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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

あなたの頭上に桜前線【火の山公園他】 

あなたの頭上に桜前線【火の山公園他】


桜前線北上…
長崎県を基点として北上を続けている桜前線は、(四月初旬)下関に立ち止まって、一枝ごとに桜の花を咲かせています。

花見に出かけられる方のために、市内の桜名所を紹介しましょう。

戦前から桜名所といえば、日和山公園、椋野の関山ガーデンでしたが、今では、火の山公園、老の山公園、長府の神戸製鋼所前の桜並木、東行庵自然公園と、新名所も増えています。

伝統のあるのは、何といっても、昭和二年に完成した日和山公園で、桜の名所として、市の内外からたくさんのお客さんが訪れました。
当時植えられた桜は古木となり、現在は、その後植え替えられたヨシノ桜250本があります。
火の山にもヨシノ桜227本があります。
普通、桜の色は白色からやや濃い桃色までが多いようですが、火の山には、花の色が黄緑色になる珍しい「うこん桜」もあります。
また火の山遊歩道を歩かれる方は、途中の「桜広場」「桜の苑」でゆっくり花見をされるのもよいでしょう。
老の山には、ヨシノ桜249本のほか、オオシマ桜など32本があります。
火の山、老の山ともまだ若木ですが、これから年数がたつにつれて見事な桜名所となるでしょう。
もう一ヶ所の神戸製鋼所前の122本の桜は、見ごたえがあります。
桜の花たちは、車の排気ガスにもめげず華やかに春を演出しています。


下関市教育委員会編「わがふるさと見て歩き」昭和58年発行
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Posted on 2019/11/10 Sun. 09:52 [edit]

category: わがふるさと見て歩き

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下駄ばきぶらたん あとがき 

下駄ばきぶらたん あとがき

ある日ある時、ひとは、何の理由もなく、ただ、ぶらっと歩いてみたくなることがある。
それでいて、いざ出かけてみると、ひとは、どこへというあてもないことに気づくのだ。

そんな時、汽車やバスに乗ってみるのもいいだろう。
デパートや商店街でのウィンドショッピングも楽しいに違いない、
だが、たまに趣向を変えて市場の雑踏に紛れ込んだり、城壁のように連なる石垣の狭間を散策したり、お寺の山門に佇ってみると心安まることがある。

それは他でもない。
自分たちの住んでいる最も身近な土地を歩いているというという実感と、見覚えのある辻々に思わぬ風景を見出す喜びが味わえるからだ。

もともと山歩きの好きな話は、少年の頃から暇さえあれば、氣のむくまま足の向くままに、よく歩いた。
小さな丘から眺める海峡の白い軌跡、坂道を登り降りするたびに大きく小さく変化する対岸の企救山塊、峠を越えようとした途端に目に飛び込んできた水平線上の真っ赤な夕陽、それらの一つ一つに私は驚きの声を上げながら歩いた。

だから、この書は観光案内書ではなく、私自身の散歩の手引きのようなものである。

出版社の意向としては、地図と磁石と赤鉛筆を持って自由に歩いてみることのできるオリエンテーリングのような内容を期待したようであるが、車洪水の市街地散策は山野徘徊のようなわけにはゆかない。

私は十数年前に、新聞、機関紙、雑誌などに「ひとりぶらたん」「ゆめぐりぶらたん」「かんもんぶらたん」と、一連の紀行案内らしきものを連載した。
この書もそれにあやかって「下駄ばきぶらたん」としてみたが、あくまでも、ふらっと出かけて、のんびりぶらぶら歩いてみる、といった軽い気持ちに発している。

一応、「下関駅周辺」としたものの了円寺から入江口までを範囲内とし、旧山陽の浜、細江の船溜まり、萩本藩の新地会所跡、戦時中の新幹線たる弾丸列車計画用地(桜山)などは省いた。
また、ロッキード問題に比較されるシーメンス事件の裁判を担当した内田重成中尉の碑(桜山神社内)や、豊前田町出身で神田墓地に眠る山口孤剣なども素通りすることにした。
孤剣の墓にはこう刻んである。

孤剣君、本姓は福田、実名は義三、下関が産出したる最大最初の社会主義者、熱血熱涙、能文雄弁、大正九年九月二日歿す。
年三十八、十三回忌に際してこの墓を建つ。
堺利彦 識。

ところで、この稿を綴るにあたり多くの寺院や神社を訪ね、境内の石文や墓碑銘、辞世句などについて教えを乞うたが、満足な回答はほとんど得られなかった。
住職も神官もそれらの刻字を読めないのである。
また、辞世句を彫りつけた墓の存在てへさえも知らない僧侶にも何人かお会いした。
年代を経るごとに風化していく石文の文字くらいは、それが建つ境内の主が記録してしかるべきではないか、と私は何度も思った。

それから、光明寺、三連寺、妙蓮寺、了円寺などは、幕末攘夷戦の際に諸隊の屯所や血の争いなどで知られているが、それらを記した案内板がなく、些か寂しい。
これは、城下町長府にくらべて、やや片手落ちではないか、と思わずにはいられない。

さて、八月を終わる日、赤間関書房主と岸勤氏と私、それに中学二年になる私の長男を加えて、この書のコースを歩いてみた。

伊崎の旧道にシトミ戸の他にも唐様建築を施した民家が残っていたり、海から遠い了円寺近くに海触の跡を発見したりして楽しい半日であった。
その時、岸氏は、井上靖が小説「氷壁」を連載中に、毎朝、生沢朗の挿絵を見るのが楽しみで、配達を待ちかねて急いで新聞を開いたというが、そのような絵を私も書きたいものです、と言われた。

拙い文章に汗顔しつづけの私は思わず肝を冷やしたが、学期初めのご多忙と、運動会、文化祭などの準備に追われる中で、素晴らしい絵を描いてくださった。
ちなみに同氏は、下関商業高校の教諭でモダンアート協会の会員でもある。
ここに記して感謝の意としたい。

ところどころに配した概念図はその標題に関する周辺図だが、あまり詳しくは描いていない。
それは前述の通り、出版元の意向がオリエンテーリングの形を目指していたため、少しでもそれに近づきたいと思ったからである。
東西南北も明示せず、大きな通りや鉄道だけを中心にして、起伏も曲折も無い平面的な図で、その上、誰でも知っているようなデパートやスーパーなど以外のすべての店舗の名称を省いた。
つまり、読者諸賢は極めて判りにくい不親切な案内図によって散策させられそうだが、これはほんの一例にすぎず、何もこの通りに歩いて欲しいと言っているわけでは決して無い。

そぞろ歩きの散歩に、理屈はいるまい。
ともあれ、この書を企画された藤野幸平氏の意に沿いえたかどうか一抹の不安を抱きながらの欄筆をご寛恕願いたい。

昭和五十一年 秋分の日しるす   著者


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2019/11/10 Sun. 09:40 [edit]

category: ぶらたん

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金子みすゞとは 

金子みすゞとは

金子みすゞ(本名テル)は、明治36年(1903)、山口県大津郡仙崎村(今の長門市仙崎)に生まれ、大正12年(1923)、20歳の時に母の再婚先である下関の上山文英堂本店に移り住み、詩を書き時始めました。わずか5年間に、万物へのやさしさを込めた512編の作品をつづり、若き童謡詩人の巨星として注目されながらも、26歳で亡くなりました。「すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい。」「こだまでしょうか、 いいえ、だれでも。」という有名なフレーズに代表されるみすゞの清廉な詩は、世代を超えて、現代の人々の心に響き、感動を与えています。

金子みすゞの光と影

大正時代末期は、「赤い鳥」、「金の船」、「童話」などの童話童謡雑誌が隆盛を極めていた時代でもありました。
そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。少女時代のみすゞは、成績優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に作品を投稿し、そのすべてが掲載されるという鮮烈なデビューを飾り、「童話」の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。しかし、文壇での輝きと相反するように、その生涯は明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、離婚と苦しみが続きました。そしてついには、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。その中で彼女の残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より
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Posted on 2019/11/10 Sun. 09:22 [edit]

category: 下関あれこれ

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