線が出る、太鼓が出る、歌が出るなどで、日が六連の沖に落ちるまで、金比羅の浜は終日どよめいたということです。

長崎と並んで有名だった凧揚げが、復活する日はないものでしょうか。


下関市教育委員会編「わがふるさと見て歩き」昭和58年発行
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Posted on 2019/11/15 Fri. 09:56 [edit]

category: わがふるさと見て歩き

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下関とクジラの歴史3 

下関とクジラの歴史3

南氷洋への捕鯨基地へ

中部幾次郎は、大正7年、土佐捕鯨を買収し、捕鯨業に第一歩を踏み出します。
土佐捕鯨には、福志満丸という捕鯨船と、日本一の砲手・志野徳助がいました。
初めての南氷洋捕鯨は、昭和11年に出港。
頼りにした人、志野徳助が南氷洋到着前に急死したものの、シロナガスクジラ807頭、ナガス279頭など捕獲し大成功をおさめ、翌年の4月23日に下関へ帰港。
全船満艦飾の八隻の捕鯨船は、捕獲の成績順に入港したそうです。

しかし、慣れぬ南極海のこと、次の年には、大惨事が待っていました。
気象の急変に気がつかず、三隻の捕鯨船が氷の海に閉じ込められ、動けなくなったのです。
船長以下50人は、船を放棄し、氷の割れ目に転落を防ぐため、一人一人竹竿をもち、氷原を十時間も歩き、やっとの思いで救出されたそうです。

やがて、戦争が激しくなると、捕鯨母船や捕鯨船も戦争のために使われ、そのほとんどが壊滅してしまいました。

戦後は食糧難救済のため、国策の一環として、昭和21年から捕鯨が本格的に再開されました。
急造の船団は、軍艦を改造して母船とし、小笠原島周辺へ向け、下関港から、軍艦マーチ・進軍ラッパに送られて、勇ましく出港しています。

戦後のクジラは、当分の間、政府によって買い上げられ、他の魚とともに統制食料品で、配給によって庶民の手に届いたそうで、名古屋から東では、これを機に食習慣になったといわれています。

大洋漁業は、昭和24年に本社を下関から、東京に移しますが、捕鯨船40余隻を建造した林兼造船、鯨肉を食品に加工した林兼産業、さらに製氷会社など、関連会社の多くを操業させ、下関市発展の一翼をいなっていました。

昭和40年代のことですが、下関でのクジラの消費量は、鯨肉1000トン、ハム・ソーセージなどに4500トンが使われ、安価で蛋白質が豊富なことから、学校給食にも盛んに活用されていました。

また、下関には、昭和33年開店した大洋漁業直営のクジラ専門レストラン「日新」があり、献立は刺身など23品目と、クジラ和会席、クジラの洋食フルコースがあり、年間13万人の客が訪れました。
岡本幸一調理長は、フルコースのできる全国でただ一人のひとでした。

しかし、探鯨機搭載による捕獲率の向上、捕鯨オリンピックと称し各国が南氷洋で覇を競い、日本も昭和34年に第一位となり、最盛期には七船団が出漁、こうした結果は、同60年、商業捕鯨の一時停止を招くことになりました。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/11/15 Fri. 09:34 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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源平合戦・清盛略年譜 

源平合戦・清盛略年譜

1118年 平清盛誕生
1149年 清盛、安芸守(安芸国の国司)に任命される
1156年 後白河天皇に味方し「保元の乱」に勝利
1159年 「平治の乱」起こる。義経の父、源義朝らが挙兵、清盛に破れる
1167年 清盛(五十歳)太政大臣となる
1168年 平家全盛、高倉天皇即位
1171年 清盛の娘徳子入内、高倉天皇の女御となる
1178年 中宮徳子に清盛の孫になる皇子(安徳天皇)誕生
1179年 清盛、後白河法皇を幽閉。
1180年 安徳天皇即位。高貪官以仁王の平家打倒の令旨
頼朝挙兵。木曽義仲挙兵
「石橋山の戦い」で頼朝を敗る
「富士川の戦い」で源氏車と対峙
清盛、後白河法皇の幽閉をとく
1181年 高倉上皇没。
後白河法皇が院政を再開。
清盛(六四歳)没。平家政権消滅。
1183年 「倶利伽羅峠の戦い」で義仲が平家車を破る
平家、安徳天皇・三種の神器を奉じて西国へ都落ち
後白河法皇、頼朝に東国支配院宣
平家、大宰府に入。
門司柳ケ浦(大里)に仮御所を造る
1184年 義仲、征夷大将軍に任じられる
「宇治川の戦い」で義仲が敗れる
義仲(31歳)敗死
「一の谷の戦い」で義経に敗北
1185年 「屋島の戦い」で義経に敗北
「壇ノ浦の戦い」平家滅亡
安徳天皇入水
1189年 義経(31歳)自害
1192年 後白河法皇没(66歳)
頼朝征夷大将軍に任じられる
1199年 頼朝(53歳)没


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より
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Posted on 2019/11/15 Fri. 09:18 [edit]

category: 下関あれこれ

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