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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

潮の香り船の旅【六連島他】 

潮の香り船の旅【六連島他】


若葉の香りもさることながら、潮の香りも最高の季節。
海のオゾンいっぱいの船旅をしませんか…。

まず、身近な船旅には、関門汽船を利用しての海峡横断があります。
唐戸から門司港まで約5分、少しオーバーかもしれませんが「九州へ船旅をしてね」と吹聴してもウソにならない程の充実感があります。

次は彦島への船旅。
竹崎から彦島海士郷まで、所要時間3分、アッという間の航路ですが、これぞ、ささやかな幸せを感じるミニ船旅です。
海士郷には、平家伝説の「きぬかけ岩」があり、また彦島大橋の景観もすばらしいものです。

また、島へ渡ってみたい方は、竹崎から市営渡船を利用して六連島へ。
所要時間は25分。
島内には、国の天然記念物「雲母玄武岩」など一度は見ておきたい所もあります。

蓋井島は、吉見港から35分の距離。
島には「山の神の森」などがあり、ハイキングや釣りなども充分楽しめます。


下関市教育委員会編「わがふるさと見て歩き」昭和58年発行
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Posted on 2019/11/13 Wed. 11:19 [edit]

category: わがふるさと見て歩き

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下関とクジラの歴史1 

下関とクジラの歴史1

平成14年4月24日から一ヶ月、下関市で国際捕鯨委員会(IWC)が開催されます。
これを機に、下関とクジラの歴史をひもとき、その大要を紹介しましょう。

古代から親しまれたクジラ

下関市考古博物館に、クジラの骨を利用してできた「アワビオコシ」が、展示されています。
出土したのは、吉母浜遺跡からです。
このことから、弥生時代からすでに、私たちの祖先は、クジラを食用にしたり、骨を生活の道具にしたりしていたことがわかります。

壇之浦での源平合戦においては、クジラの一種イルカが、勝敗を占う手段とされています。
イルカが、平家軍の下を潜り抜けると敗者となり、向きを変えて戻ると勝者となる、と占いが出ました。
結果は、潜り抜けて、平家は敗者となりました。

クジラは、体の全てが利用できることから、「クジラ一頭で七浦潤す」といわれ、貴重なものでした。
永禄11年、下関市の北端、吉母と室津の境界にクジラが流れ着き、その領有をめぐって、両者が相譲らず、争いが起こっているほどです。

江戸時代になると、積極的にクジラを捕る捕鯨業が、さかんに行われるようになり、萩藩、長府藩も捕鯨を奨励援助し、見返りに税を課して収入を得るようになります。
捕れたクジラは、売り捌くことによって、税を払うことができました。
このとき、下関の問屋は、港町という地の利を生かし、長門仙崎や長崎県の生月から鯨油・鯨肉・鯨骨などを仕入れ、薩摩や大阪、東北へと売り捌く流通センターの役割を果たすようになります。
この傾向は、明治・大正・昭和時代と続き、商業都市下関の、クジラとの関わりの大きな柱でした。

では、クジラは、庶民生活にどのようにかかわってきたのでしょうか。

蓋井島に、七年毎に行われる「山ノ神神事」があることは、よく知られていますが、この祭りの「大まかない」という神事の、買い物控帳に、おばいけ、クジラ油が記されています。
また、今から約140年前、下関で奇兵隊を創設した高杉晋作に、物心両面から支援した白石正一郎の日記には、妻の実家へ尾羽毛を贈ったことが記され、鯨肉は大切な食品であり、贈答品とされていたことがわかります。

鯨油は、灯火用やローソクの原料に使われましたが、稲作の害虫ウンカ駆除のため、水田に散布され、農薬の役目を果たしていました。
また鯨骨や内臓は、肥料として大いに利用されて、捨てるところなく利用されていました。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/11/13 Wed. 10:45 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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壇ノ浦古戦場跡 

壇ノ浦古戦場跡

平安時代末期の寿永4年(1185)に、源氏と平家の最後の戦いとなった「壇ノ浦合戦」の跡。現在は「みもすそ川公園」として遊歩道が整備されています。公園前の海は関門海峡の一番狭まったところで「早鞆の瀬戸」といわれ、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所です。壇之浦古戦場を一望できるこの場所は、『今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは』(長門本平家物語)という二位の尼辞世の歌から地名が生じたといわれます。公園内には、源義経・平知盛両雄の像とともに、安徳帝御入水之処碑が配置されており、海峡の激しい潮流を背景に源平最後の合戦に思いをはせることができます。

壇ノ浦古戦場(みもすそ川公園)
・所在地:下関市みもすそ川1番

壇ノ浦の合戦

平家と源氏の雌雄をかけた源平合戦。その最後の舞台となったのは、長門国赤間関壇ノ浦の海上でした。寿永4年(1185)3月24日、両軍約4,000艘ともいわれる軍船が、関門海峡に集結していました。白旗をなびかせるのは、源義経が率いる源氏勢、対する平家は平宗盛、平知盛が率い、船には赤い旗が翻っていました。天下分け目の大海戦は、矢合わせを合図に火蓋を切って落とします。まず優勢に立ったのは平家の船団。東流れの潮流に乗り、戦いを有利にしていました。しかし、昼近く潮流が西に変わりはじめると接近戦となり、さらに義経が平家軍の水子・舵取りを射させて混乱させ、戦況は逆転。源氏が優勢になるにつれ、平家から源治へ裏切るものが相次ぎました。平家きっての武将、平教経は、義経を討とうとして追い詰めましたが、俗にいう「八艘飛び」で味方の船に逃れ、果たせませんでした。敗戦を覚悟した二位の尼は、源氏が奪還を狙う三種の神器を身につけ、「海の底にも都はあります」と8歳の安徳天皇を抱いて海峡に身を投じました。後を追った帝の母健礼門院は助けられて囚われの身となりました。勝敗がついたのは午後4時、知盛はじめ主だった武将は一門の最期を見届けると、次々に入水しましたが、平家の総帥、宗盛親子は捕虜となって戦いは終わりました。関門海峡には、ただおびただしい平家の赤い旗印が漂うばかりでした。栄華を極めた平清盛の一族は歴史上からその姿を消し、再び表舞台に立つことはありませんでした。


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より
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Posted on 2019/11/13 Wed. 10:10 [edit]

category: 下関あれこれ

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